中性子を発見したイギリスの物理学者。10月20日マンチェスターに生まれる。1911年マンチェスター大学物理学「オーナーズ・コース」を卒業後、同大学物理学研究所のラザフォードのもとで放射能の研究を行った。当時ラザフォード研究室では、モーズリー、ボーアなど多くの少壮物理学者たちによって原子と放射能に関して実り豊かな研究が展開されていた。チャドウィックも加わって行われたβ(ベータ)粒子に関する研究もその一つであり、これは後のパウリのニュートリノ(中性微子)の存在の予言(1931)に至った。1914年ドイツのシャルロッテンブルク国立物理工学研究所のガイガーのところに赴いたが、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によってルーレーベン民間人捕虜収容所に抑留された。終戦後帰国、ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のラザフォードのもとでふたたび原子物理学の研究を再開した。1920年原子核電荷の決定に成功、さらに、α(アルファ)粒子による人工原子核転換を行い、原子核の構造と性質を研究し、1932年、陽子と並び原子核構成要素の一つとしてもっとも重要な粒子である中性子の存在を証明した。
この中性子の発見は、今日における原子核・素粒子物理学への端緒となった。そして、中性子回折実験など物性研究上の重要な手段の開発を可能にするとともに、原子核分裂連鎖反応現象の担い手として、原子爆弾や原子炉の実現に結び付いた。また、以上のチャドウィックの中性子発見の前提となったのは、それに先だって行われた師ラザフォードの「中性粒子」存在の予言(1920)、ボーテとベッカーHerbert Becker(1906―?)の実験による「ベリリウム線」の発見(1930)、およびジョリオ・キュリー夫妻によって進められた「γ(ガンマ)線」の実験などであった。
1935年中性子の発見によりノーベル物理学賞を受けた。1935~1948年リバプール大学物理学教授、1945年ナイトに叙せられた。第二次世界大戦期の1943~1946年は、アメリカの原子爆弾開発のマンハッタン計画にイギリス科学者グループの代表として派遣されロス・アラモス研究所で働いた。1948~1959年ケンブリッジ大学ゴルビン・アンド・キーズ・カレッジ学長となる。1957~1962年イギリス原子力委員会非常勤委員。また、師ラザフォードの偉業をまとめた回想録The Collected Papers of Lord Rutherford of Nelson(1962)を編纂(へんさん)。1974年7月24日死去した。
[大友詔雄]
『エンリコ・フェルミ、ジェームス・チャドウィック著、木村一治・玉木英彦訳『中性子の発見と研究』(1950・大日本出版)』▽『中村誠太郎・小沼通二編『ノーベル賞講演 物理学 第5巻』(1978・講談社)』
イギリスの彫刻家。ロンドンに生まれる。当初建築家を志したが、第二次世界大戦中パイロットとして従軍したのち、戦後になって彫刻を始めた。初めコルダーの影響を受けてモビールや溶接した鉄を用いた構成などを試みた。1950年代初頭から鋳鉄、溶接した鉄やブロンズなどを用いて、人体や動物をモチーフにした重量感のある彫刻作品を制作。細い脚に支えられた鋭角的で骨張った形態と表面の荒々しい効果とが彼独自の彫刻空間をつくりだした。56年の第28回ベネチア・ビエンナーレ展では国際彫刻大賞を受賞。60年代にはミニマル・アートの影響を受けたが、70年代には具象に回帰し、80年代になると鋼板を用いた実験を試みた。代表作に『内なる眼(め)』(1952・ニューヨーク近代美術館)などがある。
[谷田博行・小西信之]
イギリスの物理学者。1911年にマンチェスター大学を卒業後,E.ラザフォードの下で2年間放射能について研究,その後,H.ガイガーの指導をうけるためにベルリンに赴く。第1次世界大戦中は抑留されたが,終戦後イギリスに戻り,19年からキャベンディシュ研究所で再びラザフォードとともに研究に従事した。主として天然のα粒子による軽元素の原子核変換の研究に携わっていたが,30年ドイツのボーテWalter Bothe(1891-1957)とベッカーHerbert Beckerが核反応に際してγ線より透過力のある放射線が出ることを発見したのに触発されて,この新放射線の究明に乗り出した。計数管,霧箱,高圧電離箱などの検出装置を用いる実験によって,32年その新放射線が陽子とほぼ同じ質量をもつ電気的に中性の粒子からなることを確証した。この中性子の発見によって35年にノーベル物理学賞を受賞。中性子の発見は,原子核の構成要素を確定すると同時に,1930年代の原子核反応研究にとって非常に有効な手段を与えることになった。35年には,リバプール大学のライアン・ジョーンズ物理学教授となり,43年から46年までの間,アメリカの原爆開発にイギリス代表団の主席代表として参画した。48年,ケンブリッジのゴンビル・アンド・キーズ・カレッジの学長に選ばれ,同時に物理学の第一線を退いた。
執筆者:日野川 静枝
イギリスの公衆衛生立法に大きな影響を及ぼした《衛生報告》(1842)の中心的な執筆者で,イギリスの公衆衛生の父といわれる。先進国のうち最も早い立法をみたイギリスの公衆衛生法(1848公布)を制定させた重要な実態報告がこの《衛生報告》であった。1830年代,イギリスの都市における死亡率は急増したが,その主たる原因は汚物の堆積,飲用水の汚れ,不良住宅の増加などであり,その死亡率はとくに貧困者に著しかった。チャドウィックはこの実態をありのまま報告書として上院に提出し,都市における上下水道の必要性を進言するとともに,公衆衛生法案の検討を強く当局に迫った。48年から54年まで,彼は新設された中央衛生局の委員のひとりとなり,彼自身は医師ではなかったが,今日いうところの環境保健万般に及ぶ行政に重要指針を示した。50年以降のイギリスにおけるコレラ流行を終息させる仕事に尽力した。
執筆者:前田 信雄
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…そこで1815年に汚水だめから排水溝への直接放流を許可したが,そのことで家庭内の汚物は排除できたものの,雑排水と屎尿がテムズ川に放流されたため水質汚染を悪化させ,またふたのない排水溝は不衛生な環境を改善するのには何ら役だたなかった。 1831年のコレラ大流行を契機として,医師E.チャドウィックの努力で48年公衆衛生法Public Health Actが制定され,ようやく下水道,上水道などの整備事業が開始された。そして60年から75年にかけて土木技師バザルジェットJoseph William Bazalgette(1819‐91)の指導で,ロンドン市内の家庭雑排水,水洗便所排水と雨水をともに排除する合流式下水道が整備された。…
…この居住環境の悪化と労働条件の過酷なこととがあいまって,結核,赤痢,チフスやコレラなどの伝染病が広がった。イギリスの公衆衛生行政の創始となったE.チャドウィックは,1842年の報告書の中で,労働者の死亡率が高く,経済的損失の大きいことを警告している。この報告に基づき,48年以降,中央政府は〈公衆衛生法Public Health Act〉によって衛生の改善に努めるが,地方団体の不熱心なこともあって事業は進まなかった。…
…住宅問題が最初に登場したイギリスでは1830‐32年,コレラが大流行し数十万人が死亡した。42年,E.チャドウィックは実情を医師,労働者らの協力を得て調査し,結果を《イギリスにおける労働者階級の衛生状態》として報告した。その中で彼は労働者住居の衛生状態,都市計画の不備が死亡率を高め,救貧支出を増大させていること,都市整備のための行政投資が治安対策,衛生・消防・福祉費用の節約効果をもつことなどを明らかにし,住宅・都市・衛生政策の必要性を訴えた。…
…そのための救貧費が富裕な都市不動産所有者の財政負担増となって,為政者たちにとっての都市問題の中心となった。E.チャドウィックは,1842年に議会に〈イギリスにおける労働者の衛生状態〉を提出し,労働者集中地域の生活環境の悪さを調査して上記の点を統計的,金額的に推計し,上下水道や住宅の改善を勧告した。それに基づき48年の〈公衆衛生法〉など各種住宅改善政策が出され,55年からロンドンで,次いで各市で下水道建設が始められた。…
…粘土板に刻まれ,火災に焼かれ,乾燥した土地で埋没したまま近代にいたって発見されたこの文書は,クレタ島のクノッソス宮殿とペロポネソス半島の各地から出土したものだが,長い間当事者のだれもが,その言語は先住民族のもので,ギリシア語であろうとは予想しなかった。ところが戦後になって,イギリスの若い建築家M.ベントリスは暗号解読の方法を利用してその解読に成功し,ギリシア語学の専門家であるチャドウィックJohn Chadwickの協力をえて1952年にその成果を発表し,この言語をギリシア語であると断定した。この予想外の結果に当初は疑問を投げる学者もいたが,現在ではほぼ学界の承認するところとなり,ギリシア語の歴史は文献的に前1400年ころにまでさかのぼることが可能になった。…
…すなわちベントリスは1952年にテキストの内的方法による分析で格子(グリッド)ノートを作成し,音価をあててみたところ,古いギリシア語であることがわかった。さらに言語学の知識と暗号解読の経験のあるチャドウィックJohn Chadwickの協力を得て,53年《ギリシア研究誌》にその成果を発表し,学界に大反響を巻き起こした。少数の反対はあるものの,大勢としてその解読の正しさは承認された。…
…少年のころからクレタ島の古代文字に関心を寄せ,オックスフォード大学で建築学を修め,建築技師となったが,線文字Bとよばれる文字の解読に努力していた。線文字B文書に見られる語の中には,語尾変化を示唆する三つ一組の語形を示す幾つかの組のあることが知られた段階で,1952年,それら音節文字のいくつかにクレタ島の有名な地名の音節を配分する作業から,線文字Bで書かれた文書がギリシア語の古形であることをつきとめ,ギリシア方言学者チャドウィックJohn Chadwickの協力を得て,53年にその解読の方法と成果を世界の学界に発表した。それは数年のあいだに原則的に正しいとおおかたの学者によって承認された。…
…しかし,α線がヘリウムの原子核の流れであることが明らかにされるまでには時間がかかった。正の電荷を帯びた原子核のまわりを負の電荷をもつ電子がまわっているというラザフォードの原子模型が発表されたのは1911年であり,陽子と電子が一体となって結合した中性子が存在することがJ.チャドウィックにより明らかにされ,W.ハイゼンベルクにより原子核がその中性子と陽子とで構成されていることが理論的に証明されたのは1932年である。 一方,放射能が同時にエネルギーを伴うことにもキュリー夫妻は気がついていた。…
…これらの困難に対する解決は実験のほうからわかってきた。すなわち,1932年にJ.チャドウィックは,α線をベリリウムにあてると,水素原子とたいへん強く相互作用をする,電気的に中性で陽子とほとんど同じ質量をもつスピン1/2の粒子が出てくることを発見した。同年W.ハイゼンベルクとソ連のD.D.イバネンコはそれぞれ独立に,原子核が陽子Z個とこの中性の粒子,すなわち中性子A-Z個とからできているとの考えを提唱した。…
※「チャドウィック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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