改訂新版 世界大百科事典 「ストゥルツォ」の意味・わかりやすい解説
ストゥルツォ
Luigi Sturzo
生没年:1871-1959
イタリアの司祭,政治家。シチリア,カルタジローネの貴族出身で,同地の神学校に学んだのち1894年司祭となった。のちローマのグレゴリアーナ大学で神学を学ぶかたわらキリスト教民主主義運動に参加,郷里で農村金庫を設立するなどの実践活動を展開するとともに,99年からは市会議員(1905年からは助役)として地方行政にも従事した。第1次大戦中の1915年教皇ベネディクトゥス15世により信者の全国組織〈カトリック・アクション〉書記長に抜擢され,19年にはイタリア史上初のカトリック政党イタリア人民党(1926年まで存続)を創設,書記長となった。彼は19年総選挙で100議席を擁する議会第二党となった同党を信者組織とは一線を画す非宗派政党だとし,宗教利益よりは小農保護や地方分権などの社会改革を追求する国民政党だとした。そのためストゥルツォは,ファシスト政府が宗教利益擁護の名のもと教会に接近し始めるとカトリック界右派からも攻撃され,23年ついに書記長を辞任,24年にはロンドンに亡命を余儀なくされた。英米での22年に及ぶ亡命生活中は一貫してファシズムを攻撃する言論活動を続けた。46年帰国後はデ・ガスペリとの不和のためキリスト教民主党には加わらず,逆にファンファーニらの傾向を左翼的なものとして批判,52年のローマ市議会選挙では右翼との反共ブロック画策にまで進んだが失敗。同年終身上院議員となった。
→カトリック運動
執筆者:村上 信一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報