チェコスロバキア史(読み)チェコスロバキアし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チェコスロバキア史」の意味・わかりやすい解説

チェコスロバキア史
チェコスロバキアし

前4~前3世紀にまずケルト系のボイイ人が現れ,古代ローマ人にはボイイ人の地,すなわちボヘミアとして知られた。次いで 1世紀にゲルマン系のマルコマンニ族が進出,5~6世紀に初めて西スラブ系(→西スラブ人)のチェコ人,スロバキア人が出現した。7世紀にフランクの商人サモがモラビアを中心に国家を建設 (→サモ国) 。その没落後,9世紀に最初の本格的なスラブ人の国家,大モラビア国が成立。同世紀末にキリスト教を採用した。他方スロバキアでも同じ頃プリビナの部族国家が出現したが,ほどなく大モラビア国に吸収され,さらに 10世紀にはハンガリーに征服され,20世紀までその支配下にとどまった。大モラビア国もハンガリーの侵攻を受けて没落。しかし 9~10世紀ボヘミアにプシェミスル朝の公国 (1198以降王国) が出現,モラビア,シレジア (シュレジエン) などを合わせ,神聖ローマ帝国内の強国となった。ボヘミア王国は 14~15世紀ルクセンブルク家の治下に黄金時代を迎え,カレル1世 (→カルル4世) の時代には神聖ローマ帝国の首都となった。15世紀宗教的対立をきっかけとしてチェコ系の中小貴族,都市民,一部農民の反封建・反ドイツ蜂起が勃発 (→フス戦争) ,長期の内乱ののち穏健派 (→両形色論者) が急進派 (→ターボル派) を抑えて事態を収拾,西洋史上最初の民族国家が出現した。しかし再びドイツの勢力が台頭,これに対するボヘミアの新教徒の再蜂起 (1618) は,三十年戦争導火線となった。チェコ人はワイセルベルクの戦いで決定的な敗北を喫し,以後ハプスブルク家の支配下に徹底的な反宗教改革,ゲルマン化政策が実施された。
ようやく 19世紀中頃に民族意識が覚醒,経済的,文化的に大いに興り,第1次世界大戦によってオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したのち,スロバキアと結んで独立を達成した。第1次,第2次世界大戦間はトマーシュ・ガリク・マサリク大統領の指導下に議会制民主主義が定着したが,1930年代後半スロバキア人,ドイツ人らの民族問題,ナチスの外交攻勢など内憂外患が一度に起こり,1938年のミュンヘン会談によって事実上崩壊した。第2次世界大戦中はボヘミア=モラビア保護領,スロバキア共和国に分割されて,ドイツの直接間接の支配を受けたが,1945年ソビエト連邦軍によって解放され,エドゥアルト・ベネシュの指導下に議会制民主主義が復活した。しかし,1948年チェコスロバキア共産党クーデターによって一党独裁体制が確立,ソ連圏に組み入れられた。ようやく 1963~68年にスターリン主義体制に反対する改革運動(→プラハの春)が盛り上がったが,ワルシャワ条約機構軍の武力介入(→チェコ事件)によって挫折。共和国の連邦化が唯一の成果となったが,その後「正常化」と呼ばれる反民主的体制が続いた。1989年のビロード革命によって共産主義体制は放棄されたが,チェコとスロバキアの経済格差が遠因となり,スロバキア人の民族主義が再燃。両共和国の交渉により,1993年1月,連邦は解消され,分離・独立した。(→スロバキアチェコ

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