バルフォア(読み)ばるふぉあ(英語表記)Francis Maitland Balfour

デジタル大辞泉 「バルフォア」の意味・読み・例文・類語

バルフォア(Arthur James Balfour)

[1848~1930]英国の政治家。1902~1905年の首相在任中に英仏協商を締結。第一次大戦中、外相としてユダヤ民族のパレスチナ復帰を支持する「バルフォア宣言」を発表。

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精選版 日本国語大辞典 「バルフォア」の意味・読み・例文・類語

バルフォア

  1. ( Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour アーサー=ジェームズ━、ファースト=アール=オブ━ ) イギリスの政治家。保守党員。一九〇二~〇五年首相。英仏協商締結に尽力。第一次世界大戦中(一九一七)外相としてバルフォア宣言を発表し、ユダヤ人のパレスチナ復帰、建国を約束。パリ講和会議、国際連盟総会、ワシントン軍縮会議代表。(一八四八‐一九三〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バルフォア」の意味・わかりやすい解説

バルフォア(Francis Maitland Balfour)
ばるふぉあ
Francis Maitland Balfour
(1851―1882)

イギリスの動物学者。ケンブリッジ大学発生学を専攻し、軟骨魚類とくにサメの発生を研究した。広い視野と該博な知識により、散在していた発生学の諸業績を総括し、比較発生学の見地から優れた著書を残した。C・R・ダーウィンの『種の起原』(1859)が発表され、発生学上から進化の裏づけをしようとする風潮のなかで、E・ヘッケル反復説生物発生原則)などに啓発されたバルフォアの業績は、その後の進化論の確立と発展に大きく寄与した。アルプス登山中若くして墜死。政治家・哲学者でイギリス首相となったA・J・バルフォアは彼の兄である。主著に『板鰓(ばんさい)魚類の発生』(1878)、『比較発生学論』(1881)などがある。

[町田武生]


バルフォア(1st Earl of Balfour, Arthur James Balfour)
ばるふぉあ
1st Earl of Balfour, Arthur James Balfour
(1848―1930)

イギリスの政治家。ケンブリッジ大学を卒業後、哲学の研究を行う一方、1874年保守党下院議員として政界入りした。1886年スコットランド担当相となり、1887~1891年にはアイルランド担当相として、アイルランド国民同盟の運動に激しい弾圧を加えた。1902年首相に就任、南アフリカ戦争ブーア戦争)で苦戦した教訓のうえにたって帝国防衛委員会を設立、外交面ではイギリス・フランス協商を成立させた。保守党が、ジョゼフ・チェンバレンの関税改革運動をめぐって内部分裂するなかで、1905年12月に首相を辞任、1906年の下院選挙に命運をかけたものの、保守党の大敗という結果を招じた。1911年保守党党首の座をボナ・ローに譲ったが、第一次世界大戦中は海相、外相として活躍、外相在任中の1917年には、シオニストに対してパレスチナに民族的郷土の樹立を認める「バルフォア宣言」を発した。戦後は枢密院議長ワシントン会議首席代表などを務めた。

[木畑洋一]

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百科事典マイペディア 「バルフォア」の意味・わかりやすい解説

バルフォア

英国の首相。1874年下院に入り,伯父ソールズベリーの2度の内閣において内相,スコットランド担当相,アイルランド担当相を務め,保守党下院院内総務(1891年−1892年,1895年−1902年)として頭角を現し,1902年ソールズベリーの引退後,首相となる(−1905年)。その政権のもとで教育法,アイルランド土地購入法を成立させ,また1904年英仏協商を結んでそれまでの孤立政策を転換させた。植民相J.チェンバレンの関税改革論のために閣内不統一をきたして辞職。第1次大戦中は連立内閣に海相(1915年−1916年),外相(1916年−1919年)として入閣。1917年アメリカの参戦の際に遣米使節団長となり,またパレスティナにユダヤ人国家の建設を認める〈バルフォア宣言〉を発表。1919年パリ講和会議の全権のひとりとして出席。枢密院議長(1919年−1922年,1925年−1929年)。この間ワシントン会議の全権となり,また本国と自治領との対等な関係を規定した報告書を帝国会議に提出,それが死去の翌年の1931年〈ウェストミンスター憲章〉として成文化された。

バルフォア

英国の動物学者。ケンブリッジ大学で学び,ナポリの臨海実験所などでサメの発生を研究。発生学の諸業績を比較発生学的な観点からまとめた著書《比較発生学》(1880年―1881年)が知られる。アルプス登山中に墜死。
→関連項目箕作佳吉

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改訂新版 世界大百科事典 「バルフォア」の意味・わかりやすい解説

バルフォア
Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour
生没年:1848-1930

イギリスの保守党政治家。1874年下院に入り,伯父ソールズベリー首相のもとで,86-87年スコットランド相,87-91年アイルランド相,91-92,95-1902年保守党下院院内総務を歴任。1902年同首相引退後政権を引き継ぎ,教育法,アイルランド土地購入法を成立させる一方,04年英仏協商を締結して孤立政策から同盟政策への転換を図った。翌年J.チェンバレンの関税改革論をめぐる閣内不統一から辞職。第1次世界大戦中は連立内閣に海相(1915-16),外相(1916-19)として入閣,17年ユダヤ人のパレスティナ復帰を支持する〈バルフォア宣言〉を行い,19年パリ講和会議に全権の一人として出席した。19-22年枢密院議長,22年ワシントン会議にも全権として出席,25-29年再度枢密院議長。26年イギリス本国と自治領の対等な関係を定義した報告書を帝国会議に提出,これは31年〈ウェストミンスター憲章〉として条文化された。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「バルフォア」の解説

バルフォア
Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour

1848~1930

イギリスの政治家。叔父ソールズベリの秘書として国際政治を体験するとともに,保守党内閣の閣僚を歴任。1902年ソールズベリの引退後首相(在任1902~05)となり,教育法,アイルランド土地法を制定し,04年英仏協商を結んだが,関税問題をめぐる閣内不統一のため辞職。第一次世界大戦中は連立内閣に参加し,海相をへて,16年から外相となり,翌年パレスチナユダヤ人国家の建設を認める「バルフォア宣言」を発表し,今日まで禍根を残す結果となった。大戦終結後は,パリ講和会議ワシントン会議の全権として重要な役割を演じ,また枢密院議長として本国と植民地の対等な関係を規定した報告書を提出,それが死の翌年「ウェストミンスター憲章」として成文化された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バルフォア」の意味・わかりやすい解説

バルフォア
Balfour, Arthur James, 1st Earl of Balfour

[生]1848.7.25. イーストロジアン,ホイッティングヘイム
[没]1930.3.19. サリー,ウォキング
イギリスの政治家。 1874年から保守党議員。 78年ソールズベリー (侯)外相の秘書となり,ベルリン会議に随行。次いでソールズベリー内閣の地方自治相 (1885~86) ,アイルランド事務相 (87~91) などを経て,大蔵総裁 (91~92,95~1902) ならびに保守党下院首領となった。 1902~05年首相となり,内政では教育法 (02) ,アイルランド土地買収法 (03) などを成立させ,外交では英仏協商 (04) の締結に努力した。第1次世界大戦中海相 (15~16) ,外相 (16~19) として入閣。戦後パリ講和会議 (19) ,ワシントン会議 (21~22) に代表として出席。 19~22,25~29年枢密院議長。 22年伯爵。

バルフォア
Balfour, Francis Maitland

[生]1851.11.10. エディンバラ
[没]1882.7.19. モンブラン
イギリスの動物学者。ケンブリッジ大学卒業。 1873年よりナポリ海洋研究所で脊椎動物について泌尿器の発生過程などを研究。この研究は,無脊椎動物から脊椎動物が進化してきたことを裏づける決定的な資料を提供した。 76年からケンブリッジ大学で動物形態学を講じ,また初の総括的な比較発生学の教科書である『比較発生学』A Treatise on Comparative Embryology (1880~81) を書いた。彼は発生学の基礎を築いた一人とされている。モンブラン登山中に事故死。政治家 A.バルフォアの弟。

バルフォア
Balfour, Robert

[生]1550?. フォーファーシャー
[没]1625以後
スコットランド出身の古典学者,教父学者。ラテン名は Robertus Balforeus。スコットランドの宗教改革を逃れてフランスに渡り,パリ大学での論争で名をあげた。アリストテレスの『オルガノン注解』(1616),『倫理学注解』(1620)などを著した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「バルフォア」の解説

バルフォア
Arthur James Balfour

1848〜1930
イギリスの政治家
保守党員。1902年首相となり,外交では日英同盟・英仏協商の締結に努力。1917年外相として,ユダヤ民族の建国を認めるバルフォア宣言を発した。

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世界大百科事典(旧版)内のバルフォアの言及

【紙・パルプ工業】より

…新聞用紙や印刷用紙,ティッシュペーパーといった生活関連需要を満たす洋紙と,段ボール箱などの産業用包装資材の原紙となる板紙,および両者の原料であるパルプを供給する工業をいう。パルプを原料として各種紙類を生産する産業を製紙業ないし製紙工業という。…

【針葉樹】より

…建築用材として昔から使われ,和風建物の室内装の主体をなす。またパルプの原材として広く利用されている。日本の造林木の中心で,針葉樹人工林は全森林面積の40%,1000万haを占めている。…

【竹紙】より

…中国では現在でも多く漉かれている。竹紙の製造は,それまでの麻や樹皮を原料とする製紙法から,樹木の木質部もパルプ化して紙をつくることへの先駆をなしたものといえよう。唐紙(からかみ)【須山 努】。…

【有用植物】より

…しかし靱皮繊維は収量が多くないので,工業的規模で利用されるのはジュートなど限られたものである。それに対して木材繊維をパルプとして利用することは,大規模な製紙工業として発展し,大量の北方針葉樹材がパルプ原料として利用されている。セルロースを成分とするパルプは製紙原料となるだけでなく,かつては人造繊維のレーヨン,フィルム製品のセロハン,セルロイドなどの原料になった。…

※「バルフォア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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