チャドウィック(読み)ちゃどうぃっく(英語表記)Lynn Chadwick

日本大百科全書(ニッポニカ) 「チャドウィック」の意味・わかりやすい解説

チャドウィック(Sir James Chadwick)
ちゃどうぃっく
Sir James Chadwick
(1891―1974)

中性子を発見したイギリスの物理学者。10月20日マンチェスターに生まれる。1911年マンチェスター大学物理学「オーナーズ・コース」を卒業後、同大学物理学研究所のラザフォードのもとで放射能の研究を行った。当時ラザフォード研究室では、モーズリーボーアなど多くの少壮物理学者たちによって原子と放射能に関して実り豊かな研究が展開されていた。チャドウィックも加わって行われたβ(ベータ)粒子に関する研究もその一つであり、これは後のパウリニュートリノ(中性微子)の存在の予言(1931)に至った。1914年ドイツのシャルロッテンブルク国立物理工学研究所のガイガーのところに赴いたが、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によってルーレーベン民間人捕虜収容所に抑留された。終戦後帰国、ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のラザフォードのもとでふたたび原子物理学の研究を再開した。1920年原子核電荷の決定に成功、さらに、α(アルファ)粒子による人工原子核転換を行い、原子核の構造と性質を研究し、1932年、陽子と並び原子核構成要素の一つとしてもっとも重要な粒子である中性子の存在を証明した。

 この中性子の発見は、今日における原子核・素粒子物理学への端緒となった。そして、中性子回折実験など物性研究上の重要な手段の開発を可能にするとともに、原子核分裂連鎖反応現象の担い手として、原子爆弾原子炉の実現に結び付いた。また、以上のチャドウィックの中性子発見の前提となったのは、それに先だって行われた師ラザフォードの「中性粒子」存在の予言(1920)、ボーテとベッカーHerbert Becker(1906―?)の実験による「ベリリウム線」の発見(1930)、およびジョリオ・キュリー夫妻によって進められた「γ(ガンマ)線」の実験などであった。

 1935年中性子の発見によりノーベル物理学賞を受けた。1935~1948年リバプール大学物理学教授、1945年ナイトに叙せられた。第二次世界大戦期の1943~1946年は、アメリカの原子爆弾開発のマンハッタン計画にイギリス科学者グループの代表として派遣されロス・アラモス研究所で働いた。1948~1959年ケンブリッジ大学ゴルビン・アンド・キーズ・カレッジ学長となる。1957~1962年イギリス原子力委員会非常勤委員。また、師ラザフォードの偉業をまとめた回想録The Collected Papers of Lord Rutherford of Nelson(1962)を編纂(へんさん)。1974年7月24日死去した。

[大友詔雄]

『エンリコ・フェルミ、ジェームス・チャドウィック著、木村一治・玉木英彦訳『中性子の発見と研究』(1950・大日本出版)』『中村誠太郎・小沼通二編『ノーベル賞講演 物理学 第5巻』(1978・講談社)』


チャドウィック(Lynn Chadwick)
ちゃどうぃっく
Lynn Chadwick
(1914―2003)

イギリスの彫刻家。ロンドンに生まれる。当初建築家を志したが、第二次世界大戦中パイロットとして従軍したのち、戦後になって彫刻を始めた。初めコルダーの影響を受けてモビールや溶接した鉄を用いた構成などを試みた。1950年代初頭から鋳鉄、溶接した鉄やブロンズなどを用いて、人体や動物をモチーフにした重量感のある彫刻作品を制作。細い脚に支えられた鋭角的で骨張った形態と表面の荒々しい効果とが彼独自の彫刻空間をつくりだした。56年の第28回ベネチア・ビエンナーレ展では国際彫刻大賞を受賞。60年代にはミニマル・アートの影響を受けたが、70年代には具象に回帰し、80年代になると鋼板を用いた実験を試みた。代表作に『内なる眼(め)』(1952・ニューヨーク近代美術館)などがある。

[谷田博行・小西信之]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チャドウィック」の意味・わかりやすい解説

チャドウィック
Chadwick, Sir James

[生]1891.10.20. マンチェスター
[没]1974.7.24. ケンブリッジ
イギリスの物理学者。マンチェスター,ケンブリッジ両大学に学び,E.ラザフォードのもとで研究。さらにドイツに渡り,ベルリン工科大学で H.ガイガーと共同研究をした。 1919年に帰国し,ラザフォードとともにキャベンディッシュ研究所に入り (1923) ,リバプール大学教授 (36) 。 1920年代にカリウムまでの軽い原子核をα粒子でたたくと陽子が放出されることを示したりしたが,32年に,W.ボーテやジョリオ=キュリー夫妻が手を染めたベリリウムのα粒子による核反応で放出される未知の粒子が電荷をもたず,質量が陽子とほぼ等しい中性子であることを示した。この業績によって 35年ノーベル物理学賞を受賞した。第2次世界大戦中は,原子爆弾製造計画にイギリス代表として関与した。

チャドウィック
Chadwick, Sir Edwin

[生]1800.1.24. ロングサイト
[没]1890.7.6. イーストシーン
イギリスの法律家,社会改革者。公衆衛生学の確立者の一人で,工場衛生監督と居住過密,土地と水と空気の汚染調査委員会の設立に尽力した。1842年の報告書『労働者の衛生状態』The Sanitary Conditions of the Labouring Population of Great Britainは歴史的な文献となっている。1848年に世界にさきがけて公衆衛生法を制定させた。ジョン・サイモンが活躍した中央衛生局はこの法に基づくもので,彼らの努力は 1919年7月,衛生省の設立によって結実した。(→公衆衛生

チャドウィック
Chadwick, Lynn

[生]1914.11.24. ロンドン
[没]2003.4.25. グロスターシャー,ストラウド
イギリスの彫刻家。初め建築を学んだが第2次世界大戦後,彫刻を志し,A.コルダーの影響を受けてモビールを制作。のち溶接した鉄,銅,ブロンズを素材に,人間や動物のイメージをかたどった独自の抽象彫刻を制作。 1960年代には彩色を施した構成的作品となった。 1956年ベネチア・ビエンナーレに入賞,イギリスの現代彫刻の代表的作家の一人として活躍した。代表作は『内なる目』 (1952,ニューヨーク近代美術館) など。

チャドウィック
Chadwick, French Ensor

[生]1844.2.29. バージニア,モーガンタウン
[没]1919.1.27. ニューヨーク
アメリカの海軍軍人。アメリカ=スペイン戦争中のサンチアゴの戦い (1898.7.3.) で,W.サンプソン提督の参謀長をつとめた。 1900~03年海軍大学校校長。 03年海軍少将で退役。

チャドウィック
Chadwick, Hector Munro

[生]1870
[没]1947.1.2. ケンブリッジ
イギリスの人類学者。最初古典言語学を学んだが,のちにゲルマン人,ケルト人の研究に転じ,1912~41年はケンブリッジ大学教授をつとめ,同大学考古学・人類学科を創設した。

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