フィンランドの作曲家。本名Johan Julius Christian S.。父母ともスウェーデン系の医者の家庭に生まれ,2歳で父を失い一家は母の実家に移った。ここで5歳でピアノ,14歳でバイオリンを始めるが,幼児期から作曲を独習し,10歳のときの作品,バイオリンとチェロのための《水滴》は現存している。1885年20歳でヘルシンキ大学法学部に入学するが,翌年退学,ヘルシンキ音楽院でM.ベゲリウスとブゾーニに作曲を師事した。並行してバイオリンの学習も続け,バイオリン奏者をも目ざした。89年音楽院を卒業,ペテルブルグでリムスキー・コルサコフに師事する希望だったが実現せず,同年ベルリンでA.E.A.ベッカーに,翌年はウィーンでゴルトマルクK.とR.フックスに作曲を学び,またオーケストラと管弦楽曲に関する知識を吸収した。91年に帰国し母校で作曲とバイオリンを教えたが,翌92年に発表したデビュー作,フィンランドの叙事詩《カレワラ》に基づく《クレルボ交響曲Kullervo》が爆発的な人気を呼んだ。実際,この一作によってフィンランド音楽界での地位は確定し,早くも97年には国家の終身年金を受けることになった。1901年には音楽院の職を辞し,04年以降ヘルシンキ郊外に住居をかまえ,生涯の地とした。この頃の作品に管弦楽曲《レミンカイネン組曲》(1893-95。四つの伝説曲でその第2曲が《トゥオネラの白鳥》),交響詩《フィンランディア》(1899),《交響曲第2番》(1901)があるが,結局これらの作品が彼の代表作となった。彼の創作の根底をなしたのは,精神的にも題材的にも徹底した祖国愛であった。また,それが熱狂的にフィンランド国民に受け入れられる背景をなしたのは,ロシアによるフィンランド支配であった。作風においては,彼はグリーグやチャイコフスキーらのいわゆる〈国民楽派〉の影響を強く受けた。国内での名声の確立とともに,1900年パリ万国博への自作とヘルシンキ交響楽団を率いての出演を皮切りとして,ヨーロッパの各都市へ,また14年にはアメリカでデビューし,彼の名声は国際的に確立されていった。しかし,彼が作曲家として生産的であった時期は意外に短く,20年代までであった。29年にはバイオリンとピアノのための《三つの小品》,ピアノ曲《五つの小品》が作曲されているが,それ以後はほとんど作品がない。その理由は,第1次世界大戦後の作曲界を支配したストラビンスキーの新古典主義やシェーンベルクの十二音主義から,国際的名声をもつ彼の19世紀的な作風があまりにもかけ離れたものであることを知っていたためであると考えられている。しかし,生涯彼はフィンランドの国民的英雄であり続けた。フィンランド国外でも,彼の作品は今日なお多数の支持者をもっている。時代の様式という観点からは,たしかに遅れた作曲家ではあるが,代表作は世界各地のオーケストラのたいせつなレパートリーとして定着している。
執筆者:武田 明倫
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フィンランドの作曲家。12月8日ハメーンリンナに生まれる。早くからバイオリンと作曲の才能を示し、独学でいくつかの室内楽曲を書く。1885年ヘルシンキ大学の法科に入学したが、翌年法律の勉強を捨て、ヘルシンキ音楽院で作曲とバイオリンの学習に専念した。89年ベルリン、ついでウィーンに留学し、A・ベッカーやK・ゴルトマルク、R・フックスの指導を受けた。帰国後92年より母校で教鞭(きょうべん)をとるかたわら、創作活動を開始。フィンランドの国民的大叙事詩『カレバラ』に基づく独唱・男声合唱・管弦楽のための『クレルボ交響曲』(1892)を発表して大成功を収めた。続いて数曲の管弦楽曲を書いたが、そのなかには、当時のフィンランドの名指揮者カヤヌスの依頼による交響詩『エン・サガ(伝説)』(1892)や、『トゥオネラの白鳥』を含む『レミンカイネン組曲』(1893~95)などがある。97年から国家より終身年金を受けるようになり、交響曲第1番(1899)、交響詩『フィンランディア』(1899)、交響曲第2番(1901)、バイオリン協奏曲ニ短調(1903)などを発表し、フィンランドの指導的作曲家としての地位を築いていった。1904年以後は、ヘルシンキ近郊のヤルウェンパーの別荘にこもり、作曲活動に専念。交響的幻想曲『ポヒョラの娘』(1906)、交響曲第3番(1907)、弦楽四重奏曲『親愛なる声』(1909)、独唱曲『大気の乙女』(1910)、交響曲第4番(1911)、交響詩『吟遊詩人』(1913)などの傑作が次々と生まれた。またこの間、ベルリン、ロンドン、パリなどを数度にわたって訪問、14年にはアメリカ合衆国をも訪れた。各地で行われた自作の演奏会は成功を収め、彼の名声は国際的に広まった。15年12月8日彼の50歳の誕生日が国民的行事として祝われ、その祝賀会で交響曲第5番が初演された。このころの作品は、ピアノのための10のバガテル(1916)、五つの花のスケッチ(1916)やバイオリンとピアノのソナチネ(1915)、バイオリンとピアノの五つの小品(1915)など比較的小規模なものに集中している。第一次世界大戦後、交響曲第6番(1923)、同第7番(1924)、劇音楽『テンペスト』(1926)、最後の最大傑作といわれる交響詩『タピオラ』(1925)などを書き上げたが、29年以降急に創作意欲が衰え、30年近くの空白期間ののち、57年9月20日ヤルウェンパーで91歳の生涯を閉じた。
シベリウスは、初めドイツ・ロマン派やロシア国民楽派の影響を受けたが、しだいにそこから脱却し、フィンランドの神話、歴史、自然、とくに民族的叙事詩『カレバラ』を精神的基調として、古典的簡潔さを示す内容と形式とをもった独自のスタイルを確立した。なかでも交響的作品は、有機的な楽曲構造とむだのない楽器編成から豊かな効果を引き出す管弦楽法とによって、高く評価されている。
[寺田由美子]
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