ナーセル

百科事典マイペディアの解説

ナーセル

エジプトの軍人,政治家。歳若くして民族運動に参加する。1952年自由将校団を率いてエジプト革命に成功し,王制を廃して,1953年共和国を樹立した。1954年ナギーブを追放して首相となり,1956年―1970年大統領となる。非同盟諸国の旗手として活躍するかたわら外国資本を国有化し,農地改革などによる近代化を推進した。とくにアスワン・ハイダム建設資金をめぐってスエズ運河の国有化を行い,続く第2次中東戦争スエズ動乱)で政治的勝利を得た。アラブ民族主義のリーダーとしてアラブ諸国に対して指導権を振るったが,1961年のシリアとの合邦の失敗,1967年の第3次中東戦争での敗北などでその国際的地位は弱まった。→非同盟諸国会議
→関連項目アラブ連合共和国エジプトサイイド・クトゥブサーダートナギーブパレスティナ問題

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

ナーセル【Jamāl ‘Abd al‐Nāṣir】

1918‐70
エジプトの政治家,軍人。伝統的エリートの家の出ではなく,上エジプトの郵便局員の家に生まれ,早くから反英民族運動に加わり,1938年陸軍士官学校を卒業,48‐49年のパレスティナ戦争(第1次中東戦争)において前線指揮官として勇名を馳せた。48年ころからひそかに結成された自由将校団Ḍubbāṭ al‐Aḥrārの中心人物となり,パレスティナ戦争のなかで真の戦線は国内の革命にあることを知った。52年7月エジプト革命において自由将校団を率いて指導的役割を果たし,54年ナギーブ大統領失脚後,首相兼革命軍事会議議長となり(56年大統領就任),名実ともに革命指導の最高責任者となった。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

世界大百科事典内のナーセルの言及

【アラブ連合共和国】より

…時代史的には当時アラブ地域に高まっていた全アラブ統合主義の政治的表現と見ることができる。しかし現実の統合過程において,推進母体であるエジプトのナーセルとシリアのバース党は当初から異なった期待と戦略を抱いていた。バース党が統合過程を通してシリア内部での実質的支配権を握ろうとしたのに対し,ナーセルは合邦の条件として,〈一部のシリア人が望んでいるような緩い連邦制ではなく,高度に中央集権化された統合体〉を構想していた。…

【エジプト革命】より

ナーセルサーダート等の自由将校団を中心として1952年7月におきたエジプトの独立運動。エジプトはすでに1922年に独立国となっていたが,この独立は植民地宗主国イギリスにより形式的に付与されたものにほかならず,軍事・外交権の欠除はもちろん,国内でやっと確立された立憲君主制も,エジプト人とは関係のない従来どおりのアルバニア出身のムハンマド・アリー朝を追認したものでしかなかった。…

【スエズ運河】より

… エジプトは当初スエズ運河会社の株式44.4%を所有し,最大の株主であったが,イギリスはエジプトが財政困難に陥ったことにつけ込み,75年エジプトの持株をそっくり買い取り,第2次世界大戦までイギリスはスエズ運河通行船舶の過半を占め,経済的利益を享受した。スエズ運河への発言権を失ったエジプトはその後イギリスによって植民地化され,スエズ運河に対する主権を回復するのは,第2次大戦後ナーセルの指導で成就したエジプト革命(1952)の後である。 すなわち,1956年エジプトはスエズ運河収益をアスワン・ハイ・ダム建設費に当てるため,スエズ運河国有化を宣言した。…

【中東戦争】より

…第2次大戦後アジア,アフリカのナショナリズムが高揚する一方,東西冷戦はアメリカの対ソ戦略を中東に広げ,55年にはバグダード条約機構が成立し,対ソ包囲網の一翼を担った。ナーセル・エジプト大統領はこのようなアメリカの戦略に反対するとともに,パレスティナ・ゲリラとイスラエル軍の衝突がもたらす国防上の必要から武器の入手先を求め,55年9月エジプト・チェコスロバキア間に武器協定が結ばれた。ナーセルの権威を決定的に高めることになったのは,56年7月26日ナーセルがアスワン・ハイ・ダム建設資金捻出のためスエズ運河会社の国有化を宣言してからであった。…

※「ナーセル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

ビル風

高層建築物の周辺でみられる、建物による風の乱れをいう。風向の変化のほかに風速の強弱によって表される。一般には、高層ビルの周辺で吹く強い風をさすことが多い。 風の強くなる場合として次の三つがある。(1)...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

ナーセルの関連情報