アケメネス朝ペルシア帝国の創立者。在位,前559-前530年。カンビュセス1世の子。まず前550年にメディアのアステュアゲスを破ってイラン高原の覇権を確立。次いで前547年にリュディアのクロイソスに対して遠征をおこない,サルディスを占領したのち,イオニアのギリシア諸都市を征服した。その後,前539年に新バビロニアに侵入したペルシア軍は,ナボニドスに反対するマルドゥク神殿の神官に迎えられてバビロンに入城し,キュロスは西アジア世界を包括する帝国支配者となった。前530年に中央アジアの遊牧民マッサゲタイと戦って倒れた。彼は本国ペルシアのパサルガダエに都城を造営し,彼の墓も同地にのこされている。キュロスはペルシア人から〈父〉,ギリシア人から理想の王者とみなされ,またユダヤ人からバビロン捕囚の解放者として〈受膏者クロス〉と呼ばれた。それは彼の人格とともに,彼の帝国支配がゆるやかな同君連合国家の形態をとり,諸民族の自治を尊重したことと関連するであろう。
執筆者:佐藤 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
(在位前559~前530)
アケメネス朝の創始者。大王と呼ばれる。短期間にメディアとリュディア王国を征服し,前539年にはバビロンを開城,翌年にはユダヤ人を捕囚より解放するなど,支配下の諸民族の融和に努め,帝国の基礎を築いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…彼はギリシアの神々,とくにデルフォイのアポロンに多くの供え物をささげた。彼の義兄弟のメディア王アステュアゲスを王位から追ったペルシア王キュロス2世を討つべく神託をうかがい,それにまどわされてペルシア遠征におもむいたが,敗れて捕らわれの身になった。そののちの彼の運命は伝説のテーマになり,ヘロドトスの《歴史》(第1巻)に詳しく物語られている。…
…ギリシア名パサルガダイPasargadai。同帝国の創立者キュロス2世(在位,前559‐前530)が造営した。同王はこの地に,大庭園,二つの宮殿(謁見宮殿と王の住居),1対の拝火壇,王墓,宝庫,方形建物などの石造建築を造った。…
…その後6年間に3度も王の交代を経験した後,同王朝最後の王ナボニドス(前555‐前539)の時代になる。彼は不振の王国を建て直そうとするが,10年にわたるテイマ滞在や月神重視政策がマルドゥク神官団の反感を買い,彼らによって解放者として迎え入れられた新興アケメネス朝ペルシアの王キュロス2世により王位を奪われてしまった。こうしてバビロニア史未曾有(みぞう)の栄華を極めた新バビロニア時代は,わずか90年足らずでその歴史を閉じた。…
…パールサにおいてエラム,次いでメディアに服属した。 前550年,キュロス2世はメディア王国を打倒してペルシアの独立を果たした。彼はそれと同時に,高原のイラン諸族の利害を代表していたメディア王国の政治目的を継承することになった。…
…彼ののち国は衰え,ナボニドスの治下,ペルシア軍により滅亡した。新バビロニア
[アケメネス朝ペルシア]
アーリヤ系ペルシア人はイラン高原に勢力を得て,キュロス2世のとき姻戚関係にあったメディア王を破り,都をパサルガタエからエクバタナへ移す。キュロス2世は前539年新バビロニアを破り,バビロニアを属州とした。…
※「キュロス二世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加