インド・ヨーロッパ諸族の一派。紀元前5世紀から前1世紀にヨーロッパ中部および西部で活躍した民族。ギリシア語でケルトイ、ガラトイ、ラテン語でケルタエ、ガリイ(ガリア人)とよばれた。
[長谷川博隆]
原住地、起源については議論があるが、南西ドイツ、スイス、東フランスの青銅器文化の担い手であり、初期鉄器時代のハルシュタット後期、後期鉄器時代のラ・テーヌ最初期に、シャンパーニュ、ザール、モーゼル、中部ライン地方において、民族としてのケルト人が形成されたと思われる。なお、ギリシア、エトルリア文化との交流も明らかな北西アルプス地方のハルシュタット文化は、彼らが担ったと推定される。ついで、前5世紀の、初期ラ・テーヌ時代のシャンパーニュ、中部ライン地方の貴族の墳墓および出土品は、初期ケルト美術の精華を示してくれる。
[長谷川博隆]
(1)「西方のケルト人」 イタリアに侵入したケルト人は、前387年(または390年)のアッリアの勝利後、ローマを荒らし(ケルト人の侵寇(しんこう))、その後、北イタリアのアドリア海岸に定着した。一派のインスブレス人はメディオラヌム(ミラノ)を首邑(しゅゆう)とし、ボイ人はエトルスキの町フェルシナをボノニアとした。またアドリア海岸にはセノネス人が定住する。前293年にローマ軍に敗れたのちは、北イタリアのケルト勢力も衰えたが、ローマも各地に植民市を設けてこれに相対した。ケルト人のスペインおよびブリテン島侵入の時期については諸説あるが、ラ・テーヌ期にさかのぼると推定される。ガリアの地の大部分のケルト化も進み、イベリア半島では、先住のイベロ人と混血してケルト・イベロ人が形成され、一方、大陸からのたび重なるケルト人の渡来によりブリテン島のケルト化も進み、現在でも、アイルランド語、スコットランド・ゲール語、ウェールズ語として、ケルト語は生き続ける。(2)「東方のケルト人」 前4世紀ごろ、一派はボヘミア(ボイ人からきた名称)、モラビア、ハンガリーを経てルーマニア北部に入り、他の一派はノリクムを経てダルマチアに移動した。前279年ごろにはデルフォイを侵寇している。北に転じた一派はシンギドゥヌム(ベルグラード)を建て、別の一派はトラキアに入って王国を建設し、その影響力は南ロシア平原まで及び、ケルト、スキタイ混交文化も生まれた。さらに、小アジアのビテュニアの王位継承に干渉した一派は、その後、前3世紀初めフリギア高原に定着し、ガラティアとよばれる地域をペルガモン王から与えられ、小アジアの地にケルト人社会の伝統を保持し続けた。
[長谷川博隆]
前1世紀には、いわゆるオッピドゥム(城市)文化が中部ヨーロッパの戦士、農耕民のケルト人の世界に確立した。しかし、カエサルのガリア戦争に対して続けられた自由を求める闘争も、前52年に終止符を打ち(ウェルキンゲトリクスの率いる大蜂起(ほうき))、前16~前10年には、大陸の最後のケルト人の拠点もローマの支配下に入り、ケルト人の地、ガリアは完全にローマ化する。
[長谷川博隆]
ガリアやブリテン島では、政治的には、段階的なクリエンテス制(上下の保護隷属関係)に基づく一種の貴族制的体制が保たれたが、ついに統一国家を形成することはなかった。経済的基盤は、古くは血縁的な共同体に属する土地にあり、貨幣の鋳造も行われた。一般に、ケルト人の世界は、王、神官、戦士貴族および自由農民からなったが、城市や貴族の墳墓の発掘によって、その社会構成も明らかにされつつある。城市の建設、商・工業の発展によって貴族の権力が確立、伸長してゆくが、それとともに神官(ドルイド僧)層の力も、宗教、文化、政治に及んでゆく。ドルイド教の教義、儀式は、文字化されず口伝によるため、ギリシア・ローマ人の叙述、遺物、伝承によって再構成せざるをえない。彼らは、インド・ゲルマン人的な宇宙神を中心とする独特の神の体系をもっていたと推定されるが、霊魂不滅を信じ、自然崇拝が盛んで、聖樹、聖獣、聖泉、聖山信仰などもみられた。抽象的、記号的性格の造形感覚をもち、その美術は、抽象文様、形態のリズム化を特徴とし、木偶(もくぐう)などの木彫、装身具・武具としての金工細工などに卓越した才幹を示した。
[長谷川博隆]
『ゲルハルト・ヘルム著、関楠生訳『ケルト人』(1979・河出書房新社)』
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インド・ヨーロッパ語族の一つ。人種的には一定しない。前10~前8世紀頃原住地のライン川,エルベ川,ドナウ川間から出て,前5~前4世紀頃ガリア,ブリタニアに広まり,前3世紀にはアナトリアにも至った。牧畜経済社会で,冶金術による鉄,そのほかの金属武器を使用し,好戦的。多数の首長制団体に分かれる。ガリアでは前1世紀,ブリタニアでは後1世紀にローマの支配下に入り,5世紀以降はゲルマン民族の圧迫を受けた。その言語・風習は,今日アイルランド,ウェールズ,ブルターニュに残存する。
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…中でもニューグレンジNewgrangeのそれは豊富な幾何学文装飾のゆえに名高い。青銅器時代に入り,その抽象表現は,金属という展延性をもつ素材によって大いに発達するが,その高度な開花をみたのはケルト人と共に到来した鉄器文化の時代であった。ローマ帝国の進出と共に大陸やブリテン島のケルト人がローマ化したのに対し,ローマ征服を免れたアイルランドのケルト人は,黄金やエマイユ(七宝)の色彩への興味とその抽象的造形本能とを保持し,いっそう展開させた。…
… グレート・ブリテン島にもともと住みついていたケルト系の民族と,北ヨーロッパ大陸から海を越えて侵入して来たゲルマン人(アングロ・サクソン人と呼ばれる)とは,はじめは対立抗争していたが,しだいに和解し融合していった。イギリス人といえばすぐにアングロ・サクソン人と考えたくなるが,文化,芸術の面から見ると,先住民族ケルト人の果たす役割が非常に大きい。例えば,イギリスのみならずヨーロッパにまで広く及んでいる〈アーサー王伝説〉は,本来ケルト民族の生み出したものであり,それが地中海沿岸地方から渡来して来たキリスト教思想と混合して変質したと考えられる。…
… 前1000年,イベリア史は再び大きな変革期を迎える。ピレネー経由でケルト人が鉄器を携えて渡来し,後にギリシア人がイベレスと呼んだ半島先住民と混血した。同じ頃,南部沿岸には東方からフェニキア人が特にスズ(錫)を求めて来航,今日のカディスやマラガの前身を築いた。…
…古代ローマ人が〈ガリGalliの居住地〉に与えた名称で,ガリとは,ギリシア人がケルタイと呼んだケルト人のことである。フランス語,英語ではゴールGaule,Gaul。…
…ガリア北東部のライン左岸,ラインラントのローマ化はカエサルによる占領に始まった(前58‐前51)。ラインラントからベルギーにかけては,トゥングリ,トレウェリおよびネルウィイなど,ケルト人と混血した〈ライン左岸のゲルマン人Germani cisrhenani〉が定住し,アルザスからブルゴーニュ東部では,ヘルウェティイ,ラウラキおよびセクアニなどのケルト人に占められていた。皇帝アウグストゥスのガリア行政区の設定(前16)では,属州ゲルマニアはいまだ存在しないが,彼の軍事行動はライン川を越えてエルベ川まで延び,兵站(へいたん)基地のラインラントのローマ化を促した。…
…このような民族移動にともなう地名の歴史的層序は,島嶼(とうしよ)国で数度の移動の波が及んだイギリスで特に顕著に読みとれる。 イギリスに明瞭な最古の地名を残したのはケルト人であり,多くの地域にまたがるゆえに単一の定住者の従属物でない河川名(例,エーボン川),長く定住者をひきつけなかった丘陵名(例,モルバーン丘陵)に古いケルト地名が残存している。ケルト人のイギリスを征服したローマ人の場合は,その支配の性格から都市名にいくつかの痕跡を残し,ラテン語のcastra(陣営),colonia(植民市)に由来するチェスターChester,リンカンLincolnなどが誕生した。…
…古代のケルト人の信仰をつかさどった聖職者,司祭階級。前7世紀ころから明確に姿を現す。…
…メンヒルやドルメンに代表される巨石記念物は彼らの所産であり,その分布状態からも,彼らがガリア諸地域に広範に定着していたことがわかる。 フランス人がしばしば自分たちの最も古い祖先と考えているケルト人は,実は,前9世紀ころより,ドナウ川流域から移動してきた新しい集団であった。彼らは優れた鉄器文化をもち,前5世紀ころには,ラ・テーヌ文化の名で知られる最盛期を現出した。…
…インド・ヨーロッパ語系諸族のうちのケルト人の一派でキムリ人Cymryともいう。前4~前2世紀にヨーロッパ大陸からグレート・ブリテン島南部に移動し,多数の小部族王国をつくって定着した。…
…この巨石文化は,アイルランドやウェールズから大西洋岸沿いに南下し,地中海にまで及ぶ広大なひろがりをもつものであるが,ブルターニュは,その豊かな遺跡群を今日にまで伝える最も重要な地方の一つである。 ブルターニュに深い痕跡をとどめることになるケルト人がこの半島にまでやって来たのは,はるかのちの前6世紀のことであった。ここにケルト時代が始まるわけであるが,誤解されてはならないのは,このケルト文化が,そのまま中世にまで続いたのではないことである。…
…〈ゼウスは嘆願者とよそから来た者のための報復者で,旅人の神,敬虔な旅人を見守りたまう神〉(同),〈他国の人の守り神なるゼウス〉(同),〈神々は異国の人に身を変え,ありとある様に身をやつして,人間の非望と分別とを取調べに町々を歩き回る〉(同)。 ケルト人における旅人の接待についてとくに特徴的なことは,その共同体的な性格である。ケルト社会では王・族長は,親族的なものと信ぜられた共同体の長であり,彼らは族民を支配するが,同時に共同体成員の困窮者を扶養する義務を負い,しばしば定期的な宴に族民を招待しなければならなかった。…
…1857年,鉄製の武器や装身具など多量の遺物が発見された,スイスのヌシャテル湖北岸のラ・テーヌLa Tène遺跡によって命名された。ギリシア,ローマの古典時代作家の記録や,カエサルの《ガリア戦記》に登場するケルト人の残した文化とされている。 この文化に特有の遺跡としては,初期に多い首長墓と,後期に属するオッピドゥム(オピドゥム)oppidumがある。…
※「ケルト人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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