ロシアの小説家。11月9日、ロシア中部のオリョール市に生まれ、母の領地スパスコエ・ルトビーノボ村で育った。母は貴族の旧家の出。父は軍人で、のちに騎兵大佐。母は惨めな孤児の娘時代を送ったが、思いがけず莫大(ばくだい)な遺産の相続人となり(当時30歳)、財産目当ての求婚者が押しかける。そのなかから選ばれたのが六つ年下の美男。たいへんな浮気者で、家庭内に風波が絶えなかった。そうした家庭の不和と、母の農奴に対する暴君ぶりは、感じやすい少年の心に暗い陰りを残した。1839年の火事で焼けたスパスコエ・リトビーノボ村の地主屋敷は、部屋数が40もあり、使っている下男下女は40人を超え、所有する農奴は5000人を数えた。その地方屈指の豊かな地主であったという。
当時の慣習に従って、初め家庭で教育を受けた。1827年一家はモスクワへ転居。私塾で基礎的な準備教育を受けたのち、33年モスクワ大学文学部に入学。34年秋、ペテルブルグ大学哲学部言語学科に転入学。ロマン主義全盛時代で、青年たちはシラーを読み、美や善や真理について語り合った。ペテルブルグ大学を卒業して38年5月ドイツに留学。ベルリン大学で聴講。39年一時帰国するが、40年2~5月イタリアに滞在。5~12月ベルリン大学でヘーゲル哲学、言語学、歴史学を学ぶ。この地で彼はスタンケービチ、グラノーフスキー、バクーニンらと親しくなる。とくにバクーニンは後年『ルージン』のモデルになったとされる。41年留学を終えて帰国。翌42年哲学博士の試験に合格。この年、農奴の娘との間に、女児ポリーナをもうける。7~11月ドイツ旅行。12月ペテルブルグに移り住む。43年、長詩『パラーシャ』刊行、批評家ベリンスキーの激賞を受けた。11月、イタリア歌劇団の一員としてペテルブルグへ巡業にきていたスペイン系の有名な歌手、ビアルドー夫人を知る。彼女との出会いはその後の個人的運命を大きく左右した。生涯を結婚しないで通したのも彼女への愛のためといわれる。
1847年1月、ベルリンへ出発するに際して、農村スケッチ『ホーリとカリーヌィチ』を『現代人』誌に寄せた。農奴制下のロシア農民の生活を写実的に描いたこの作品が、すこぶる好評であったので、次々と同種のものを書き継ぎ、一書にまとめたものが『猟人日記』(1847~52)である。48年にはパリで二月革命の目撃者となった。『猟人日記』の成功に力を得て、56年、最初の長編小説『ルージン』を発表。「余計者」を扱ったこの作品の成功によって、彼は短編作家から長編作家へと成長し、文壇に確固とした地位を占めるに至った。翌57年、私的・内面的生活のうえで危機にみまわれる。ビアルドー夫人との仲がうまくいかなかったのも原因の一つであった。しかし58年に中編小説『アーシャ』(邦訳『片恋』)を書き上げ、危機を脱する。以後は円熟期に入り、59年には『ルージン』に続く「余計者」のタイプを描いた長編『貴族の巣』を完成、さらに農奴解放前夜の革命的青年男女を描く長編『その前夜』(1860)、短編『初恋』(1860)、「ニヒリスト」を主人公に新旧両世代の思想的対立を描いた長編『父と子』(1862)、農奴解放後の反動貴族と急進主義者の双方を風刺した長編『けむり』(1867)などの代表作を次々と世に問う。
だが、ナロードニキ運動に取材し、その挫折(ざせつ)を描いた最後の長編『処女地』(1877)は世評の支持を得られず、進歩的陣営から激しく非難され、ために以後、長編小説の執筆を断念するに至った。長年の外国生活のため、ロシアの実情を正確に把握できなかったのが失敗の原因とされている(もっともルナチャルスキーのように、この作品を作者の最大傑作とみる向きもある)。1878年以降は『散文詩』(1882)の執筆をおもな仕事とし、創作力は衰えていく。83年9月3日、かねてからの脊髄癌(せきずいがん)のためパリ近郊のビアルドー夫人の別荘で没。遺言によりペテルブルグのボールコボ墓地に埋葬された。
作品の特徴としては、幽愁の気を漂わせたリリシズム、自然描写の巧みさ、1840~70年代ロシア社会の典型をつくりあげ、それに不滅の生命を吹き込んだこと、なかでも魅力的な理想の女性像を創造したこと、あるいはリリシズムと一体をなすヒューマニズムなどをあげることができよう。彼はまた恋愛小説の名手であった。長編のすべてが社会・思想小説である反面、優れた恋愛小説でもある。たとえば『けむり』の主人公の宿命的な恋の鮮烈さ。中編『春の水』(1872)の、うぶな青年を春先の突風のようになぎ倒して通り過ぎる恋も忘れがたい。さらに晩年の短編『勝ち誇れる恋の歌』(1879)では、かなわぬ恋の執念が伝奇的に描かれていて不気味である。ツルゲーネフは一時期、劇作を試みた。『村のひと月』(1855)はその代表作である。また文学論に『ハムレットとドン・キホーテ』(1859)などがある。
ツルゲーネフの思想的立場はいわゆる「西欧派」である。実生活のうえでも外国暮らしを常としたため、ロシア人には珍しい国際人であった。ゾラ、フロベール、メリメ、ドーデ、ゴンクール兄弟、モーパッサンなどのフランスの文人たちと親交があり、ジョルジュ・サンドとも友人関係にあった。またロシア文学を西欧に紹介した功績も大きい。日本へは二葉亭四迷(しめい)の訳で明治20年代にいち早く紹介され、近代日本文学の発達に大きな影響を与えた。とくに自然文学(国木田独歩の『武蔵野(むさしの)』など)についてそのことがいえる。
[佐々木彰]
『佐々木彰訳『貴族の巣』(講談社文庫)』▽『湯浅芳子訳『処女地』(岩波文庫)』▽『神西清・池田健太郎訳『散文詩』(岩波文庫)』▽『河野与一・柴田治三郎訳『ハムレットとドン キホーテ他二篇』(岩波文庫)』▽『『片恋』(『二葉亭四迷全集1』所収・1964・岩波書店)』▽『佐藤清郎著『ツルゲーネフの生涯』(1977・筑摩書房)』
ロシアの小説家。ロシア中部のオリョール県の地主貴族の家に生まれ,少年時代をスパスコエの領地で過ごした。父は没落した意志の弱い退役軍人,母は富裕な大地主で,農奴には暴君的であった。明敏で,観察力が鋭く,感受性の強い少年は,周囲の農奴たちの悲惨な生活に深く胸を傷つけられ,農奴解放を心に誓った。15歳でモスクワ大学に合格し,1834年ペテルブルグ大学に転じ,観念論哲学と当時の社会的関心を身につけ,特に文学と古典語を勉強した。38-41年ベルリン大学で古典文学とドイツ哲学,特にシェリングとヘーゲルを学び,深い教養と自由な精神をもつ西欧主義者となって帰国した。43年,物語詩《パラーシャ》で文壇に出たが,43年末ペテルブルグでフランスの有名なオペラ歌手ビアルドー夫人と宿命的な出会いをした。彼は彼女に心酔し,以後ビアルドー夫妻のあとを追って,パリにあるその所有地の一隅に居を定め,この複雑な奇妙な関係が死までの彼の運命を支配することになる。この悲劇的な関係が彼につかのまの喜びと強い悔恨をあたえ,彼の作品に深い跡を残したが,反面,ロシアの現実を外側から客観的に眺める機会をもつことになったし,それに二人の芸術家の交流はたがいに益するところがあった。彼は,西欧の文学者,音楽家,芸術家のサロンに出入りし,ロシア文化の真価の紹介者となり,世界的名声をかちえた最初のロシア作家となった。
彼は批評家ベリンスキーによって詩を断念させられ,戯曲に転じ,《村のひと月》(1850)など心理劇数編を書いた。チェーホフ劇の先駆となる作品で時代に先んじていたために理解されず,散文に移り,短編集《猟人日記》(1852)で文名を高め,文壇的地位を確立した。これは農奴制に対する芸術的抗議として読まれ,農奴解放に大きな役割を果たした。長編第1作《ルージン》(1856)で典型的な〈余計者〉を形象化するなかで,1840年代の理想主義者たちの社会的役割を歴史に定着させ,以後変動する時代のロシア知識人の精神史を書くことを文学的使命とした。《貴族の巣》(1859)で郷愁と詩情をこめて滅びゆく貴族文化に挽歌を捧げ,《その前夜》(1860)でロシアの未来を担うのは雑階級の知識人であることを予告し,《父と子》(1862)で40年代の観念の世代と60年代の行動の世代の相克を描き,神を科学におきかえたニヒリスト,バザーロフという強い形象をつくり出し,ロシアの改革には彼らの力が必要であることを認めた。《けむり》(1867)で改革のから騒ぎへの幻滅を示し,《処女地》(1877)で〈民衆の中へ〉の運動の悲劇を書いた。《アーシャ》(1858),《初恋》(1860),《春の水》(1872)などの美しい自伝的作品もある。《散文詩》(1882)は哲学と人間の主題の晩年の郷愁の詩である。彼の作品は社会性は強いが,詩人,哲人,画家の目による自然,社会,人間の公正な観察と真実の描写,洗練された優雅な言葉,美しい調和が特徴である。日本には明治中期に二葉亭四迷によって《片恋》(《アーシャ》),《めぐりあひ》(《三つの出会い》),《あひゞき》(《猟人日記》),《浮き草》(《ルージン》)が紹介され,さらに英訳が入って,田山花袋,国木田独歩,島崎藤村などの自然主義に影響をあたえた。
執筆者:工藤 精一郎
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…1888年(明治21)《国民之友》に2度に分載。原作はロシアのI.S.ツルゲーネフの短編集《猟人日記》の1編。秋9月中旬,主人公は白樺林の中で偶然,地主の従僕に捨てられる可憐な農夫の娘の最後のあいびきの場面を目撃し,娘の姿が脳裏に刻まれる。…
…ロシアの作家ツルゲーネフの長編小説。1862年発表。…
…そのおもな特徴は,政治生活と貴族階級からの疎外,自分の知的・道徳的優越の意識,それと並んで精神の倦怠,深い懐疑主義,言葉と行動の不一致,そして当然のことながら社会的受動性ということになろう。 この名称が一般化したのは,ツルゲーネフの《余計者の日記》(1850)からであるが,この形成は20年代にさかのぼる。最初の明確な形象化はプーシキンのオネーギン(《エフゲーニー・オネーギン》1823‐31)で,次いでレールモントフのペチョーリン(《現代の英雄》1840)が現れる。…
…ロシアの作家ツルゲーネフの長編小説。1856年発表。…
※「ツルゲーネフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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