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コルベール Colbert, Jean-Baptiste

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

コルベール
Colbert, Jean-Baptiste

[生]1619.8.29. ランス
[没]1683.9.6. パリ
フランスの政治家,財政家。ルイ 14世親政下の財務総監として重商主義的政策 (→コルベールティスム ) を推進した政治家として知られる。ランスの毛織物商人の家に生れる。 J.マザランに仕え,その死後,政敵 N.フーケを失脚させ 1665年財務総監となる。経済先進国オランダに代る近代植民帝国を構想した。そのためリシュリュー以来の集権的官僚制を整備し国家権力の強化をはかった。この国家集権力をもとに,輸出増と輸入制限の保護関税,特権マニュファクチュール,国営工場の創設,農業の奨励 (農民の保護,品種の改良,作物栽培の促進) など国内産業育成政策,海外植民活動拡大政策 (カナダへの移民の奨励) をとった。また商工業の発展を基礎とする間接税重点政策によって国家財政安定に努力した。一方 68年には海軍卿となり,フランスの海上勢力の復興に努めた。また 69年より国務卿として国内の知的・芸術的活動に心を配り,文芸院,科学院,王立建築家協会などを設立した。しかし高関税に基づく極端な保護貿易政策はオランダ戦争勃発の一因となり,戦争の結果はコルベール構想を挫折させ,ルイ 14世にうとんじられ失意のうちに没した。

コルベール
Colbert, Claudette

[生]1903.9.13. フランス,パリ
[没]1996.7.30. バルバドス,コブラーズコーブ
アメリカ合衆国の舞台・映画女優。本名 Lily Claudette Chauchoin。1910年頃,家族とともにニューヨークに移住。服飾デザインを学んでいた 1923年,端役でブロードウェーの舞台に立った。1927年の舞台 "The Barker"でカーニバルのヘビつかいを好演し,スター女優として台頭。このとき共演したノーマン・フォスターと 1928年に結婚したが,1934年に離婚。翌 1935年には医師と再婚したが,1968年に死別している。無声映画『力漕一挺身』For The Love of Mike(1927)で映画デビューを果たしたが,最大の魅力である声を聞かせられないことに落胆し,すぐに舞台に戻った。1929年,トーキーの『壁の穴』The Hole in the Wallで映画界に復帰。1934年にはセシル・B.デミル監督の大作『クレオパトラ』Cleopatra,およびロマンチック・コメディの傑作『或る夜の出来事』It Happened One Nightに相次いで主演し,女優として飛躍を遂げた。『或る夜の出来事』では駆け落ちする富豪令嬢役の名演が称賛を浴び,アカデミー賞主演女優賞に輝いた。プロ意識の強い女優としても知られ,写真は顔の左側からしか撮影させなかったという逸話は有名。1989年ジョン・F・ケネディ・センター名誉賞を受賞。

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デジタル大辞泉の解説

コルベール(Jean-Baptiste Colbert)

[1619~1683]フランスの政治家・財政家ルイ14世に仕え、財政改革を行い、国内商工業の育成、植民地獲得、海軍増強などの重商主義政策を推進。この政策によりフランスは、イギリス・オランダと対抗しうる強国となった。

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百科事典マイペディアの解説

コルベール

フランスの政治家。商家の出身で初めマザランの家令。ルイ14世親政下に1665年以降財務総監その他の要職を兼ね,外交・軍事以外の全行政に関与した。その重商主義政策は〈コルベルティスム〉の名で知られ,徹底した保護貿易政策,東西両インド会社の設立,海運業の振興,国内基幹産業部門での特権マニュファクチュア設立,一般産業に対する統制強化を内容としている。
→関連項目アカデミー・デ・シアンスカロンル・ブランルーボア

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デジタル大辞泉プラスの解説

コルベール

《Colbert》フランス海軍の装甲艦。1875年9月竣工、1876年就役。木造の装甲艦で、排水量は約8,750トン。コルベール級の1番艦。同型艦に、トリダンがある。1910年退役。

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世界大百科事典 第2版の解説

コルベール【Jean‐Baptiste Colbert】

1619‐83
フランスの政治家。生家はランスの毛織物商であったが,後に財政事業にも関与し,政府要人に接触していった。初め陸軍局に入り,宰相マザランに認められ,彼を補佐して財務監督官の職をえた。財務長官フーケと対立し,その手続不備を公金横領と弾劾し,国王ルイ14世に報告して失脚させ(1661),国王の信をえてその後身たる財務総監contrôleur général des financesに任ぜられ,ル・テリエ,リオンヌHugues de Lionneとともに〈三頭支配〉をしく。

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大辞林 第三版の解説

コルベール【Jean-Baptiste Colbert】

1619~1683) フランスの政治家。ルイ一四世の財務総監として重商主義政策を推進。国家財政の確立、貿易・産業の振興を図る一方、アカデミーを創設し学芸保護にも熱意を示した。

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世界大百科事典内のコルベールの言及

【アカデミー・デ・シアンス】より

…ルイ14世の宰相J.B.コルベールの肝いりで1666年に創設されたフランスの科学アカデミー。フランス革命に際して1793年いったん廃止されたが,95年,フランス学士院の一部として復活し,名称も当初のアカデミー・ロアイヤル・デ・シアンスAcadémie royale des Sciencesから現在の名に変わった。…

【ゴブラン織】より

…また,すぐれた織匠だけではなく,すぐれた下絵画家の必要も叫ばれ,ルイ13世(在位1610‐43)時代には当代一流の画家S.ブーエが王の下絵画家に任命された。 62年,ルイ14世時代に,宰相コルベールはゴブラン家の館を王の名で買い取り,67年ここに王立家具製作所Manufacture des meubles de la Couronneを設立し,画家C.ル・ブランを総監督に任命した(ここでは,タピスリーばかりでなく,家具,金銀・宝石細工など王家用の調度品すべてが生産されることになった)。パリの各地に散在していたタピスリー工房はすべてここに集められ,ル・ブランの厳格な監督のもとにおかれ,徒弟のための学校も設置された。…

【サロン】より

…この名は,展覧会がルーブル宮殿の〈サロン・カレsalon carré(四角の間)〉で開かれたことに由来する。最初のサロンは,J.B.コルベールの発案によって王立アカデミーの主催で1667年に開かれ,以来2年ごとに行われたが,やがて不規則になり,1737年より再び隔年ないしは毎年開かれるようになった。出品者は17~18世紀を通じてアカデミーの会員か準会員,あるいは美術学校の教官に限られ,その範囲では自由に出品できたが,1748年より出品作の検閲が始まり,おもに道徳面でのチェックを行った。…

【ニューフランス】より

…第2期には,フランス首相リシュリューによって組織されたニューフランス会社の指揮の下に植民地の発展が期待されたが,これも進歩をみなかった。そこで第3期には,フランス蔵相コルベールの指揮の下に植民地はフランス国王の直轄するところとなり,総督,地方長官,司教の形成する地方政府の樹立とフランス正規軍の派遣が行われた。この第3期では,フロンテナク総督(1672‐82,1689‐98),J.B.タロン地方長官(1665‐68,1669‐72),F.ラバル司教(1659‐1688)らが実権を握った17世紀後半が最盛期とされる。…

【ローマ賞】より

…コルベールが創設したフランスの若い芸術家に与えられる賞で,ローマのフランス・アカデミー(1803年よりビラ・メディチ)への約3年間の留学を伴うもの。1663年以来,形を変えつつ今日まで続いている。…

※「コルベール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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