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アフガニスタン東部のゴールを中心とする王朝。1000?-1215年。グール朝ともいう。もとはガズナ朝の支配下にあった一地方の支配者にすぎなかった(王統の始まりは1000年ころとする説が有力)。ガズナ朝衰退後の12世紀後半,事実上の独立を得て領土の拡大に乗り出した。とくに,ふつうゴールのムハンマドと呼ばれるムイズッディーン・ムハンマド(シハーブッディーン・ムハンマド)が出現すると,急激に勢力を拡張する。ムハンマドは,1175年に第1回目のインド遠征を行って以後しばしばインドへの侵入を繰り返した。その際には,インド北西部ムルターンにいた異端のイスマーイール派を倒すとの大義名分を掲げていたが,直接の目的はガズナ朝同様,インドの富にあった。1191,92年の2度にわたる,パンジャーブのデリー近くのタラーインの戦で,プリトビーラージを中心とするラージプート連合軍を破って,北インドにムスリム支配の基礎を築いた。彼は,北インドにアイバクほか有力な部将を置き支配を固めようとしたが,1206年,ラホールからガズナに帰る途中で暗殺された。以降王朝は急激に衰退し,ホラズム・シャー朝に征服された。
執筆者:小名 康之
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1100?~1215
グール(Ghūr)朝ともいう。アフガニスタン中央部のゴール地方を中心としたイスラーム政権。11世紀前半からガズナ朝下で勢力を持ち始め,1148年自立。86年,ギヤース・アッディーンはガズナ朝を滅ぼし,アフガニスタンからイラン東部を支配下に入れるとともに,弟ムハンマド・ゴーリーをしてインド進出を繰り返させ,ラージプート軍を撃破して,ベンガルにまで進出した。1202年,ムハンマド・ゴーリーが即位すると,ホラズム・シャー朝に押されてイラン東部を失ったが,インド方面での勢力を確立し,その後のイスラーム諸王朝の北インド支配の基となった。06年の彼の暗殺によって王朝は分裂状態になり,北インドには奴隷王朝が成立した。15年,最終的に滅亡した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
12世紀中葉から13世紀前半までアフガニスタン地方に続いたトルコ系の王朝。グール朝ともいう。12世紀後半から13世紀初頭にかけて、ギヤースッディーン・ムハンマドとシハーブッディーン・ムハンマドの治世に、ガズナ朝にかわってその権力を確立した。とくに後者は「ゴールのムハンマド」として歴史上有名であり、聖戦(ジハード)を称して北インドに侵入軍を送り、1192年にはクトゥブッディーン・アイバク指揮下のゴール軍がヒンドゥー王のプリトゥビラージを破ってのちは、そのインド侵入軍の一隊は遠くベンガル地方にまで進撃している。しかし、彼自身はインドの支配者となることなく、支配層の内紛のため1206年にゴールで暗殺され、西北インドの征服地はアイバクの権力のもとに置かれた。ゴール朝はアフガン台地のトルコ系王権であるが、インドにイスラム教徒たるトルコ人の支配を確立させる道を整える役割を果たした点で重要である。
[荒 松雄]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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[イスラム教徒のインド支配]
8世紀初めにウマイヤ朝のアラブ軍がインダス川下流域を征服したが,この後の3世紀間,イスラム教徒はそれ以上亜大陸内部に進出することはなかった。彼らの組織的なインド侵略が始まるのは,アフガニスタンにガズナ朝とゴール朝が相次いで興ってからである。トルコ系の両王朝は11世紀初頭から侵入・略奪を繰り返し,分立抗争していたヒンドゥー教徒の諸国を破って,しだいにインド支配の足場を固めた。…
※「ゴール朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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