翻訳|Don Juan
ファウストと並んでヨーロッパに流布していたスペインの伝説上の人物。ドン・フアン伝説は〈色事師〉と自分が殺した人物の石像を嘲弄して食事に招待する〈石の招客〉という二つの要素からなっている。これら2要素の起源に関しては諸説あるが,まず〈石の招客〉の原型としては,14世紀ころからヨーロッパ各地に散在していた,〈路傍に転がっている髑髏(どくろ)を蹴るとそこに亡霊が現れ,その亡霊を食事に招待する〉という伝説が考えられ,また〈色事師〉のモデルとしては,スペインのペドロ(1世)残虐王(在位1350-69)の宮廷に出入りしていたドン・フアン・テノーリオという人物が考えられているが,いずれも確実な史的根拠があるわけではない。
以上のような伝説を吸収し,ドン・フアンという人物を文学上の一典型として定着せしめたのがスペインの劇作家ティルソ・デ・モリーナの《セビリャの色事師と石の招客El burlador de Sevilla y convidado de piedra》(1630)である。セビリャの名家の息子ドン・フアンが公爵夫人イサベラ,漁夫の娘ティスベーア,貴婦人ドニャ・アナ,田舎娘アミンタを次々と欺いて犯し,また娘ドニャ・アナの復讐をしようとした父親ドン・ゴンサーロを斬り殺す。あるとき通りかかった墓地でドン・ゴンサーロの石像を見つけ,愚弄した後食事に招待すると,応じた石像もまたドン・フアンを招く。豪胆にも墓地にやって来たドン・フアンは食事の後,石像と握手したとたん業火に焼き殺されてしまう。これがその梗概である。神の断罪の劇的な大団円をもったこの〈ドン・フアン劇〉は今日まで無数のバリエーションを生み出してきたが,なかでもモリエールの《ドン・ジュアン》,バイロンの長詩《ドン・ジュアン》,ホセ・ソリーリャの《ドン・フアン・テノーリオ》,そしてモーツァルトの歌劇《ドン・ジョバンニ》などが出色である。上述のほかにプーシキン,メリメ,バーナード・ショーら多くの作家がドン・フアンにまつわる作品を書いている。
執筆者:牛島 信明
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好色放蕩(ほうとう)の伝説上の人物。転じて漁色家の代名詞になった。『セビーリャ年代記』によると、スペインの名家の息子ドン・ファン・テノーリオはウジョエの娘を奪ってウジョエを殺害した。その遺体が埋葬された寺院のフランシスコ会の僧たちは怒ってドン・ファンを殺したが、その事実を隠し、ウジョエの墓の上に建てられた石像がドン・ファンの上に倒れ、彼はその下敷きになって死んだという噂(うわさ)を流し、死因を天罰とした。この事件をスペインのティルソ・デ・モリーナが『セビーリャの色事師と石の招客(まろうど)』(1630)という劇にし、大当りをとった。イタリアでイタリア版(1659)がつくられ、ついでフランスのモリエールによる喜劇『ドン・ジュアン、あるいは石像の宴』(1665)となり大成功を収めた。その後モーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』(1787)を生む。ロマン主義の台頭した19世紀になると、ドン・ファンはさらに脚光を浴び、バイロンの『ドン・ジュアン』(1819)、ソリーリャの『ドン・ファン・テノーリオ』(1844)など数々のドン・ファンものがつくられた。20世紀には小説家モンテルランの『ドン・ジュアン』(1958)がある。このほか詩人のプーシキンやボードレール、哲学者のキルケゴール、小説家のアレキサンドル・デュマやプロスペル・メリメ、音楽家のリヒャルト・シュトラウスなど多数の者が、ドン・ファンを取り上げた。
なぜ、これほどまでドン・ファンは文学芸術のテーマになりえたのか。特定の女性にとらわれることを避け、次から次に新しい女性を求めたドン・ファンの心理の解釈がさまざまにできるからであり、不幸や後悔や責め苦を担う悪の天使、あるいはその時代その時代の道徳に反抗する反逆者として、かっこうの人物だったからであろう。一方、精神分析学者の間でも、ドン・ファン的人物の精神分析に関心が寄せられている。
[村田仁代]
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…同年12月から翌年4月までマイニンゲン宮廷音楽監督,86年秋より3年間ミュンヘン宮廷歌劇場第3指揮者となる。この頃から《ドン・フアン》(1888)や《死と変容》(1889)といった交響詩を書きだし,ドイツ後期ロマン派の最後の代表者として,また華やかなオーケストレーションの技法を駆使した独特の作風を確立。89年秋から94年6月までワイマール宮廷劇場で第2指揮者を務める。…
…もっとも原始的なシステムは,劇場のスクリーンの背後に俳優や音響係りを配置して,せりふや音をスクリーンにシンクロナイズ(同調)させるもので,1895年に行われたリュミエールの映画会にも,D.W.グリフィス監督の《国民の創生》(1915)の特別公開にもこのシステムが使われたことがあるという。その後,エジソンの〈キネトフォン〉,あるいは〈キネトフォノグラフ〉をはじめ,いろいろなシステムが発明,改良されて,音響と音楽だけのサウンド版《ドン・フアン》(1926),歌唱場面だけを同時録音した〈パート(部分)トーキー〉の《ジャズ・シンガー》(1927)がつくられ,次いで全編に音声が伴う《紐育の灯》(1928)が最初の〈100%オール・トーキー〉として登場する。 ハリウッドの映画会社ワーナー・ブラザースがいちはやくトーキーの製作を始めたが,それはかならずしもそのころになってやっとトーキーの技術的基礎ができたからではなかった。…
…西欧のエロティシズムの歴史は18世紀の自由思想とともに,根本的な変化を生ずる。あえて宗教的束縛に挑戦したスペイン説話の主人公ドン・フアン,性の全面的自由と個人主義を主張したサド侯爵や,カザノーバのような文学者があらわれるからだ。とりわけサドはエロティシズムの歴史の分水嶺に立っており,その影響は現代のバタイユにまで直接に及んでいる。…
…散文の分野で傑出しているのは,学術文芸の保護者でもあった賢王アルフォンソ10世で,彼の《シエテ・パルティダス(七部法典)》や《総合年代記》などにより,スペイン語の散文は長足の進歩をとげることになった。また賢王の甥にあたる貴公子ドン・フアン・マヌエルの《ルカノール伯爵》は,ボッカッチョの《デカメロン》とともに後のヨーロッパ文学に多くの素材を提供した作品であるが,何よりもドン・フアン・マヌエルは審美的効果を意識して独自の文体を確立した最初の作家として重要である。
【15世紀――ルネサンスに向けて】
15世紀の後半にはイタリア・ルネサンスの影響が見られるようになり,宮廷詩人のサンティリャナ侯爵Marqués de Santillana,つまりイニゴ・ロペス・デ・メンドサIñigo López de Mendoza(1398‐1458)やホルヘ・マンリーケによって繊細な抒情詩が書かれたが,なかでも後者の《父の死によせる歌》は世界文学における悲歌の傑作として,ミルトンの《リシダス》やテニソンの《イン・メモリアム》と並び称されている。…
…民間伝承や歴史に題材を求めた。彼の作品中最も有名なのが《ドン・フアン・テノーリオDon Juan Tenorio》(1844)である。これは,ティルソ・デ・モリーナの《セビリャの色事師と石の招客》や,アントニオ・デ・サモラの《満期にならぬ期限はなし》などを基にしたドン・フアンものであるが,ティルソの作品との最大の違いは,ドン・フアンが煉獄に落ちず,ドニャ・イネスによって救われることである。…
…また,宗教的テーマの作品にも傑作が多い。代表作に《信心深いマルタ》《不信堕地獄》《女性の分別》《宮廷のはにかみ屋》《緑色ズボンのドン・ヒル》などがあるが,特に《セビリャの色事師と石の招客》は,ドン・フアンものの最初の,しかも完成された作品として重要である。この作品はスペイン国内にあって後世サモラやソリーリャによって書き直されただけではなく,モリエール,モーツァルト,ゴルドーニ,バイロン,バーナード・ショーらも扱った。…
※「ドンファン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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