グレコ(読み)ぐれこ(その他表記)El Greco

翻訳|El Greco

デジタル大辞泉 「グレコ」の意味・読み・例文・類語

グレコ(El Greco)

エル=グレコ

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精選版 日本国語大辞典 「グレコ」の意味・読み・例文・類語

グレコ

  1. ( El Greco エル━。スペイン語でギリシア人の意。本名はドメニコス=テオトコプーロス ) スペインの画家。ギリシア出身。大胆な構図と光沢のある色調による独自の宗教画を描き、ルネサンスとバロックとの橋渡し的役割を果たした。「オルガス伯の埋葬」「聖マウリティウスの殉教」「聖家族」など。(一五四一‐一六一四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「グレコ」の意味・わかりやすい解説

グレコ(El Greco)
ぐれこ
El Greco
(1541―1614)

16世紀スペイン最大の宗教画家。本名はドメニコス・テオトコプーロスDomenikos Theotokopoulos。クレタ島のカンディア(現、イクラリオン)に生まれたのでエル・グレコ(ギリシア人の意)の通称で知られる。父は、当時のクレタの支配者ベネチア共和国の徴税吏。1566年のカンディアの記録によるとすでに職業画家(マエストロ)となっており、金地の受難図を売った記録やベネチア時代の小品をも考慮に入れると、ポスト・ビザンティン様式のイコンの画家であった可能性がある。1566~1567年ころにベネチアに渡り、1570年にはローマへ、そして1576~1577年にはスペインに現れてトレドに定住、ここで生涯を終えた。

 後年の相次ぐ新資料の発見や研究によって、イタリア時代のグレコが、ティツィアーノティントレットバッサーノコレッジョラファエッロミケランジェロなどの作品から多くを学んで西欧画家としての芸術形成を遂げる一方、ローマのファルネーゼ枢機卿(すうききょう)邸で、マニエリスム芸術論と新プラトン主義に通暁したウマニストとして形成されたこと、さらに、スペイン・カトリックの総本山のあるトレドに定住後は、大聖堂の有力者で、当時のヨーロッパでも最高レベルの知識人でもあった人たちをパトロンとして、トリエント公会議(1545~1563)後の、カトリック教会による対抗宗教改革運動を代表する宗教画家となったことが明らかになりつつある。

 グレコの色調と技法は、終生ベネチア派とイタリア・マニエリスムにとどまった。しかし、彼の宗教画特有の対抗宗教改革的な主題解釈(無原罪のマリア礼賛や、聖フランチェスコ、聖ペトロ、聖女マグダラのマリアなどの聖人悔悟図)、奥行のない垂直的な画面構成、激しい明暗の対比、炎のようにゆらめく長身化された人物像、不思議な燐光(りんこう)色、それらが混然と織り成す神秘的な擬似空間などが現れるのはトレド定住後のことである。その分岐点は、彼の最高傑作『オルガス伯の埋葬』(1586~1588)で、地上の埋葬場面に並ぶリアルな肖像画群に対し、天上界やその住人たちの描き方は、スペイン時代のグレコ宗教画の完成を示している。そこには、ギリシア人グレコが血のなかにもつ東方的神秘主義が、トレドという彼の生地に類似した環境のなかでふたたび頭をもたげたとも考えられる。こうした「スペイン化」の傾向は時とともに強まり、1600年に完成したマドリードのドーニャ・マリーア・デ・アラゴン学院の祭壇衝立(ついたて)(「受胎告知」中心の6枚のキリスト伝)において、天上的狂乱ともいえる神秘主義の極致に達した。この画風は長い間理解されなかったが、19世紀末から主観主義絵画の先駆者として再評価されている。また『胸に手を置く騎士』(1580ころ)、『修道士パラビシーノ』(1609ころ)などの肖像画群によってスペイン肖像画の先駆をなし、彫刻も手がけ、祭壇衝立という範囲での建築家でもあり、未発表ながら建築論や絵画論を著したと伝えられる偉大な「哲学者」(パチェーコ)でもあった。

[神吉敬三]

『レオ・ブロンスタイン解説、瀬戸慶久訳『エル・グレコ』(1969・美術出版社)』『吉川逸治解説『世界美術全集14 エル・グレコ』(1976・集英社)』『藤田慎一郎・神吉敬三執筆『カンヴァス世界の大画家12 エル・グレコ』(1982・中央公論社)』



グレコ(Juliette Gréco)
ぐれこ
Juliette Gréco
(1927―2020)

フランスのシャンソン歌手、女優。2月7日南フランスのモンペリエに生まれる。7歳からパリで育った。第二次世界大戦中、母がレジスタンス運動で捕らえられて強制収容所に入れられ、15歳の彼女は1人で生きることになる。戦後サン・ジェルマン・デ・プレの地下酒場に出入りするうち、「実存主義のミューズ」と騒がれ、新聞や雑誌に載った。その人気に目をつけたキャバレーの経営者にくどかれて、1949年歌手としてデビュー。長い髪、黒一色のドレスでものうげに歌う彼女は一夜にしてスターになった。1951年ドービルのコンクールで『私は日曜日が嫌い』を歌ってエディット・ピアフ賞、1952年『ロマンス』でディスク大賞を受賞し、名声を確立した。フランス語のニュアンスを生かした詩的な唱法は定評がある。またジャン・コクトー監督の映画『オルフェ』(1949)以来映画にも出演した。1961年(昭和36)初来日。

[永田文夫]

『ジュリエット・グレコ著、中村敬子訳『グレコ 恋はいのち』(1984・新潮社)』


グレコ(Emilio Greco)
ぐれこ
Emilio Greco
(1913―1995)

イタリアの彫刻家。シチリアのカターニアに生まれる。初め石工の徒弟として古代彫刻の模刻などに従事するが、1933年シチリア地方美術展に出品して彫刻家としてデビュー。56年ベネチア・ビエンナーレで彫刻大賞を獲得するころから、現代イタリア彫刻の代表的作家として世界的に評価される。エトルリアテラコッタ、ローマの肖像彫刻などに造形の源泉を求めるが、とくに裸婦像においてはきわめて近代的な線により溌剌(はつらつ)としたエロティシズムを表現。代表作にバチカンの『法王ヨハネス23世のための記念碑』など。ブロンズ作品は京都国立近代美術館をはじめ、日本にも多い。

[小川 煕]

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改訂新版 世界大百科事典 「グレコ」の意味・わかりやすい解説

グレコ
El Greco
生没年:1541-1614

16世紀スペイン最大の画家。本名はドメニコス・テオトコプロスDomēnikos Theotokopoulos。クレタ島のカンディアに生まれたところからエル・グレコ(ギリシア人の意)の通称で知られる。1566年のカンディアの記録にはすでに職業画家(マイストロ)とあり,ポスト・ビザンティン様式のイコンの画家であったと思われる。1566-67年ころにベネチアに渡り,70年にはローマへ,そして76-77年にスペインに移ってトレドに定住,ここで生涯を終えた。最近の相次ぐ新資料の発見や研究によって,イタリア時代のグレコが,ティツィアーノ,ティントレット,バッサーノ,コレッジョ,ミケランジェロなどの作品から多くを学んで芸術形成をとげたのはもちろん,マニエリスム芸術論と新プラトン主義に通じたウマニスト(人文主義者)として形成されたこと,そして,スペイン・カトリックの大本山があるトレド定住後は,教会の有力者であると同時に当時最高の知識人であった人たちをパトロンに得て,トリエント公会議(1545-63)後の,プロテスタンティズムに対するカトリシズムによる対抗宗教改革のもっとも代表的な画家となったことが明らかになりつつある。グレコの色調と技法は,終生ベネチア派とイタリア・マニエリスムにとどまったといえる。しかし彼の宗教画特有の対抗宗教改革的な主題解釈(無原罪のマリア礼賛や諸聖人の図像),画面を支配する奥行きのない垂直的な画面構成,激しい明暗の対比,炎のようにゆらめく長身化された人物像,それらが混然と織り成す神秘的な疑似空間などが現れるのはトレド定住後で,そうした〈スペイン化〉は年とともに強化され,神秘的なグレコ絵画が成立するのである。グレコはまた,その写実的な肖像画群でスペイン肖像画の先駆をなしたばかりか,彫刻も手がけ,建築論や絵画論を残したことが記録されている。
執筆者:


グレコ
Juliette Gréco
生没年:1927-

フランスの女性シャンソン歌手。モンペリエに生まれ,7歳でパリに出る。母や姉がレジスタンス運動でナチスの収容所に送られたため15歳で自立。第2次世界大戦後,黒のセーターにズボンという姿で実存主義者のマスコットとして話題になり,人前で歌い始め,1951年に《私は日曜日が嫌い》をドービル・コンクールで歌い,エディット・ピアフ賞を,52年《ロマンス》でディスク大賞を獲得して名声を確立した。歌手としてだけでなく,1956年の《恋多き女》など映画にも出演して成功を収めた。歌詞に重きを置いた知的なシャンソン歌手として,男性のイブ・モンタンと並び戦後の最大のスターの地位を守り続けている。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「グレコ」の意味・わかりやすい解説

グレコ

本名ドメニコス・テオトコプロス。スペインの画家。ギリシアのクレタ島に生まれ,エル・グレコ(ギリシア人の意)と通称された。1565年,ベネチアに出て,ティツィアーノティントレットから大きな影響を受けた。1577年以後スペインのトレドに定住し,その間エル・エスコリアルの装飾も手がけた。時代的にはマニエリスムに属するが,色彩,構図,着想などの点できわめて神秘的な特色に富んでいる。代表作に《オルガス伯の埋葬》(1586年―1588年,トレド,サント・トメ聖堂蔵),《ラオコーン》(1610年―1614年,ワシントン,ナショナル・ギャラリー蔵),《トレド風景》(1600年ころ,ニューヨーク,メトロポリタン美術館蔵)などがある。
→関連項目黄金世紀シカゴ美術館スロアーガトレドプラド美術館メトロポリタン美術館

グレコ

イタリアの彫刻家。シチリア生れ。13歳で墓石工の徒弟となり,古代彫刻の修復や模刻をする。彫刻はほとんど独学。1946年ローマで開いた個展で認められた。単純化された軽快で躍動的な女性像で知られる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「グレコ」の意味・わかりやすい解説

グレコ
Gré co, Juliette

[生]1927.2.7. モンペリエ
[没]2020.9.23. ラマチュエル
ジュリエット・グレコ。フランスのシャンソン歌手,女優。『私は私』Je suis comme je suis(1951)で注目されて以来,歌手として約 70年のキャリアを築き,『パリの空の下』Soul le ciel de Parisや『枯葉』Les Feuilles mortesなどのカバー曲もヒットさせた。黒い衣装をまとってうたい,「サン・ジェルマン・デ・プレの女神(ミューズ)」と称されるなど,第2次世界大戦後のフランスの,自由を愛する知的文化のアイコン的存在となった。コルシカ島出身の父親とボルドー地方出身の母親との間に生まれた。大戦時,レジスタンス活動に身を投じ,逮捕・投獄される。数ヵ月後に釈放されたが,このときの経験が表現者としての活動に大きな影響を与えた。哲学者ジャン=ポール・サルトルは「グレコの声には百万の詩がある」とたたえ,ジャズトランペット奏者のマイルス・デービス,映画プロデューサーのダリル・F.ザナック,詩人のジャック・プレベール,小説家のボリス・ビアンなど名だたる芸術らと交流した。1950年代から 1960年代にかけて『恋多き女』Elena et les Hommes(1956),『陽はまた昇る』The Sun also rises(1957),『悲しみよこんにちは』Bonjour Tristesse(1957),『自由の大地』The Roots of Heaven(1958)など数多くの映画にも出演した。日本には 20回以上訪れ,公演を行なった。

グレコ
Greco, José

[生]1918.12.23. イタリア,モントリオネイフレタニ
[没]2000.12.31. アメリカ合衆国,ペンシルバニア,ランカスター
スペインの舞踊家。世界で最も有名なフラメンコ・ダンサー(→フラメンコ)の一人で,舞台,映画,テレビで活躍した。1943~45年ラ・アルヘンティニータの最後のパートナーを,1946~48年ピラール・ロペスのパートナーを務めた。その後自身の舞踊団を組織し,アメリカ合衆国,ヨーロッパ各地を巡演,フラメンコと伝統的なバレエの融合に貢献した。『80日間世界一周』(1956)などの映画にも出演した。1962年,スペイン政府からカバレッロ(騎士)の称号を授与された。(→スペイン舞踊

グレコ
Greco, Emilio

[生]1913.10.11. カタニア
[没]1995.4.5. ローマ
イタリアの彫刻家。パレルモの美術学校で学んだのち,1933年からローマで展覧会に出品,46年の最初の個展で好評を得る。初期はおもに肖像を制作したが,やがて優雅なポーズのすらりとした女性裸体像の制作に専念した。作風は古典的で抒情性に富む。代表作『水浴する女』 (1958) 。

グレコ

「エル・グレコ」のページをご覧ください。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「グレコ」の解説

グレコ
El Greco (本名 Domēnikos Theotokopoulos)

1541~1614

クレタ島生まれのスペインの画家。イタリアでヴェネツィア派に学び,1577年以来トレドに定住。激しい明暗の対比,顔や姿の歪形,神秘的な色彩などで独自の画風を開いた。宗教画,肖像画が多い。代表作「オルガス伯の埋葬」「聖母昇天」「自画像」など。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「グレコ」の解説

グレコ

エル=グレコ

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世界大百科事典(旧版)内のグレコの言及

【スペイン美術】より

…同様の傾向がトリエント公会議によってカトリック世界の公式態度となった後にスペインに現れた。それがエル・グレコである。彼は,クレタ島に生まれ,ポスト・ビザンティン様式の画家として形成されたと思われる。…

【トレド】より

…しかし,77年ころ一人の外国人画家がこの都市に住みついた。エル・グレコである。クレタ島生れの彼の中にある神秘主義は,16世紀カスティリャ社会の高揚した宗教感情とトレドにおいて深く結びつき,いまに残る数多くの傑作として結実した。…

【マニエリスム】より

…ベロネーゼもまた,大胆な仰角法や人工的な色彩を用いたものの,終始ルネサンス的現実性から離れることはなかった。一方,1566‐67年ベネチアですごしたギリシア人画家エル・グレコには,明らかな非合理性,空間の無視,人物の歪曲,神秘主義がみとめられる。またティントレットは,光と闇,強い色彩,意表をつく角度や,極端な左右不均衡の構成を用いることで,合理性と自然らしさの限界をつき破り,主観的表現の深みに達した。…

※「グレコ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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