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ドイツ賠償問題 ドイツばいしょうもんだいReparation Problem

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ドイツ賠償問題
ドイツばいしょうもんだい
Reparation Problem

第1次世界大戦後のドイツの賠償に関して生じた諸問題。ドイツはベルサイユ条約によって連合国に賠償を支払うことを義務づけられた。 1921年4月 27日ロンドンで開かれた連合国賠償委員会は賠償総額を 1320億金マルク (約 320億ドル) ,毎年の支払額を 20億金マルクとほかに輸出額の 25%相当と決めた。ドイツはとりあえず 21年5月 10億金マルクと輸出額の 25%に相当する約3億金マルク分の現物賠償を支払った。しかし 22年度分になると支払いのめどはまったく立たず,21年 12月に第1回の,22年7月に第2回の支払い猶予を申請した。このようなドイツ経済の復興をはかるため 24年4月アメリカの財政家 C.ドーズを委員長とする連合国賠償委員会が5年間の暫定案 (ドーズ案 ) を作成,ドイツはドーズ案を受入れ,所定の賠償支払いを履行したためドイツ,フランス間の和解も成立,25年 12月のロカルノ条約,26年9月のドイツの国際連盟加入実現など 28年までヨーロッパに相対的安定がもたらされた。ドーズ案は賠償総額と 29年以降の支払いについては触れていなかったため,この問題の解決のための委員会がアメリカの実業家 O.ヤングを委員長として 29年2月設立され,6月ヤング案を作成,9月ドイツはヤング案を受入れた。しかしその直後ニューヨークの株式暴落に端を発する世界大恐慌がヨーロッパに波及し,ドイツ経済は混乱に陥り,31年7月アメリカに支払いの一時停止を求めるモラトリアムを申請し認められた。 32年6月ローザンヌで開かれた賠償関係国の会議でヤング案は恐慌によって無意味になったと声明され,賠償総額は一挙に 30億ライヒスマルク (7億 1400万ドル) に減額され,これも翌 33年1月に成立した A.ヒトラー政権によるベルサイユ条約の義務履行拒否によって支払いは実現されなかった。

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百科事典マイペディアの解説

ドイツ賠償問題【ドイツばいしょうもんだい】

第1次大戦後,1921年のロンドン会議の結果ドイツに課された1320億金マルクの賠償金支払いをめぐる国際問題。ドイツは支払能力がなく延期を要望したが,旧連合国は対米戦債決済に支障ありとして不満を表明した。
→関連項目第1次世界大戦ベルサイユ条約

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ドイツ賠償問題
どいつばいしょうもんだい

第一次世界大戦の講和条約であるベルサイユ条約は、その第8、9編でドイツ側の単独戦争責任と、連合国側に与えた損害の賠償義務を定めた。ドイツ側は最初からこれを不当として抗議し、条約調印後もその修正、廃止を求めたため、履行を求める連合国側との間に対立や紛争が絶えず、この問題は1920年代を通じてヨーロッパの国際関係の緊張の一因をなした。
 条約調印後、ドイツはまず200億金マルクを現物と通貨で支払うよう求められた。1921年4月連合国はロンドン会議において賠償総額を1320億金マルクとし、年20億金マルクと輸出額の25%相当額を加えた額の37年払いという支払い方法を最終的に確定した。ドイツは、この額が国力を超え、実行不能と反論したがいれられず、当時のウィルト政府は履行政策によって不可能を実証する方針をとった。22年末にドイツは早くも支払い困難となって、猶予を請わざるをえず、連合国内部にも、国際経済の回復とヨーロッパの勢力均衡に関心をもつイギリスと、条約履行を最重要視するフランスとの対立が表面化し、加えてベルサイユ条約に調印しなかったアメリカがイギリス、フランスに対米戦債の返済を求めていたことから、打開策の一致がみられなかった。23年1月、フランス、ベルギーはドイツの支払い不履行を理由に、「ルール占領」に及び、独自に直接取り立てを強行、ドイツ側も消極的抵抗で応じたので、対立は一挙に「戦闘なき戦争」とよばれるまでに悪化した。
 ドイツ国内では記録的インフレと政治的、社会的両極化によって共和制は危機に陥った。1923年9月シュトレーゼマンは抵抗を中止して収拾に努め、連合国側でも、賠償履行の前提は世界経済の再建、とくにドイツの経済復興にあるとの認識が共有されて、イギリス、アメリカの調整工作が進み、24年8月、暫定的支払い軽減を決めたドーズ案が採択された。その後、アメリカ資本のドイツ流入、25年のロカルノ条約の成立によって国際政治の安定がみられ、賠償問題は政治的性格を弱めて、経済問題化していった。29年には最終的支払い案としてヤング案が提出されたが、世界経済恐慌の進行のなかで支払いは行き詰まり、31年7月アメリカ大統領フーバーのモラトリアムが出され、翌年7月のローザンヌ会議で実質的な支払い停止が合意をみた。それまでに支払われた額はドイツ側の算定では530億金マルクとされている。
 賠償問題は、その根拠に国際的合意を欠き、戦後の世界経済の変容やドイツ経済の実情を十分に考慮しなかったため、早くから混乱を引き起こし、関係国がナショナリズムの下に世論を動員したため、国際協調を妨げた。とりわけ、ドイツにおいては、賠償支払いの批判が右派によってワイマール共和政攻撃と結び付けられて、共和制の安定の障害となったことが指摘されている。[木村靖二]

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