夫フレデリックJean Frédéric Joliot-Curie(1900―1958)、妻イレーヌIrène Joliot-Curie(1897―1956)ともにフランスの物理学者。フレデリック・ジョリオは1920年にパリ市立工業物理化学学校に入学し、ここでポール・ランジュバンに学問的にも思想的にも大きな影響を受けた。1925年パリ大学ラジウム研究所でマリー・キュリー夫人の実験助手として働くこととなった。キュリー夫人の長女イレーヌ・キュリーはすでに助手をしており、二人は1926年10月結婚した。フレデリックはキュリーの姓がなくなってしまうのを惜しみ、二人の姓をあわせてジョリオ・キュリーとした。
二人は1931年ごろから協力して研究を進めるようになり、中性子の発見につながる研究、γ(ガンマ)線による電子対生成の研究などを行ったが、1934年にポロニウムのα(アルファ)線を用いて初めて人工放射能がつくられることを発見した。夫妻はこの業績により1935年ノーベル化学賞を受賞した。夫妻が二代続いてノーベル賞を受賞した例はほかにはない。
イレーヌは1936年、レオン・ブルムの人民戦線内閣で科学研究所長官となったが、翌1937年、母の後を継いでソルボンヌ大学の教授となって研究活動に戻った。1938年、サビッチPavle Savitch(1903―1994)とともに、ウランを中性子で照射したときに生ずる放射能のなかに、化学的に希土類と似たものがあることを発見したが、超ウラン元素がつくられたと考えたため、オットー・ハーンらが核分裂の発見者となった。
1937年にコレージュ・ド・フランスの教授となっていたフレデリックは、この核分裂反応に強い関心をもって実験を行い、1939年4月には核分裂で発生する中性子数を測定し、核分裂の連鎖反応の可能性を示した。5月にはアルバンHans von Halban(1908―1964)、コワルスキーLew Kowarski(1907―1979)、ペランFrancis H. J. S. Perrin(1901―1992)らと連名で、原子炉の製造と利用に関する五つの特許を申請した。これは今日の天然ウラン・重水型原子炉と変わるところがない。9月に第二次世界大戦が始まったため、10月に科学アカデミーにあてて「ウランを含む物質中での無限連鎖核反応をおこす可能性」と題する封印書簡を提出している。これは1949年に公表された。第二次世界大戦中には、ナチス・ドイツに対する抵抗運動に参加しながら、放射線生物学に関する研究などを続けていた。1945年2月には国立中央科学研究所所長、1946年1月には原子力庁長官となった。1948年12月にはフランス独力で実験用原子炉ZOE(ゾエ)(Zero, Oxyde d'uranium, Eau lourde)を完成させ、このときはフランスの原子力研究は平和目的に限ることを宣言した。
フレデリックは政治的・社会的な面でも積極的に活動し、すでに1934年にフランス社会党に入党していたが、1936年以降はスペイン戦争に関して社会党と意見が衝突した。1941年6月パリ大学に抵抗委員会がつくられるとこれに参加し、やがて国民戦線全国委員長に選ばれて地下活動を続けた。1942年5月に共産党に入党したが、1944年8月までは公表されなかった。戦後は国際的にも活躍し、1946年7月に発足した世界科学者連盟の会長を1957年まで続けた。1950年3月には、平和擁護世界大会委員会第3回総会で、原子兵器の無条件禁止を要求するストックホルム・アピールの提唱者の一人となった。しかし4月には、フランス共産党会議で行った宣言を理由に原子力庁長官を解任された。1955年7月に発表されたラッセル‐アインシュタイン宣言にも名を連ねている。
イレーヌは1956年3月、母と同じく白血病で死去したが、長年放射線を扱う研究に従事し、また第一次世界大戦中に母とともに軍のX線診断車で働いたことが原因と思われる。フレデリックは1958年8月、肝臓病で死去した。かねてから放射線防護のための細心の注意を強調していた彼は、イレーヌの病気の原因については認めていたが、肝臓病が放射線照射のためであるとは認めようとしなかった。
[服部 学]
『湯浅年子訳『ジョリオ・キューリー遺稿集』(1961・法政大学出版局)』▽『E・コットン著、杉捷夫訳『キュリー家の人々』(1957・岩波書店/岩波新書)』▽『ピエール・ビカール著、湯浅年子訳『F・ジョリオ=キュリー――科学と平和の擁護者』(1970・河出書房新社)』
フランスの物理学者。パリの生れ。父の死によって家計が窮乏していたため,授業料が免除されるパリ市立高等工業物理化学学校に入学(1920),ここで学問研究ならびに世界観形成に多大な影響を受けた師P.ランジュバンに出会う。当初,技師職を志したが,ランジュバンの助言をうけて1925年ラジウム研究所でM.キュリーの特別実験助手となった。翌年M.キュリー,P.キュリーの長女イレーヌと結婚,以後夫妻は研究ならびに社会的活動においてつねによき伴侶となった。27年学士試験に合格,30年ポロニウムに関する〈放射性元素の電気化学的研究〉で学位を取得した。32年夫妻はポロニウムの強力なα線源を作り,W.ボーテとH.ベッカーが発見した,ベリリウムへのα線照射によって生ずる放射線が,パラフィンなどの水素含有物質にあたると強い陽子線が生ずることを発見,さらに,これをフレデリックが改良したウィルソン霧箱で検出して,この放射線のエネルギーを算定し,J.チャドウィックによる中性子の発見へと導いた。翌年にはγ線から電子と陽電子とが対創生する現象を撮影した。次いで34年,夫妻はアルミニウム,ホウ素がα線を照射し終わった後も,陽電子を放出することから,人工放射性元素(放射性リン,放射性窒素)が生成されていることを発見,この功績によって35年夫妻でノーベル化学賞を受賞した。同年パリ大学助教授,37年コレージュ・ド・フランス教授となり,原子核化学研究所の創設,サイクロトロンの建設に尽力する一方,以後,O.ハーンらの核分裂の発見をうけて,核連鎖反応の研究に取り組み,39年H.vonハルバン,L.コワルスキーと共同で,核分裂によって数個の中性子が放出されることを確認した。
政治面では師ランジュバンらとともに反ファシズム知識人の活動に積極的に参加,一時社会党に入党した(1934)。彼の政治的・社会的役割が決定的なものとなったのはドイツ軍のフランス占領を契機としてであり,彼は祖国にとどまり祖国の自由と独立のために闘うことを決意,ナチスに利用されるおそれのある原子力研究をやめて純粋科学研究のみに絞るとともに,セダール(人工放射性元素応用研究委員会)を設け,ナチスの強制労働から若き学徒を守り,みずからは反ファシズムの地下抵抗組織の国民戦線委員会に加わり委員長として活躍した。42年共産党に入党。パリ解放後,CNRS(国立中央科学研究所)の所長,46年原子力庁長官,国連原子力委員会フランス代表を務め,48年のフランス最初の原子炉の始動をはじめ,科学研究体制の改革,原子力の平和利用に貢献,また世界科学労働者連盟(WFSW)会長を務めるなど科学者の組織化に大きな役割を果たした。一方,51年には世界平和評議会議長となり,55年には条件つきながらもラッセル=アインシュタイン声明へ賛意を表明するなど,戦争政策に抗し世界の平和運動の発展にも尽くした。なお,フランス政府は1950年,彼が共産党員であったことや,共産党の会議などでフランスの原子兵器の製造・使用について反対の見解を表明したことなどを理由として,原子力庁長官の地位を解任した。
執筆者:兵藤 友博
フランスの物理学者。キュリー夫妻(M. キュリー,P. キュリー)の長女。10~12歳ころ,母M.キュリー,P.ランジュバン,J.ペランらを教師とする共同学校で物理学,数学,化学,文学,歴史などの教育を受けた。その後パリ大学に入学,第1次世界大戦中はX線救護の従軍看護婦として母の助手を務めた。1918年母の主宰するパリ大学ラジウム研究所助手となり,25年,〈ポロニウムのα線に関する研究〉で学位を取得した。翌年J.F.ジョリオと結婚,姓をジョリオ・キュリーと改めた。以後,共同研究を重ね,人工放射能発見の業績により35年夫とともにノーベル化学賞を受けた。36年ブルム人民戦線内閣に国民教育担当国務次官として参加,37年にはパリ大学教授に就任,その後ウランの核分裂生成物を研究し,P.P.サビッチと共同してランタンの放射性同位元素を発見した(1938)。第2次大戦中はパリ陥落後もフランスにとどまり,戦後,ラジウム研究所長として活躍,オルセーの新研究センターの建設に力を傾注する一方,1946-50年原子力委員会の委員を務めた。急性白血病で死去。
執筆者:兵藤 友博
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランスの物理学者.1920年パリ物理化学学校に進学し,技術者になる教育を受けた.恩師P. Langevinの推薦で1925年にM. Curie(キュリー)が指導するラジウム研究所に私設助手として入所,翌年にはI. Joliot-Curie(ジョリオ-キュリー)と結婚した.1930年放射性元素の電気化学的性質についての一連の研究で博士号を取得したが,1935年パリ大学理学部の講師に採用されるまで正規のポストに就けず,国家科学基金の奨学金によって研究を続けた.この間にα線の衝撃による放射線の放出実験を夫妻で行い,1934年ポロニウムのα線でアルミニウムやホウ素など軽い原子核を衝撃すると人工放射能が生じることを見いだし,妻とともに1935年ノーベル化学賞を受賞.1937年コレージュ・ド・フランス教授となり,ヨーロッパ最初のサイクロトロンを設置した原子核化学研究所の創設に尽力した.また,原子核の連鎖反応の研究を行い,ウランと重水による原子炉の設計を行った.ナチスドイツの占領下にあった第二次世界大戦中はレジスタンス運動に参加し,戦後すぐに原子力の平和利用を訴えた.1946年に新設された原子力委員会の委員長として,フランス最初の原子炉建設を指揮したが,フランスの原爆保有に反対し,1950年解任された.1946年に組織された世界科学者連盟初代会長を務め,1951年には世界平和評議会議長を務めるなど,科学の平和利用を訴え続けた.
フランスの物理学者.M.&P. Curie(キュリー)夫妻の長女として生まれる.祖父による家庭教育で育ち,15歳から正規教育を受け17歳で大学入学資格試験に合格し,1920年物理学と数学の学士号を取得し,翌年から母が指導するラジウム研究所の研究員になった.1937年ソルボンヌ大学教授,1946年ラジウム研究所所長となる.母と同じ放射能の研究を行い,α線に関する研究で1925年に博士号を取得.翌年,母の助手であったJ.F. Joliot-Curie(ジョリオ-キュリー)と結婚し,両親のように夫妻で放射能の研究を行い,1934年には人工放射能を発見した.この人工放射性元素の生成は,元素転換に化学的証明を与えることになり,1935年夫とともにノーベル化学賞を受賞.第一次世界大戦で赤十字のX線検査班を指導して戦場を駆けめぐる母の助手として働いた経験をもつ彼女は,母以上に積極的に社会的活動に参加し,1936年フランス人民戦線内閣で大臣を務めたのをはじめ,ファシズムに反対する知識人監視委員会に参加し,第二次世界大戦後は原水爆の反対を訴えた.母親と同じく,放射線照射による白血病により死去.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…かつてのハーンの共同研究者L.マイトナーは,この実験結果を伝え聞くや,O.R.フリッシュとともに,この現象を,原子番号92のウランが原子番号56のバリウムと原子番号36のクリプトンに割れる核分裂として説明した。一方,J.F.ジョリオ・キュリーは,ウランの核分裂によって非常に速いバリウムが直接飛び出してくることを巧妙な実験で示した。これは核分裂の際に大きなエネルギーが放出されることを意味する。…
…結成にあたっては,イギリスやフランスの進歩的科学者が中心的な役割を果たした。初代会長はフランスの物理学者J.F.ジョリオ・キュリーが務めた。WFSWは48年に〈科学者憲章〉を採択し,科学者の使命や責任を高く掲げ,同時に科学および科学者の重視と地位向上を訴えた。…
※「ジョリオキュリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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