改訂新版 世界大百科事典 「ナーセル」の意味・わかりやすい解説
ナーセル
Jamāl `Abd al-Nāṣir
生没年:1918-70
エジプトの政治家,軍人。伝統的エリートの家の出ではなく,上エジプトの郵便局員の家に生まれ,早くから反英民族運動に加わり,1938年陸軍士官学校を卒業,48-49年のパレスティナ戦争(第1次中東戦争)において前線指揮官として勇名を馳せた。48年ころからひそかに結成された自由将校団Ḍubbāṭ al-Aḥrārの中心人物となり,パレスティナ戦争のなかで真の戦線は国内の革命にあることを知った。52年7月エジプト革命において自由将校団を率いて指導的役割を果たし,54年ナギーブ大統領失脚後,首相兼革命軍事会議議長となり(56年大統領就任),名実ともに革命指導の最高責任者となった。ナーセルは腐敗した王政を倒したが,大衆の参加による革命ではなく,前衛による革命の形をとらざるをえなかった。
国内政策としては,第1次農地改革を実施し,産業振興に努め,対外政策としてはエジプト駐留イギリス軍の撤兵,バンドン会議における非同盟の旗手の役割,アラブ世界における民族主義(アラブ民族主義)の中核的役割など華々しい活動を展開した。55年チェコスロバキアからの武器購入,バグダード条約機構加盟の拒否によって対欧米関係が悪化し,アスワン・ハイ・ダム建設に対する世界銀行の融資の約束が撤回され,ナーセルはこれに対し56年スエズ運河国有化をもってこたえた。この措置は脱植民地化のシンボルとされたが,イギリス,フランス,イスラエル軍の介入によるスエズ戦争を引き起こした。軍事介入はエジプトの抵抗と国際世論によって失敗に帰したが,エジプトの対ソ接近を確定的なものとし,アスワン・ハイ・ダムと工業化計画に対するソ連の援助が大々的に行われることになった。
エジプト革命の当初,ナーセルは欧米との協調の姿勢をもって政策指導にあたり,欧米からの外資導入も積極的で国内的にも緩やかな経済社会改革をとってきた。しかし,対欧米関係の悪化と,大地主や大資本家の革命に対する抵抗のため,社会主義政策に踏み切った。私企業優先主義から国家主導による計画経済への転換が50年代末に現れ,シリアとの連合(アラブ連合共和国,1958-61)とその後の分離を契機として,61年社会主義宣言が行われたのである。社会主義宣言とともに第2次農地改革が導入され,大私企業の国有化措置がとられ,革命政権に不信を抱く大地主・大資本,政権内の右派が追放された。他方,革命の当初からマルクス主義左派グループおよびムスリム同胞団は非合法化されており,ナーセル体制内の左派・右派の対立も国民憲章をめぐり,激しいものとなった。
60年代にはイエメン内戦に介入し失敗した。またパレスティナ解放運動の支持とパレスティナ問題の〈平和的〉解決の間に立って揺れ動いた。そして67年第3次中東戦争の敗戦によって,ナーセル体制は事実上その歴史的役割を終えた。敗戦後ナーセルは慰留されて大統領の職にとどまり,敗戦後の再建と対アラブ諸国関係の回復に努め,70年ヨルダン内戦をめぐるヨルダン政府とPLOの関係回復に努めたが,そのさなか過労のため心臓発作で死去した。
ナーセルは,社会主義政策によって古い伝統的諸制度・社会関係に打撃を与え,結果的にはナーセル後にめざましく開花した資本主義化を準備した。また非同盟の旗手として,アラブ民族運動の指導者として大きな役割を果たし,国の独立と尊厳をアラブ諸国民に教えた。その反面,アラブ世界の覇権を求め,イエメン内戦介入と第3次中東戦争の失敗を招いた。また公共部門主義と協同組合主義の導入は,その反面で官僚的資本家層を生み出した。このようなナーセルの評価をめぐる賛否両論にもかかわらず,アラブ世界のなかでナーセルが果たした政治的役割は高く評価されている。
執筆者:中岡 三益
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報