イギリス映画(読み)イギリスえいが

改訂新版 世界大百科事典 「イギリス映画」の意味・わかりやすい解説

イギリス映画 (イギリスえいが)

イギリスには,映画の前史を形成したもっとも重要な人々が存在した。18世紀後半に〈パノラマ〉を考案したR.バーカー,19世紀前半に〈ファラデーの車輪〉と呼ばれる装置を発案したM.ファラデー,〈ソーマトロープ〉を考案したフィットンとパリス,〈ゾーエトロープ〉を考案したW.G.ホーナー,19世紀後半には初めて〈連続写真〉の撮影を行ったE.マイブリッジ,映画用カメラを初めて作ったW.フリーズ・グリーン等々。次いで1896年3月に《ドーバーの荒海》と題した自作のフィルムのイギリスでは初めての興行上映を行ったR.W.ポール,1900年前後にいち早くクローズアップやカット・バックといった映画的手法や,ロケーション撮影や書割を背景に用いたセット撮影を駆使して世界最初の〈モンタージュ〉を試みたG.A.スミスをはじめ,J.ウィリアムソン,C.アーバン,C.ヘプワースら,映画史家G.サドゥールによって〈ブライトン派〉と名づけられた映画のパイオニアたちが輩出した。また,ヘプワースは1897年に世界最初の映画の手引書《動く写真または映画撮影のABC》を書き,G.A.スミスとアーバンは1902年に世界最初のカラープロセス〈キネマカラー〉を発明し特許をとっている。

 にもかかわらず,その後,世界の映画史を動かすに至る〈イギリス映画〉は生まれなかったというのが映画史家たちの共通の見解になっている。すでに29年にフランスの映画理論家レオン・ムーシナックは,〈イギリスはついに真のイギリス映画を1本も生み出しえなかった〉と書き,イギリスの理論家でありドキュメンタリー映画作家でもあるポール・ローサは,30年に出版した《今日に至る映画》の中で,外国映画の模倣にあまりにもたけていること,政府に寄りかかった映画製作,国産品擁護といった性格を指摘しながら,〈イギリス映画には実体がない〉と書いている。こういった歴史的評価はその後も変わらず,例えば80年にフランスで出版された《映画百科事典》の編著者ロジェ・ブーシノも,〈イギリスは映画史の出発点の形成にもっとも重要な貢献をしているが,その後はアメリカ映画に次いでフランス,イタリア,ロシア,スウェーデン,ドイツ,日本,デンマーク,メキシコといった各国の映画が世界映画史に与えたような影響はまったく与えていない〉とまで断じている。

イギリス映画にはいくつかの顕著な現象が見られる。

(1)世界的に名を知られたイギリスの映画人の数はきわめて多いが,そのほとんどすべてがハリウッドで成功し,国際的に名を知られたということ。監督ではチャップリン,ヒッチコックをはじめ,D.リーン,C.リード,M.アンダーソン,A.マッケンドリック,J.リー・トンプソン等々。男優ではリチャード・バートン,ジェームズ・メーソン,ケーリー・グラント,デビッド・ニーブン,ローレンス・オリビエ,ピーター・オトゥール,ピーター・セラーズ,アレック・ギネス,チャールズ・ロートン等々。女優ではマール・オベロン,ジョーン・フォンテーン,デボラ・カー,ジーン・シモンズ,ジュリー・アンドリュース,ビビアン・リー,オードリー・ヘプバーン,エリザベス・テーラー(イギリス・アカデミー賞は,V. リー,A. ヘプバーン,E. テーラーらに,アメリカ映画に出演した場合にも〈最優秀イギリス女優〉として賞を与えている)。

(2)同じ英語圏であるということもあって,イギリスで作られるアメリカ映画が圧倒的に多く,その歴史がほとんどそのままイギリス映画の歴史にもなっていること。ハリウッドの映画会社フェイマス・プレイヤーズ,ラスキーLasky(パラマウントの前身)が1916年にロンドン郊外のアイリントンに撮影所を作って〈アメリカ映画〉を製作し,18年にはハリウッドの巨匠D.W.グリフィスが時の宰相ロイド・ジョージの要請で,イギリスの国策映画《世界の心》を撮っているが,以来,30年代末には,MGM=ブリティッシュがK.ビドア監督《城砦》,S.ウッド監督《チップス先生さようなら》(ともに1939)などイギリス的題材による〈アメリカ映画〉,あるいはむしろハリウッド的超大作の〈イギリス映画〉の製作の先鞭をつけ,また50年代にはJ.ヒューストン監督《アフリカの女王》(1951),《赤い風車》(1952)などイギリスの製作会社による〈アメリカ映画〉も作られる。《アフリカの女王》の製作にかかわったS.P.イーグルは,ハリウッドの〈赤狩り〉から逃れてイギリスにきていたハリウッドのプロデューサー,サム・スピーゲルの変名で,この後彼はD.リーン監督《旅情》(1955),《戦場にかける橋》(1957),《アラビアのロレンス》(1962)などのアメリカ資本の〈イギリス映画〉を製作する。同じように〈赤狩り〉から逃れたカール・フォアマンも,C.リード監督《鍵》(1958),J.リー・トンプソン監督《ナバロンの要塞》(1961),そしてみずから監督の《勝利者》(1963)を製作。また一方では,《狙われた男》(1959),《コンクリート・ジャングル》(1960)から《暗殺者のメロディ》(1971)等々の,やはり〈赤狩り〉からの亡命監督J.ロージーの〈イギリス映画〉がある。さらにこうした〈亡命者のイギリス映画〉は,R.ポランスキー監督《反撥》(1964),《袋小路》(1966),J.スコリモフスキー監督《ジェラールの冒険》(1969),《早春》(1970)など〈ポーランド派〉の亡命監督たちの〈イギリス映画〉にまで広がって,一種の〈無国籍映画〉の系譜を形づくっている。60年代に入るとアメリカ人のプロデューサー,H.サルツマンとA.ブロッコリが,イギリス伝統のスパイ小説(イアン・フレミング原作)から〈007〉シリーズを作り(またサルツマンは,レン・デートン原作による《国際諜報局》(1965)など〈ハリー・パーマー〉シリーズも製作),さらにS.キューブリックがイギリスで製作・監督した〈ハリウッド映画〉,《2001年宇宙の旅》(1968),《時計じかけのオレンジ》(1971),《バリー・リンドン》(1975)などを経て,70年代後半から80年代にかけては,ロシア人やイタリア人のプロデューサーによるアメリカン・コミックや,SFのヒーローの復活をイギリスの撮影所で撮った〈スター・ウォーズ〉シリーズ,〈スーパーマン〉シリーズ,《フラッシュ・ゴードン》などが作られるといったぐあいに,アメリカ映画をイギリスで作ることがひとつの大きな流れになっている。

(3)イギリス映画の最初の黄金時代,すなわち国際的成功を築いたプロデューサーは,ハンガリーからハリウッドを経てイギリスに進出してきたアレクサンダー・コルダであった。世界に通じるイギリス映画を目ざしてコルダは国際的なスタッフ,キャストによる一種の〈無国籍映画〉を作った。実際こうして,やはりハンガリー出身でハリウッドで活躍していた脚本家ラヨス・ビロ,フランスのルネ・クレール監督作品の名カメラマン,ジョルジュ・ペリナールを起用し,さらにハリウッドですでに活躍していたイギリス人の俳優チャールズ・ロートンを主役に招き,みずから監督した《ヘンリー8世の私生活》(1933)は,アメリカ市場に進出して大成功をおさめた最初のイギリス映画となった。コルダの創立した〈ロンドン・フィルム〉の国際色豊かなイギリス映画は次のようなものである。アメリカ人のH.M.ヤング監督《紅はこべ》(1934),フランス人のルネ・クレール監督《幽霊西へ行く》(1936),アメリカ人のW.C.メンジーズ監督《来るべき世界》(1936),フランス人の監督J.フェデルとアメリカから招かれた女優マルレーネ・ディートリヒによる《鎧なき騎士》(1937),さらに実弟のゾルタン・コルダ監督の,ハリウッドで開発されたテクニカラーによる色彩豊かな大作《四枚の羽根》(1939),《ジャングル・ブック》(1942)等々。こうしてA.コルダは〈世界に誇る〉イギリス映画を打ち出すことに成功した。しかし,映画史家K.リーダーがコルダの〈ミニ・ハリウッド〉と呼んだこれら一連の大作は,イギリス国内では当然ながら,国籍不明の映画と批判される面ももっていたのである。

これに対して,真のイギリス映画の流れは第2次世界大戦とともに始まり,戦後にその黄金時代を築くことになる。コルダの大作主義はやがて経済的破綻(はたん)をきたし,第2次大戦が始まるとともにコルダはハリウッドに引き揚げる。その後に,コルダの手放したデナム撮影所を含めイギリス映画製作会社の8割,配給興行会社の6割,そして映画機材関係の大部分を独占支配したのがJ.アーサー・ランク(1888-1972)で,1930年代から40年代にかけて育ってきた映画作家たちに才能を発揮させ,〈真のイギリス映画〉の国際的名声を築くことになる。〈キング・アーサー〉の異名をとったランク傘下には七つの〈ユニット・プロダクション〉が円卓の騎士のごとく並び,以下のようなそれぞれに特色のある作品を送り出した。

(1)F.ジュディーチェ主宰の〈トゥー・シティーズTwo Cities Films〉では,L.オリビエ監督・主演の《ヘンリー5世》(1945),《ハムレット》(1948),C.リード監督《最後の突撃》(1944),《邪魔者は殺せ》(1946)等々。

(2)43年,A.ハブロック・アラン,D.リーン,R.ニームにより創立された〈シネ・ギルド〉では,ノエル・カワードが重役の地位についてカワード自身の原作による《幸福なる種族》(1944),《陽気な幽霊》(1945),《逢びき》(1945)をはじめ,《大いなる遺産》(1946),《オリバー・トウィスト》(1948),《情熱の友》等々のリーン監督作品。

(3)46年から脚本家でもあるS.ボックスが主宰した〈ゲーンズバラGainsborough〉では,A.アスキス監督《激情》(1944),S.ギリアット監督《ウォタールー街》(1945),K.アナキン監督《恋の人魚》(1948),B.ノウルズ監督《三十六時間》(1949),マーガレット・ロックウッド主演の《妖婦》(1946),《赤い百合》(1947),S.モーム原作によるオムニバス映画《四重奏》(1948),ハリウッドから招いたフレドリック・マーチ主演《コロンブスの探険》(1949)等々。スリラーとメロドラマが多い。

(4)すでにヒッチコック監督《バルカン超特急》(1938),リード監督《ミュンヘンへの夜行列車》(1940)という傑作を生んでいたシナリオライターの名コンビ,S.ギリアットとF.ローンダーが1945年に設立した〈インディビデュアル〉では,彼らによる《青の恐怖》(1947),《青い珊瑚礁》(1948)等々。

(5)バーナード・ショーの戯曲の独占映画化権をもち,《ピグマリオン》(1938)などを製作・監督してきたハンガリー人,ガブリエル・パスカル(1894-1954)の〈パスカルPascal〉では,ランクが《ヘンリー5世》と並んで世界市場征服への足がかりにしようとしたショー原作,パスカル監督の超大作《シーザーとクレオパトラ》(1945)。

(6)M.パウエルとE.プレスバーガーが1943年に設立した〈アーチャーズThe Archers〉では,《天国への階段》(1946),《黒水仙》(1946),《赤い靴》(1948)など,名コンビとうたわれたパウエル=プレスバーガーの製作・監督・脚本によるテクニカラー諸作品。

(7)1938年以降,バルコンMichel Balcon(1896-1977)が主宰した〈イーリングEaling〉では,のちに〈バルコン・タッチ〉〈イーリング・コメディ〉などの名称で呼ばれることになるさまざまな映画作家たちの作品群。

 こうして40年代後半から50年代にかけて,イギリス映画史上空前の優秀作がにぎわったのである。

この間にA.コルダはハリウッドから再び帰って,1946年〈ロンドン・フィルム〉の再興に着手,ランクの傘下からプロデューサー,監督,スターを引き抜き,フランスの監督J.デュビビエとハリウッドで大スターになったビビアン・リーによる《アンナ・カレーニナ》(1948),リード監督《落ちた偶像》(1948),《第三の男》(1949),パウエル=プレスバーガー作品《女狐》(1950)などのハリウッドのプロデューサー,D.O.セルズニックとの合作をはじめとし,ギリアット監督《絶壁の彼方に》(1950),リーン監督《超音速ジェット機》(1952),《ホブスンの婿選び》(1954),《旅情》(1955),パウエル=プレスバーガー作品《ホフマン物語》(1951),リード監督《文化果つるところ》(1952),《二つの世界の男》(1953),《文なし横丁の人々》(1955)等々戦前をしのぐ作品群をはでに作り出した。こうしてイギリス映画は再び〈ハリウッド化〉の道を歩むことになる。

一方,〈ロンドン・フィルム〉の攻勢にあって衰退ぎみの〈ランク・オーガニゼーション〉で気をはき続けたのは名プロデューサー,M.バルコンの率いる〈イーリング〉である。その信条は国際市場を目ざすいたずらな大作主義に走ることなく,国内市場だけで回収できる範囲の製作費で作品を作り,そこに〈イギリス的なるもの〉を盛り込むことにあった。彼はすでに1930年代にヒッチコック監督のスリラー《暗殺者の家》(1934),《三十九夜》(1935),《サボタージュ》(1936),ミュージックホールの人気スター,ジェシー・マシューズをヒロインにしたV.サビル監督のミュージカル《永遠の緑》(1934),《君と踊れば》(1936)などを製作,さらにJ.グリアソン(1898-1972)に招かれてイギリスにきていたアメリカの記録映画作家R.フラハティに彼の生涯の傑作と評価されることになる《アラン》(1934)を作らせるなど,プロデューサーとしての優れた功績があった。

 イギリスではサイレント末期の1920年代末からグリアソンを中心に初めは大英帝国通商局(EBM),次いで郵政省(GPO)の映画班によって積極的なドキュメンタリー映画運動が推し進められてきた。P.ローサもこの運動の一員である。第2次大戦中には情報局がこの運動の成果と人材をフルに動員してニュース映画や戦時ドキュメンタリーを製作する。のちに〈フリー・シネマ〉の旗手L.アンダーソンによって〈イギリス映画の生んだ唯一の詩人〉とたたえられ,また〈戦時下の詩人〉とも呼ばれたH.ジェニングス(1907-50)の《イギリスに聞け》(1941),《火の手は上がった》(1943)などが作られたのがこの時期である。またドキュメンタリーフィルムの断片をドラマにとり入れたり,ドキュメンタリー的手法を活用した劇映画が次々と作られた。パウエル=プレスバーガーのコンビは初の共同監督作品として《わが方1機帰還せず》《志願兵》ともに(1942)を,リーンはノエル・カワード製作による監督デビュー作《われらの奉仕するところ》(1942)を,リードは《最後の突撃》(1944)を撮るなど,戦後に多彩な才能を花開かせる監督たちの多くがドキュメンタリーの洗礼を受けた戦争映画を撮ったのである。戦後イギリス映画の黄金時代の底を流れるものはドキュメンタリー精神であるとはどの映画史家も指摘するところだが(それは1950年代半ばから60年代にかけてのいわゆる〈フリー・シネマ〉の〈環境のリアリズム〉にまでつながる),そのドキュメンタリー的方法による劇映画を一貫して送り出し,〈イギリス映画のもっとも内容豊富な撮影所の一つ〉となったのがイーリング撮影所であった。フランスの〈アバンギャルド〉映画運動を経てグリアソンの運動に参加していたA.カバルカンティ(1897-1981)をプロデューサーとして招き,若手の映画作家にドキュメンタリー映画や,ドキュメンタリー手法による劇映画を作るチャンスを与えて育てたのもイーリング撮影所であった。カバルカンティの製作による,H.ワット監督《992飛行中隊》(1940)やC.フレンド監督《消防夫はフランスに行った》(1942)から戦後のワット監督のオーストラリア・ロケによる《オーバーランダース》(1946),街頭や波止場にカメラをもち出したB.ディアデン監督《兇弾》(1949),《波止場の弾痕》(1951),イースト・エンドの生活を描いたR.ヘイマー監督《日曜はいつも雨降り》(1947),フレンド監督のノルウェー・ロケによる《南極のスコット》(1948),洋上の戦艦にカメラをもち込んだ《怒りの海》(1953)等々。〈イーリング〉生えぬきの映画作家たちのドキュメンタリズムをカバルカンティは〈ネオリアリズム(新しいリアリズム)〉と呼んだ。日本では〈バルコン・タッチ〉の名で知られるドキュメンタリー的手法の映画群である。

また,イーリング撮影所では同じドキュメンタリズムを基盤に,〈イギリス人の風変りな行動に対する観察〉から導き出されるイギリス的ユーモア感覚に満ちたコメディも次々作られ,イーリング・コメディの名で総称された。C.クライトン監督による少年探偵たちの活躍をユーモラスに描いた《乱闘街》(1947)がその先駆けといわれるが,本格的な〈イーリング・コメディ〉の第1作は,ロンドンの下町の一郭が実はフランス領だったという発端から,そこに住む17世帯の下町っ子が独立運動を起こすまでに発展していく荒唐無稽な物語を,ドキュメンタリータッチで撮って皮肉な風刺をきかせたH.コーネリアス監督の《ピムリコへのパスポート》(1949)である。以後,A.マッケンドリック監督による《ウィスキーがぶがぶ》(1949),絶対に破れたり汚れたりしないが,たった一つ弱点のある繊維を発明した男をめぐる騒動を描いた《白いスーツの男》(1951),盗んだ金の延べ棒をエッフェル塔の模型に鋳直し,本物のエッフェル塔の土産品売場に置いておくクライトン監督の泥棒喜劇《ラベンダー・ヒル・モッブス》(1951)などを生み,1955年のマッケンドリック監督の《マダムと泥棒》まで続いたが,翌56年,イーリング撮影所はBBCに売り渡され,〈イーリング・コメディ〉の時代は終わる。これらのコメディは主としてシナリオライターのT.E.B.クラークによって書かれ,〈百の顔をもつ男〉の異名をとる名優アレック・ギネスによって演じられた。

〈イーリング〉調のイギリス喜劇は,その後もコーネリアス監督《嵐の中の青春》(1955)やギリアット監督《完全なる良人》(1955)を経てディアデン監督《紳士同盟》(1960),K.アナキン監督《謎の要人悠々逃亡!》(1961)あたりまで続くが,〈イーリング・コメディ〉の消滅とともにアレック・ギネスがハリウッドに去った後,その多種多様な扮装で役になりきる芸風を継いでピーター・セラーズが登場してくる。《マダムと泥棒》では実際アレック・ギネスの子分の一人を演じていたが,1960年代に入ると彼自身もハリウッドに招かれ,B.エドワーズ監督の《ピンクの豹》(1963)とその後の〈ピンク・パンサー〉シリーズの変装マニアのクルーゾー警部や,S.キューブリック監督《博士の異常な愛情》(1964)の一人三役という強烈な〈くさみ〉のある演技で世界的なコメディアンとなった。

 セラーズが1950年代に主演していたテレビの人気ドタバタ喜劇番組《馬鹿者群像》のディレクターの一人だったのがR.レスターで,セラーズと共同で製作・監督した実験的短編ギャグ映画《とんだりはねたりとまったり》(1960)がアカデミー賞にノミネートされ,劇場用長編映画に進出した。さらに,レスターはビートルズブームのさなかに,ビートルズの日常ドキュメンタリーをよそおった形式の中にスラプスティック的なギャグを盛り込んだ《ビートルズがやってくる ヤア!ヤア!ヤア!》(1964)と《HELP!4人はアイドル》(1965)を撮り,前衛的ナンセンス・コメディ《ナック》(1965)でカンヌ映画祭グラン・プリを受賞して〈イギリス喜劇〉の代表的才能と目された。しかし,もともとアメリカ人であったレスターは,その後イギリス映画界にとどまらず,彼のもっとも尊敬するアメリカ喜劇の王様バスター・キートンにオマージュをささげた《ローマで起った奇妙な出来事》(1966)とともにアメリカに戻った。

イギリス映画を特徴づける主要な傾向として,1950年代以降,世界的に注目され,あるいは〈名物〉となった,いわゆる〈フリー・シネマ〉と〈ハマー・プロ〉の怪奇映画がある。A.コルダが死去し,イーリング撮影所がBBCに売却された56年に,L.アンダーソン,K.ライス,T.リチャードソンによる〈フリー・シネマ〉運動が旗揚げされる。一方,その前年にハマー・プロのげてものの大量生産のきっかけになったSF怪奇映画《原子人間》が大ヒットし,さらに56年,〈フランケンシュタイン〉シリーズの第1作で,ハマー・プロの〈怪奇トリオ〉,T.フィッシャー監督とクリストファー・リー,ピーター・カッシングの二大スターの第1作でもある《フランケンシュタインの逆襲》が製作される。すなわち,フリー・シネマもハマー・プロの怪奇映画も〈イギリス映画〉の実質的な解体とともに現れ,それ以後いよいよ〈実体のない〉イギリス映画の様相がさらにあらわになってくるのである。

 60年代以降,J.シュレシンジャー,K.ラッセル,J.ブアマンといった演出家がテレビ畑から出現するが,次々にハリウッドに移行し,他方,パインウッドやエルストリーなどの貸撮影所で多くの〈外国映画〉や国際的キャストを売物にした国籍不明のイギリス映画の〈大作〉が作られるといった状況が進行し,70年代から80年代にかけてはプロデューサー,D.パトナムに育てられた新人監督たち,W.フセイン(《小さな恋のメロディ》1971),N.ローグ(《パフォーマンス》1969),A.パーカー(《ミッドナイト・エクスプレス》1978),H.ハドソン(《炎のランナー》1982)らが輩出するが,こうした新しい才能も,結局はアメリカ映画に吸収されてしまうという事情は変わっていない。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イギリス映画」の意味・わかりやすい解説

イギリス映画
いぎりすえいが

映画は、イギリスにおいても、ほかの欧米諸国と歩調をあわせるようにして19世紀に誕生した。写真家だったウィリアム・フリーズ・グリーンWilliam Friese Greene(1855―1921)が原始的な映画カメラを発明したのは1889年で、映画がイギリスで初めて上映されたのはその7年後の1896年であった。まずフランスのリュミエール兄弟の映画が公開され、ついでイギリス人ロバート・ウィリアム・ポールRobert William Paul(1869―1943)の劇映画が料金をとって公開された。

[品田雄吉]

サイレント映画時代

ポールに続いて、セシル・ヘプワースCecil Hepworth(1874―1953)や、のちに出身地にちなんでブライトン派と名づけられたジェームズ・ウィリアムソンJames Williamson(1855―1933)、ジョージ・アルバート・スミスGeorge Albert Smith(1864―1951)などが作品を発表した。これらは大部分が1分足らずの短いものだったが、すでに二重焼きや大写しやモンタージュの表現手法が使われていた。記録映画はニュースや実写から始まり、1911年には早くもハーバート・ジョージ・ポンティングHerbert George Ponting(1870―1935)によって1時間30分の長編『スコットの南極探検』がつくられている。しかし、サイレント映画時代のイギリス映画は、外国映画上映も含めた興行面では隆盛だったが、製作面では不振だった。たとえば、1910年にイギリスで公開された映画の内訳は、フランス36%、アメリカ28%、イタリア17%で、自国の作品はわずか16%にすぎなかった。さらに、サイレント後期の1926年には、自国作品はわずか5%の34本にまで衰退する。1927年に、それまでの映画法が改正され、自国映画保護のための「スクリーンクオータ」が法制化された。劇場は定められた割合だけ自国映画を上映しなければならないとする法律で、その効果は目覚ましく、1926年の34本に対し、クオータ制施行の1927年には128本と急増した。しかし、本数は増えたものの、作品の質の面ではほとんどみるべきものはなかった。この時期の代表作には、アルフレッド・ヒッチコックの『下宿人』(1926)、ハーバート・ウィルコックスHerbert Wilcox(1892―1977)の『暁(あかつき)』(1928)などがある。

[品田雄吉]

コルダとロンドン・フィルム

サイレント映画の字幕のイラストレーターから監督になったヒッチコックは、1929年にイギリス最初のトーキー映画『恐喝(ゆすり)』を発表したが、イギリス映画に良質な作品が生まれるのはトーキーになってからであった。サイレント時代は、英語字幕をもったアメリカ映画の隆盛がイギリス映画を圧倒していたが、トーキーになると両国の言語の差が意識され、それが映画製作の活発化へとつながっていった。

 1932年にハンガリー生まれのアレグザンダー・コルダがロンドン・フィルムを設立し、自ら『ヘンリー8世の私生活』(1933)を監督、またフランスから招いたルネ・クレールに『幽霊西へ行く』(1935)、ジャック・フェデーに『鎧(よろい)なき騎士』(1937)を監督させた。同じくハンガリー生まれの映画製作者ガブリエル・パスカルGabriel Pascal(1894―1954)は、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲の映画化『ピグマリオン』(1938)を発表した。欧米で映画製作を経験していたコルダは、娯楽性の強い大作を次々に発表し、イギリス映画の大きな力となったが、スタッフやキャストの顔ぶれが国際的で、その作品傾向も純粋にイギリス的とはいいがたい。

[品田雄吉]

ドキュメンタリー映画運動とその展開

1929年には、ジョン・グリアスンJohn Grierson(1898―1972)がドキュメンタリー映画『流網船』をつくった。彼が中心となって提唱されたドキュメンタリー映画運動は、当時20代になったばかりのベジル・ライトBasil Wright(1907―1987)やポール・ローサPaul Rotha(1907―1984)らが製作と理論の両面で活躍し、現実の記録に映画的な詩情を織り込んだ独自の流派を形成した。アメリカ出身のロバート・フラハティが、アイルランドの孤島で名作『アラン』(1934)をつくったのもこの運動の大きな成果である。第二次世界大戦が始まると、報道で戦意高揚の手段としてドキュメンタリー映画の製作がさらに活発になり、ロイ・ボールティングRoy Boulting(1913―2001)の『砂漠の勝利』(1943)、キャロル・リードの『真の栄光』(アメリカのガースン・ケニンGarson Kanin(1912―1999)と合作。1945)は、とくに優れた戦争記録映画であった。

 こうして形づくられたイギリス・ドキュメンタリー映画の伝統は、第二次世界大戦中から戦後にかけて劇映画と結び付き、写実的な真実感をもった劇映画というイギリス映画独自の特色を生み出していく。実景を舞台背景に、生活感をもった地味な人間たちが主役を演じるという特色は、デビッド・リーンの『逢(あい)びき』(1945)やリードの『邪魔者は殺(け)せ』(1947)などの秀作にもみられるが、とくにマイケル・バルコンの主宰するイーリング・スタジオの作品に、劇と記録のイギリス的融合が顕著であった。

 1934年ごろから映画製作に進出していたイギリスの製粉王アーサー・ランクArthur Rank(1888―1972)は、第二次世界大戦後急激に映画の製作と興行活動を拡大し、前記のイーリングを含む傘下の各プロダクションは、競って特色ある作品群を生み出した。イギリス演劇界の寵児(ちょうじ)だったローレンス・オリビエ監督・主演の『ヘンリイ五世』(1945)、『ハムレット』(1948)は、シェークスピア劇の映画化に大きな成功を収め、またマイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーの製作監督チームによる『天国への階段』(1946)、『黒水仙』(1947)、『赤い靴』(1948)などは映画の色彩表現に多大の成果をあげた。

 第二次世界大戦中閉鎖されていたコルダのロンドン・フィルムも活動を再開し、リードの『第三の男』(1949)などを送り出した。また、イギリス映画の最大の特色ともいうべき劇と記録の融合は、それにユーモアを加えたイギリス調の喜劇へと発展し、チャールズ・クライトンCharles Crichton(1910―1999)の『ラベンダー・ヒル・モブ』(1951)、アレグザンダー・マッケンドリックAlexander Mackendrick(1912―1993)の『マダムと泥棒』(1955)などを生んだ。

 しかし、コルダの死(1956)のころからイギリスで製作されるアメリカ映画が多くなってきた。これにはさまざまな理由があるが、要約すればイギリス映画界がアメリカ映画の巨大な資本にのみ込まれた結果だといえるだろう。リーンが監督した『戦場にかける橋』(1957)や『アラビアのロレンス』(1962)は、アメリカ資本のもとでつくられたイギリス映画である。

[品田雄吉]

フリー・シネマ以降

1959年にジャック・クレイトンJack Clayton(1921―1995)の『年上の女』とトニー・リチャードソンの『怒りをこめてふり返れ』が発表され、イギリス映画は新しい展開を迎えた。イギリスの古い階級社会がもたらす閉塞(へいそく)状況に対して、労働者階級の若者たちの怒りといらだちが文学、演劇、映画で表現されるようになった。このいわゆる「怒れる若者たち」の出現は、映画界においても「フリー・シネマ」とよばれる新しい潮流を生んだ。その代表的な作品は、カレル・ライスの『土曜の夜と日曜の朝』(1960)、リチャードソンの『蜜(みつ)の味』(1961)、『長距離ランナーの孤独』(1963)、リンゼイ・アンダーソンLindsay Anderson(1923―1994)の『孤独の報酬』(1963)などである。『或(あ)る種の愛情』(1962)をつくったのち、アメリカで『真夜中のカーボーイ』(1969)を監督し、アカデミー作品賞と監督賞を受賞したジョン・シュレジンジャーも注目された。『レイニング・ストーンズ』(1993)や『麦の穂を揺らす風』(2006)などで一貫して反権力の映画をつくり続けるケン・ローチは、イギリス・ドキュメンタリー映画とフリー・シネマの伝統を受け継いだ監督だといえるだろう。

 また、ジョゼフ・ロージーやスタンリー・キューブリックのように、アメリカからイギリスに居を移して活躍した監督もおり、同じ英語圏である関係上両国の映画人は互いに交流しあって、それがイギリス映画の独自性を希薄にする結果も生んでいる。たとえば、オリビエやジョン・ギールグッドらの名優はしばしばアメリカ映画に主演したし、『わが命尽きるとも』(1966)のフレッド・ジンネマン、ビートルズもので名をあげたリチャード・レスターRichard Lester(1932― )などのように、イギリス、アメリカを問わずに活動している監督も多い。BBCテレビ出身のケン・ラッセル、「007」シリーズのテレンス・ヤングTerence Young(1915―1994)やガイ・ハミルトンGuy Hamilton(1922―2016)、チャールズ・ブロンソンCharles Bronson(1921―2003)の主演ものを多く手がけているマイケル・ウィナーMichael Winner(1935―2013)などは、イギリス映画の監督というよりは英語圏で活躍する作家というべきだろう。『小さな恋のメロディ』(1970)のワリス・フセインWaris Hussein(1938― )はテレビ出身であり、『炎のランナー』(1981)のヒュー・ハドソンHugh Hudson(1936―2023)はCMフィルム出身、『素晴らしき戦争』(1965)や『ガンジー』(1982)のリチャード・アッテンボローRichard Attenborough(1923―2014)は俳優出身と、20世紀後半のイギリス映画の監督地図は多様となった。

 労働党政権となった1990年代以降、政府の積極的な援助と、BBCやチャンネル4といったテレビ・ステーションが映画製作に力を入れたことにも助けられ、イギリス映画は質の良い作品を生み出している。たとえば、アメリカ・アカデミー賞の作品賞受賞作は、1996年はアンソニー・ミンゲラAnthony Minghella(1954―2008)の『イングリッシュ・ペイシェント』、1998年はジョン・マッデンJohn Madden(1949― )の『恋におちたシェイクスピア』とイギリス映画が受賞しているし、2000年に作品賞を受けた『グラディエーター』の監督はイギリス出身のリドリー・スコットであった。

 また、国際映画祭においてもイギリス映画の評価は高い。1993年に『ネイキッド』でカンヌ国際映画祭監督賞を受けたマイク・リーは、1996年に『秘密と嘘』でカンヌ国際映画祭パルム・ドール(最高賞)、2004年には『ヴェラ・ドレイク』でベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞している。ポール・グリーングラスPaul Greengrass(1955― )は北アイルランドで起きた血の日曜日事件を描いた『ブラディ・サンデー』(2002)でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞、同時多発テロでハイジャックされたユナイテッド航空93便の機内をリアルに描いた『ユナイテッド93』(2006)ではアカデミー賞の監督賞の候補にあげられた。マイケル・ウィンターボトムMichael Winterbottom(1961― )は、『ウェルカム・トゥ・サラエボ』(1997)などがカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、2003年にはパキスタン難民の少年を描いた『イン・ディス・ワールド』(2002)でベルリン国際映画祭金熊賞を受けた。また前述のケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』(2006)もカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞している。スティーブン・フリアーズStephen Frears(1941― )の『クィーン』(2006)はダイアナ元皇太子妃の事故死をめぐるイギリス王室の対応を描き、エリザベス女王を演じたヘレン・ミレンHelen Mirren(1945― )が同年度のアカデミー主演女優賞を受賞した。

 前述のようにイギリスとアメリカの映画人の相互交流は近年とくに顕著になったが、さらにそれに加えて、ニコール・キッドマンNicole Kidman(1967― )、ケイト・ブランシェットCate Blanchett(1969― )、ラッセル・クロウRussell Crowe(1964― )、サム・ニールSam Neill(1947― )、ジェーン・カンピオンJane Campion(1954― )など、オーストラリアやニュージーランドの俳優や監督たちが英米の映画界で大活躍するようになって、いわゆる「英語映画」はいっそうその強力さを増している。

 かつて人気のあった娯楽アクション映画『007』シリーズの特色は、『ハリー・ポッター』シリーズ(2001~2011)や『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ(2001~2003)に受け継がれ、イギリス映画はアメリカ資本の娯楽大作にも大きな役割を果たしているといえるだろう。

[品田雄吉]

『筈見有弘著『イギリス映画史』(『世界の映画作家32』所収・1976・キネマ旬報社)』『フレッド・ジンネマン著、北島明弘訳『フレッド・ジンネマン自伝』(1993・キネマ旬報社)』『アンドリュー・ユール著、島田陽子訳『リチャード・レスター――ビートルズを撮った男』(1996・プロデュース・センター出版局)』『トニー・リチャードソン著、河原畑寧訳『長距離ランナーの遺言――映画監督トニー・リチャードソン自伝』(1997・日本テレビ放送網)』『アルフレッド・ヒッチコック著、鈴木圭介訳『ヒッチコック映画自身』(1999・筑摩書房)』『巽孝之編『キネ旬ムック フィルムメーカーズ8 スタンリー・キューブリック』(1999・キネマ旬報社)』『入江敦彦著『英国映画で夜明けまで』(2000・洋泉社)』『グレアム・フラー編、村山匡一郎・越後谷文博訳『映画作家が自身を語る ケン・ローチ』(2000・フィルムアート社)』『塚田三千代監修、亀山太一他訳『グラディエーター――リドリー・スコットの世界』(2001・スクリーンプレイ出版)』『スティーヴン・ローウェンスタイン編、宮本高晴訳『マイ・ファースト・ムービー――私はデビュー作をこうして撮った』(2002・フィルムアート社)』『狩野良規著『スクリーンの中に英国が見える』(2005・国書刊行会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イギリス映画」の意味・わかりやすい解説

イギリス映画
イギリスえいが

20世紀の初め,イギリス海峡に面したブライトンを中心に映画制作を始めた「ブライトン派」は,その表現手法と社会的主題でイギリス映画を世界の最先端に押上げたが,その後外国映画に圧倒され,衰退の一途をたどった。 1920年代末期に A.ヒッチコック,A.アスキス監督がデビューするが,国際的評価を得るためにはロンドン・フィルムを創立した A.コルダの出現まで待たなければならなかった。トーキーへの転換は 30年に訪れたが,この時期に活発化したドキュメンタリー映画運動が,以後イギリス映画の伝統となる。 30年代後半にはカラー映画の制作が始り,M.パウエルと E.プレスバーガーのコンビがすぐれた色彩処理によって注目を浴びた。 40年代には D.リーンと C.リードが頭角を現し,第2次世界大戦後の荒廃した社会を背景にヒューマンな映画作りを目指し,戦後黄金時代の牽引力となった。こうした伝統は,50年代後半に登場した「怒れる若者たち」によって激しい抵抗を受けた。しかし 60年代なかばからの映画界の衰退は,多くの映画人をアメリカへと流出させ,70年代に活躍したのは K.ラッセルと J.ロージーぐらいであった。しかし,80年代には S.フリアーズ,D.ジャーマン,P.グリーナウェイら性描写などのタブーに挑戦し新感覚で時代を描く世代が台頭した。また,麻薬や家庭の崩壊,ホームレスといった今日的なテーマに取組む H.クレイシら若い作家たちが登場しつつある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のイギリス映画の言及

【フリー・シネマ】より

…また同時に,彼らは〈われわれの姿勢を貫くものは,自由,民衆の重要性,そして日常のもつ意味を信じることにある〉というマニフェストを掲げて実作活動を行い,そこからアンダーソンの《ロンドンの夜明け前》(1957),カレル・ライスの《ランベスの少年たち》(1959)などが生まれた。やがて彼らは長編劇映画の監督となるが,労働者階級の若者の日常に目を向けるドキュメンタリストとしての姿勢はそのままひきつがれて,演劇界における〈怒れる若者たち〉(アングリー・ヤング・メン)の世代の作家たちと結びついてイギリス映画の新しい波を形成した。リチャードソンが製作に当たり,カレル・ライスが監督したアラン・シリトーAlan Sillitoe(1928‐ )原作の《土曜の夜と日曜の朝》(1960),アラン・シリトー原作,トニー・リチャードソン製作・監督の《長距離ランナーの孤独》(1962),カレル・ライスが製作,アンダーソンが監督した《孤独の報酬》(1963)などがその代表作とみなされる。…

※「イギリス映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android