コール(読み)こーる(英語表記)George Douglas Howard Cole

デジタル大辞泉 「コール」の意味・読み・例文・類語

コール(call)

[名](スル)
呼ぶこと。呼びかけること。また、芸能人・政治家などに対するファンや支持者のかけ声・誘いかけ。「出馬コール
電話などで、相手を呼び出すこと。電話をかけること。また、通話の単位。「モーニングコール
トランプのポーカーで、相手の賭けに応じること。また、ブリッジで、パスなどを宣言すること。「コールを掛ける」
コールマネー」または「コールローン」の略。
コール‐オプション」の略。

コール(Helmut Kohl)

[1930~2017]ドイツの政治家。1973年キリスト教民主同盟(CDU)党首となり、1982年西ドイツ首相に就任。1990年には西ドイツ・東ドイツの統一を主導し、統一ドイツ初代首相に就任。「統一宰相」とよばれた。→シュレーダー

コール(coal)

石炭

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精選版 日本国語大辞典 「コール」の意味・読み・例文・類語

コール

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] call )
  2. ( 「コール‐ローン」または「コール‐マネー」の略 ) 金融機関相互間で取り引きされるごく短期の資金貸借。請求があり次第決済される約定のもの。貸借期間の長短によって、翌日物、無条件物、普通物、月越物などに分けられる。〔増補改版や、此は便利だ(1922)〕
  3. ( ━する ) 呼び出し。特に、電話で相手を呼び出すことやその呼び出し音。また、通話の単位。「ワン‐コール」
    1. [初出の実例]「病院の番号をダイヤルした。かれは片方の耳に、遠方でコールする音を〈略〉聴いた」(出典:個人的な体験(1964)〈大江健三郎〉一)
  4. トランプで、相手のカードを開かせる要求の合図。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コール」の意味・わかりやすい解説

コール(金融用語)
こーる
call

金融用語で、請求ありしだい決済される(呼べば戻る)資金取引の意。金融機関が支払準備の過不足を、相互に、ごく短期に調節する市場をコール市場call money marketといい、その市場において取引される資金をコール資金という。日本では普通、コール資金を貸し手(出し手)の側からはコールローンcall loanとよび、借り手(取り手)の側からはコールマネーcall moneyとよぶ。コール資金の取引金利がコールレートcall rateである。日本でのコール市場は1901年(明治34)の金融恐慌の経験に基づき、自然発生的に成立・発展したといわれ、もっとも古い歴史を有する短期金融市場である。

[井上 裕]

仕組み・機能

コール取引は短資業者を仲介として行われるのが主体であるが、1990年代終わりごろ以降、金融機関が直接に相対で行うDDコールDirect Deal callも増えている。この短資業者には東京短資株式会社(1909年4月設立)、セントラル短資株式会社(2001年4月、旧名古屋短資・日本短資・山根短資の3社合併)、上田八木短資株式会社(2001年7月、旧上田短資と八木短資の2社合併)がある。また、担保付きの取引(有担コール)と無担保の取引(無担コール)があり、担保としては国債・政府保証債・政府短期証券・地方債・金融債・一流社債などが用いられる。コール取引では、1927年(昭和2)の金融恐慌のおりの無担コール依存への反省から、有担保が原則となっていた。その後、金融自由化・国際化の進展などから、1985年(昭和60)7月には、在日外国銀行の強い要請等を背景に、無担コールが再発足した。コール市場は個別金融機関間の短期資金需給の調整の場であると同時に、日本銀行の金融市場調節の場でもある。すなわち、日本銀行は日々の金融調節を通じて金融機関の支払準備に働きかけ、望ましい市場金利水準に誘導するようにしている。

[井上 裕]

種類・構成

コール資金の種類は有担コールと無担コールに2大別される。また期間別には、翌日物(オーバーナイト物。O/N=over night)、期日物(2~6日物、1~4週物、1~4か月物、4か月以上)等がある。2008年(平成20)6月の末残高ベースでみると、担保別には有担41%、無担59%、期間別には翌日物38%、期日物62%(うち2~6日物2%、1~4週物20%、1~4か月物33%、4か月以上7%)である。なお、無担コール比重の推移を同じく末残高でみると、1990年51%、1995年76%、2000年77%と増えたが、バブル経済崩壊後の金融システム動揺等から2005年には36%と減少した。その後、金融情勢の安定化や量的緩和政策の解除等を受けて回復、2007年には64%となった。

[井上 裕]

市場参加者

市場の取引当事者は各金融機関と短資業者である。前記と同様に2008年6月の末残高で取引規模の参加者別構成をみると以下のようである。資金の取り手としては、有担コールで都市銀行等(新生銀行=現在のSBI新生銀行、あおぞら銀行を含む)56%、証券証金(第一種金融商品取引業者および証券金融会社)18%、外国銀行8%、無担コールで都市銀行等21%、証券証金19%、外国銀行44%などが主体。また、資金の出し手としては有担コールで信託銀行73%、地方銀行・第二地方銀行18%、無担コールで信託銀行21%、地方銀行・第二地方銀行15%、生命保険・損害保険会社11%、農林系統金融機関10%などが主体。

[井上 裕]

1970年代後半以降の動き

1970年代の終わりごろから1980年代にかけて、日本の金融自由化・国際化の大きな流れが進展したが、この一環として、短期金融市場でも規制緩和や自由化が進められた。コール市場関係のものをあげると、コールレートの建値弾力化(1978年6月)、コールレートの建値撤廃、全面自由化および2~6日物新設による期間多様化(1979年4月)、一部証券会社のコール取入れを容認(1980年11月)、都市銀行のコール放出を容認(1981年4月)、無担保コール市場創設(1985年7月)、オファー・ビッド方式の導入(1990年11月)などである。

 また、前記の金融システムの長い不安定化から、無担コールなどの短期金融市場取引について、相手の信用力に応じて信用供与限度額(クレジットラインcredit line)を厳格に設定する傾向が生じた。さらに、金融政策運営との関連での1990年代終わりごろ以降の動きは以下のようである。日本銀行は、1998年の日本銀行法改正後からコールレートの誘導目標水準を公表したが、1998年9月~1999年2月には無担保コールレート(オーバーナイト物)の誘導水準を約0.25%に(「超低金利政策」)、1999年2月以降には「限りなくゼロに」(「ゼロ金利政策」)設定した。この後、2001年3月からは金融調節の操作目標を「潤沢な日銀当座預金残高」自体に移行(「量的緩和政策」)、そして2006年3月には操作目標を金利(無担保コールレート・オーバーナイト物)に復帰、2007年2月にはその目標水準を0.5%前後とした。しかし、2008年秋ごろからアメリカのサブプライムローン問題に端を発した金融危機が世界的規模に拡大したことから、日本銀行は政策金利の誘導目標を同年10月に0.3%、12月に0.1%まで引き下げた(計数出所は日本銀行『金融経済統計月報』および「コール市場残高」統計)。

[井上 裕]

 2013年(平成25)に「量的・質的金融緩和」が開始され、日本銀行は金融市場調節の主たる操作目標を無担保コールレートからマネタリーベースに変更した。

[編集部]

『日本銀行金融研究所編『わが国の金融制度』(1995・日本信用調査)』『日本銀行金融研究所編『新しい日本銀行――その機能と業務』増補版(2004・有斐閣)』『鹿野嘉昭著『日本の金融制度』(2001・東洋経済新報社)』『白川方明著『現代の金融政策――理論と実際』(2008・日本経済新聞出版社)』


コール(George Douglas Howard Cole)
こーる
George Douglas Howard Cole
(1889―1959)

イギリスの経済学者、社会主義理論家、労働運動研究家。オックスフォード大学在学中からW・モリスなどの影響を受けて労働運動や社会主義に関心をもち、1908年独立労働党とフェビアン協会に参加し、1914年にはフェビアン調査局の書記となって労働運動の調査研究に従事した。しかし当時のフェビアン協会の保守的傾向に不満をもち、ギルド社会主義にひかれてその運動に身を投じ、1915年にはナショナル・ギルド連盟の結成に参加し、指導的な役割を果たした。しかし第一次世界大戦後、ギルド社会主義運動の分裂を機に身を引いて、1925年にオックスフォード大学の経済学講師となった。1931年にはウェッブ夫妻らとともに新フェビアン調査局を設立して社会問題の調査活動を行い、またフェビアン協会の再建にあたってその議長(1939~1946、1948~1950)や会長(1952)にも就任した。この間、1944年から1957年までオックスフォード大学で社会政治理論の教授を務め、また進歩的雑誌『ニュー・ステーツマン・アンド・ネーション』の編集に携わったこともある。

 彼の理論的立場は、当初からギルド社会主義や大陸のサンジカリズムに傾倒し、またマルクス主義を高く評価しながらも、それとは一線を画するものであった。彼の社会主義論は、労働者階級の階級的利益の立場にたちながらもヨーロッパの伝統的自由主義を堅持するものであって、労働運動における人民の自発的意志に基づく小自治組織を核とする社会改革を目ざすものであった。また、彼は第二次世界大戦後、朝鮮戦争に参加した国連軍やハンガリー事件におけるソ連の行動を批判し、半植民地・開発途上国の民衆の運動を支持するなど、自由な社会主義の立場を貫いた。著書は、イギリス労働運動の通史として著名な『イギリス労働運動小史』全3巻(1925~1927、改訂版1948)、フランス革命以降の社会主義の通史である『社会主義思想史』全5巻(1953~1960)などの歴史書のほか、『産業自治論』(1917)、『社会主義経済学』(1950)など多数に上り、また伝記や推理小説なども書いている。

[藤田勝次郎]


コール(Helmut Kohl)
こーる
Helmut Kohl
(1930―2017)

ドイツ連邦共和国の第6代首相。ライン川沿いのルートウィヒスハーフェン生まれ。第二次世界大戦後、17歳でキリスト教民主同盟(CDU)に入党。フランクフルト、ハイデルベルク両大学で法律を学んだのち、党活動に専念。市会議員、州議会議員を経て、39歳でラインラント・プファルツ州首相。1973年CDU党首に選出され、1976年から連邦議会議員となる。1982年社会民主党(SPD)のシュミット政権崩壊後、自由民主党(FDP)と連立の連邦首相に就任、翌1983年の総選挙で保守中道政治を掲げて圧勝、政権の座を固めた。1989年秋、東欧諸国の共産政権の崩壊、続くベルリンの壁崩壊と東ドイツでの統一支持勢力の台頭をみてコール首相は慎重派を押しのけ、1990年10月国民悲願のドイツ統一を実現させた。統一直後の総選挙でも第一党の地位(議席数319)を確保、第二党のSPD(同239)に圧勝、引き続き政権を担当し、1992年のEU(ヨーロッパ連合)条約の成立とそれに基づくEU共通通貨(ユーロ)の誕生にリーダーシップを発揮した。その後、1998年9月の任期満了に伴う総選挙で、保守与党連合のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)は、政権復帰をねらう最大野党の社会民主党に大敗した。同年10月コール首相は退陣し、シュレーダーの率いる社会民主党(SPD)と緑の党の連立政府に交代、16年間にわたるコール政権は幕を閉じた。

[藤村瞬一]


コール(Thomas Cole)
こーる
Thomas Cole
(1801―1848)

アメリカの画家。アメリカ最初の画派ハドソン・リバー派の創始者で風景画家。イギリスのランカシャーに生まれる。17歳のときオハイオ州に移住。フィラデルフィアのペンシルベニア美術学校で学ぶ。1825年ニューヨークで発表した風景作品が注目され、彼とデュランドを中心とするハドソン・リバー派が形成された。おもにハドソン川の流域の景観を描いたため、その名がある。彼は大自然を聖書と見立てて忠実に描写することに努めたが、ほかに寓意(ぐうい)的な作品も描いており、『人生航路』『帝国の道程』などが有名。19世紀の思想家エマソンの超越主義に対応する画家として評価されている。

[桑原住雄]

『大河内昭爾訳『五輪書』(教育社現代訳新書)』



コール(Nat “King” Cole)
こーる
Nat “King” Cole
(1917―1965)

アメリカのジャズ・ピアノ奏者、歌手。アラバマ州生まれ。少年時代にプロ入りし、1939年にギターとベースを加えたトリオを結成、スマートな演奏で好評を博した。48年にレコード『ネイチャー・ボーイ』がヒットして彼の歌唱の人気が高まり、51年トリオを解散、歌手活動に専念。『モナ・リザ』ほかの大ヒットでポピュラーなスターになり、映画にも出演した。温かい人間味と洗練されたセンス、黒人らしい哀愁感が魅力。長女ナタリー・コールも歌手として知られる。

[青木 啓]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コール」の意味・わかりやすい解説

コール
Kohl, Helmut

[生]1930.4.3. ルートウィヒスハーフェン
[没]2017.6.16. ルートウィヒスハーフェン
ドイツの政治家。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)首相(在任 1982~90),ドイツ首相(在任 1990~98)。17歳でキリスト教民主同盟 CDUに入党。1958年にハイデルベルク大学で政治科学の博士号を取得する。1959年ラインラントファルツ州議会議員に選出され,1969年に同州首相に就任するとともに CDU副党首の座についた。1973年6月ライナー・バルツェル党首の後任に選ばれた。当初ラインラントファルツという小さな州で活躍していたため,内外にあまり存在を知られていなかったが,党首就任後は中道路線を表明,しだいに人気を集めた。1982年,ドイツ社会民主党 SPDと連立政権を組んでいた自由民主党 FDPとの連立工作に成功すると,建設的不信任案でシュミット政権を退陣に追い込み,首相に就任した。翌 1983年の総選挙で連立政権を勝利に導き,中道路線を推し進めた。1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊後の東西ドイツ統一にイニシアチブを発揮し,1990年10月3日にはドイツ統一の偉業を達成した(→ドイツ統一問題)。ヨーロッパ統合の旗手としても活躍した。16年の長きにわたって長期政権を保ったが,1998年の総選挙でゲアハルト・シュレーダー率いる SPDに敗れ退陣。同 1998年12月ヨーロッパ連合 EUの会議でヨーロッパ統合の功績をたたえ「ヨーロッパ名誉市民」の称号を贈られた。1999年にスキャンダルが発覚し,2000年に CDU名誉党首を辞任した。

コール
Cole, Thomas

[生]1801.2.1. ランカシャー,ボールトンルムール
[没]1848.2.11. キャッツキル
アメリカの風景画家。ハドソン川派の創設者。イギリスに生れたが 1819年家族とともにアメリカのフィラデルフィアに移住。 23~25年ペンシルバニア美術学校に学ぶ。 29年から3年間ヨーロッパ,おもにイタリアに滞在,C.ロランや J.ターナーの歴史的風景画,ローマの古代遺跡などから刺激を受けた。帰国後はニューヨーク州のキャッツキルに定住し,ロマンチックな主題を組入れた風景画を描く。『エデンの園からの追放』 (1828,ボストン美術館) ,『キャッツキルにて』 (37,メトロポリタン美術館) ,『人生の旅』 (41) などはアメリカの美術史における記念碑的作品。

コール
Cole, Fay-Cooper (Redfield)

[生]1881.8.8. ミシガン,プレーンウェル
[没]1961.9.3. カリフォルニア,サンタバーバラ
アメリカの人類学者,民族学者。ベルリン大学,コロンビア大学で人類学を学び,1906年よりフィールド博物学博物館の民族調査官,12~23年同マレー民族・形質人類学副部長,24~48年シカゴ大学教授を歴任。この間アメリカ中西部 (1899~1904) ,フィリピン (06~12) ,スマトラ,ジャワ,ボルネオ (22~23) と多くの野外調査を行なった。主著"Wild Tribes of Davao District" (1913) ,"Tradition of Tinguian" (22) ,"The Story of Man" (37) ,"Peoples of Malaysia" (45) など。

コール
Cole, George Douglas Howard

[生]1889.9.25. イーリング
[没]1959.1.14. ロンドン郊外
ギルド社会主義理論を主唱したイギリスの政治,社会学者。少年期から社会主義に興味をもち,1908年に独立労働党とフェビアン協会に加入。オックスフォード大学在学中は同大学社会主義連盟議長をつとめた。 15年以後ギルド社会主義の理論家として活躍。スペイン内乱では人民戦線政府を支持し,イギリスの人民戦線結成を主張して労働党を除名された。第2次世界大戦後,オックスフォード大学社会・政治理論教授となる。主著『産業自治論』 (1917) ,『イギリス労働運動史』 (25~27) 。

コール
Cole, Sir Henry

[生]1808.7.15. バス
[没]1882.4.18. ロンドン
イギリスの官吏,産業美術運動の推進者。ロンドンの公記録保存所に勤務しながら絵を学び,1841年からフェリックス・サマリーの名で公共記念物案内書や幼児本に挿絵を描いて出版。その後,美術協会理事となって美術と商工業の一体化を提唱し,工業デザイン運動の先覚者として活動。 51年のロンドン万国博覧会開催を提唱し,その実現の推進力となる。その後サウスケンジントン美術館 (現ロンドン,ビクトリア・アンド・アルバート美術館) や王立アルバート・ホール,王立音楽学校などの創立に尽力した。

コール
Cole, William

[生]1714
[没]1782
イギリスの古物収集家。ケンブリッジ大学を卒業。国教会牧師をつとめるかたわら,ケンブリッジおよび周辺諸州ならびにケンブリッジ大学に関する写本を収集し,大英博物館に遺贈した。

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百科事典マイペディア 「コール」の意味・わかりやすい解説

コール

ドイツの政治家。ルートウィヒスハーフェン出身。ハイデルベルク大卒。西ドイツのキリスト教民主同盟(CDU)入党。1959年ラインラント・ファルツ州議会議員当選。同州の党院内総務,同州首相を歴任し,1973年にCDU党首,1976年連邦議会議員。1982年H.シュミット政権崩壊後,キリスト教社会同盟,自由民主党との連立政権の首相(ドイツ連邦共和国第6代)に就任。首相在任中の1989年,東欧革命,ベルリンの壁崩壊に直面,そこで優れた指導力を発揮し,ドイツ国民念願の東西ドイツ統一を実現。1990年10月統一ドイツ初代首相となる。1994年10月,3党連立政権の首相として再選。ヨーロッパ連合(EU)の統合推進などでのリーダーシップを発揮したが,1998年9月の選挙でドイツ社会民主党に敗れて下野,党首退任。EUから〈ヨーロッパ名誉市民〉の称号をおくられた。
→関連項目ドイツメルケル

コール

英国の経済学者,社会主義運動研究家。オックスフォード大学卒。1912年以後母校で政治学・社会学の教鞭をとる。フェビアン協会左派で1952年会長となった。その思想はギルド社会主義マルクス主義の影響が強く,労働党に批判的であった。主著《労働の世界》《産業自治論》《イギリス労働運動小史》。夫人マーガレット・コール〔1893-1980〕も論客として知られ,フェビアン協会会長(1963年)となった。また夫妻共著で推理小説も書いた。

コール

米国のジャズ・ピアノ奏者,歌手。ジャズ・ピアノに革命的奏法をもたらしたアール・ハインズEarl Hines〔1903-1983〕の影響を受けて,1939年に自分のトリオを結成。弾むようなピアノ奏法に特徴があり,新鮮で柔軟なサウンドで注目された。1943年に歌手に転向してからは,歌手としての才能も発揮して《ネイチャー・ボーイ》(1948年)《トゥ・ヤング》(1951年)などのヒット曲を数多く生み出した。情緒豊かな甘くかすれた歌声は,後続のジャズ歌手を大いに触発し,多大な影響を及ぼした。
→関連項目チャールズ

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改訂新版 世界大百科事典 「コール」の意味・わかりやすい解説

コール
George Douglas Howard Cole
生没年:1889-1959

イギリスの社会主義運動の理論的指導者。オックスフォード大学在学中フェビアン協会に参加。W.モリスの機械文明批判とルソーの平等思想を摂取してフェビアン漸進主義を克服し,《労働世界》(1913)を書いて生産者による産業の自律的支配を唱え,ギルド社会主義の知的指導者となる。1918年マーガレット・ポストゲートと結婚。夫妻で約30の探偵小説を書く。労働者教育運動と労働組合の提携強化に貢献した。25年オックスフォード大学経済学講師となり,好著《イギリス労働者階級運動小史》(1925-27)を発表,知識人集団コール・グループを育成した。新フェビアン調査局を指導し,39年のフェビアン協会再生に寄与した。44年オックスフォード大学政治社会理論教授となる。

 第2次大戦後,労働党の公社方式による国有化に反対し,朝鮮戦争ではアメリカのアジア政策を批判して社会主義左派の世論を育てた。晩年は国際社会主義研究会を設け,大著《社会主義思想史》(1953-60)を残した。
執筆者:


コール
Thomas Cole
生没年:1801-48

アメリカ最初の本格的風景画家。イギリス,ランカシャーのボルトン・ル・ムーアズ生れ。17歳のときオハイオに移民。ペンシルベニア美術アカデミーで学ぶ。1825年ニューヨークで発表した風景画が認められ,コールを中心とするハドソン・リバー派が形成されてゆく。コールの画業にはアレゴリカルな作品系列と自然描写の系列,それに壮大な幻想の系列があり,そのいずれも克明な写実手法で描かれている。大自然の景観を神の姿の顕現とみるR.W.エマソンらのトランセンデンタリズム(超絶主義)をコールほど端的に絵画化した画家はいないといわれ,その画業は19世紀前半の思想状況と密接にかかわっている。
執筆者:


コール
Johann Georg Kohl
生没年:1808-78

ドイツの地理学者。ゲッティンゲンなどで法律学を学んだが,旧バルト3国やロシアの旅行記の刊行によって文筆家としての名声を得た。その後約20年間ヨーロッパ全土や北アメリカを旅行し,旅行記の執筆とともに北アメリカ発見史の研究に従事した。1863年以後死ぬまで故郷のブレーメンで市立図書館長の職にあった。コールが今日地理学史上に名をとどめるのは,1841年,33歳のとき出版した《地表形態に依存した交通と人間居住》のためである。これは,自然環境のなかでとくに地形を重視し,種々の地形条件における交通と都市との関係を論じたもので,幾何学図形を駆使して演繹的説明を試み,立地論的発想を導入したことは高く評価されている。
執筆者:


コール
Nat (King) Cole
生没年:1917-65

アメリカのジャズ・ピアニスト,歌手。1939年にキング・コール・トリオを結成,ときどき弾きながら歌っているうちに歌手として人気が出た。43年にキャピトル・レコードの専属となってから《ネーチャー・ボーイ》《モナ・リザ》などの大ヒットを放ち,映画《セントルイス・ブルース》に主演するなど幅広く活躍。ビロードの手触りにたとえられた独特な声となめらかな歌い回しが魅力だったがピアノの才能も高く評価された。
執筆者:

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「コール」の解説

コール
Helmut Kohl

1930~

ドイツの政治家。キリスト教民主同盟(CDU)の長期政権の首相(在任1982~98)として,東西ドイツ統一の立役者となった。ラインラント‐プファルツ州の党支部を指導して頭角を現し,州首相をへて,1973年CDU党首。82年新保守主義を掲げて社会民主党シュミット政権を倒し,98年まで,ドイツ連邦共和国最長の政権の首班となった。特に「ベルリンの壁」の崩壊後は政治手腕を発揮,早期の東西ドイツの統一を実現した。その成功によって90年と94年の連邦議会選挙を勝ち抜くが,旧東ドイツ地域の再建が予想外に難航,98年に政権を失った。その後,首相在任中の闇献金事件が発覚し,政治生命を失った。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「コール」の解説

コール
Helmut Kohl

1930〜  
ドイツ連邦共和国の政治家。首相としてドイツ統一を実現
ラインラント=ファルツ州の首相から連邦議員となる。キリスト教民主同盟の党首として保守中道路線を進め,1982年からは自由民主党と連立内閣を組閣した。1989年の東欧革命の進展を受け,90年10月にドイツ基本法にもとづく,ドイツ民主共和国のドイツ連邦共和国への編入という形で統一を成し遂げた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「コール」の解説

コール Corre, Jean Marie

1850-1911 フランスの神父。
1850年6月28日生まれ。パリ外国宣教会司祭として,明治8年(1875)来日。15年長崎神学校教授。22年熊本にうつり,布教のかたわらハンセン病患者治療のための施設,待労院をつくった。明治44年2月9日熊本で死去。60歳。ブルターニュ出身。

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ASCII.jpデジタル用語辞典 「コール」の解説

コール

プログラムやサブルーチンの実行中に、別のプログラムやサブルーチンを利用すること。サブルーチンを「呼び出す」などともいう。

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デジタル大辞泉プラス 「コール」の解説

コール

2002年にアメリカ、ソルトレイクシティで開催された冬季オリンピックの公式マスコット。クマがモチーフ。

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岩石学辞典 「コール」の解説

コール

古い英語で,シー炭(sea coal)と同義.

出典 朝倉書店岩石学辞典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のコールの言及

【国家】より


[多元的国家観]
 理想主義的国家一元論に対する批判として,おもにイギリスに現れた国家観で,国家の他の社会集団に対する絶対的優位性を拒否し,国家を他の経済的,文化的あるいは宗教的諸集団と同様に特定の有限な目的をもつ集団の一つであるとみなす立場である。この立場は主として,バーカーE.Barker,G.D.H.コール,H.J.ラスキらによって主張された。多元的国家観は,まず国家と全体社会を同一視することを拒否し,国家は全体社会からみれば,その機能の一部を分担する部分社会にすぎないとする。…

【アメリカ美術】より

…同派の活動は,絵画によるアメリカの大自然の発見ともいえるものである。時期的にはフランスのバルビゾン派とほぼ重なるが,ハドソン・リバー派の中心的画家T.コールの,風景そのものを至高のバイブルと見る姿勢は,明らかに思想家R.W.エマソンの自然観と同じ系列にある。19世紀後半には自然の記録へと視座は移ってゆき,その自然主義的リアリズムは,世紀末には内面的な主観表現の道をたどった。…

【ハドソン・リバー派】より

…ニューヨークからカナダへ向けて北上するハドソン川を舞台に風景画を描いた19世紀アメリカ画家の一群。一般にT.コールがその開拓者とされる。彼は1825年ころから友人のインマンHenry Inmanなどとキャッツキル山脈,ホワイト山脈などの雄大な景観を細密な手法で描いた。…

※「コール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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