ハールーンアッラシード(読み)はーるーんあっらしーど(その他表記)Hārūn al-Rashīd

デジタル大辞泉 「ハールーンアッラシード」の意味・読み・例文・類語

ハールーン‐アッラシード(Hārūn al-Rashīd)

[766?~809]アッバース朝第5代のカリフ在位786~809年。王朝全盛期を代表する君主領土を拡大し、学芸奨励。「千夜一夜物語」に登場

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハールーンアッラシード」の意味・わかりやすい解説

ハールーン・アッラシード
はーるーんあっらしーど
Hārūn al-Rashīd
(766/763―809)

アッバース朝第5代カリフ(在位786~809)。この王朝の全盛期を代表するカリフで、一般的には奢侈(しゃし)と快楽を好む典型的な君主とされているが、実際にはカリフの威信を保つための細心の注意を怠らなかった人物である。ただ、その治世中にはさまざまな重要事件が発生し、アッバース朝が政治的に衰運に向かう契機をつくった。

 第3代カリフのマフディーの第3子で、イエメン系の、もと女奴隷ハイズラーンを母として生まれ、華やかな宮廷生活のなかで育った。皇太子時代の779/80年と781/82年の2回、対ビザンティン遠征軍の総指揮官に任ぜられ、ボスポラス海峡にまで迫る勢いをみせた。母やバルマク家のヤフヤー・ブン・ハーリドらの宮廷工作が実を結ばず、兄ハーディーがカリフにつくと、冷遇されしばらく逆境にあったが、その突然の死でカリフ位についた。対外的には対ビザンティン政策を積極的に進め、国境付近の諸都市を要塞(ようさい)化して侵攻の基地とし、797年には現在のアンカラまで親征して女帝イレーネに朝貢させた。ニケフォロス1世(在位802~811)が即位して緊張関係が生じると、803年と806年にもビザンティン奥深く親征した。ヨーロッパ側の史料によると、フランク国王カール大帝からの使節を受け入れたとされているが、アラブ側の史料にはみえない。

 対内的には、アッバース朝の支配に不満をもつさまざまな党派の反乱が相次ぎ、鎮定に苦しんだ。内政はこの王朝の初代から重用されていたイラン系のバルマク家一門にほとんどをゆだね、それは17年間に及んだが、おそらくイラン系勢力の、より以上の伸張を恐れて、803年突如これを断絶し、自ら国政に臨んだ。また宮廷に多くの学者や文人を集め、学術を保護奨励してイスラム文化の花を咲かせた。『千夜一夜物語』の登場人物としても有名である。

森本公誠

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改訂新版 世界大百科事典 「ハールーンアッラシード」の意味・わかりやすい解説

ハールーン・アッラシード
Hārūn al-Rashīd
生没年:766-809

アッバース朝第5代カリフ。在位786-809年。生年は763年の説もある。この王朝の全盛期を代表する君主で,797,803,806年の3回にわたってビザンティン帝国に親征,屈辱的講和条件を与えたが,対内的には相次ぐ反乱の鎮圧に苦慮した。内政では,最初の17年間はバルマク家一門を重用したが,その権勢があまりにも強大になりすぎたために,803年にこれを断絶させ,自ら政治に臨んだ。《千夜一夜物語》の登場人物としても有名。
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百科事典マイペディア 「ハールーンアッラシード」の意味・わかりやすい解説

ハールーン・アッラシード

アッバース朝第5代のカリフ(在位786年―809年)。バルマク家のヤフヤーなどを重用し,アッバース朝の最盛期を現出。詩人・楽士を保護し,数次の小アジア遠征を行い,インド王やフランクのカール大帝と使節や贈物を交換した。
→関連項目千夜一夜物語マシュハド

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハールーンアッラシード」の意味・わかりやすい解説

ハールーン・アッラシード
Hārūn al-Rashīd

[生]763.3. /766.2. レイ
[没]809.3.24. マシュハド
アッバース朝第5代のカリフ (在位 786~809) 。『千一夜物語』の主人公として知られる。父は第3代カリフ,マフディー。母ハイズラーンはベルベル人奴隷。西部地域の総督在任中の 782年,ビザンチン帝国の女帝イレネと講和を結び,70万ディーナールの貢納金を得た。バルマク家出身の有能な宰相に恵まれ,彼の時代にアッバース朝は文化的にも経済的にも極盛期を迎えた。 803年バルマク家の権勢を恐れて一族を処刑したが,809年サマルカンドの反乱の鎮圧に向う途中病没し,トゥースに葬られた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ハールーンアッラシード」の解説

ハールーン・アッラシード
Hārūn al-Rashīd

763/766~809(在位786~809)

アッバース朝の第5代カリフ。バルマク家のヤフヤー,および二人の子ファドルおよびジャーファルを重用し,アッバース朝の黄金時代を築いた。また多くの詩人,楽師を保護した。在位中,しばしばアナトリアに遠征し,インド王やフランクカール大帝と使節,贈り物を交換した。ホラーサーンの反乱の鎮定に向かう途中,トゥースで病没した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ハールーンアッラシード」の解説

ハールーン=アッラシード
Hārūn al-Rashīd

763ごろ〜809
アッバース朝の第5代カリフ(在位786〜809)
内政を整備し,外交面では小アジアに侵入し,カール大帝(1世)とも使節を交換したとされ,アッバース朝の全盛期を築いた。文化のあらゆる面に才能と理解をもち,学問・芸術・科学などを保護してイスラーム文化の黄金時代を現出。『アラビアン=ナイト』に登場することでも有名。

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世界大百科事典(旧版)内のハールーンアッラシードの言及

【オランダ美術】より

… ネーデルラントはブルゴーニュ公国時代に一大発展を遂げて経済的・文化的隆盛を極めるが,北部は後進的な地位にとどまっていたため,優れた芸術家はしばしば国外に活躍の場を求めた。ハールレムが生んだオランダ最大の彫刻家C.スリューテルは国際ゴシック様式にくみせず堂々たる量感に富んだ石彫像を制作して新たな写実主義への道を開いたが,もっぱらフランスのディジョンで活動したため出身地にはほとんど影響を残していない。絵画においてもミニアチュール画家としてフランスの宮廷で活躍したマルーエルJan Malouel(?‐1415)とランブール兄弟,ルーバンで市の画家を務めたバウツなどは,北部の出身であるにもかかわらず,通常はそれぞれフランスおよびフランドル美術史の中に位置づけられている。…

※「ハールーンアッラシード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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