バーブル(読み)ばーぶる(英語表記)haīr al-Dīn Muammad Bābur

デジタル大辞泉 「バーブル」の意味・読み・例文・類語

バーブル(Ẓahīr al-Dīn Muḥammad Bābur)

[1483~1530]インドのムガル帝国初代皇帝。在位1526~1530。チムール5世の孫。中央アジアの小王国の王であったが、1526年パーニーパットの戦いでロディー朝の大軍を破り首都デリーを占領、続いて北インド主要部を征服。トルコ語による回想録は傑作とされる。

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精選版 日本国語大辞典 「バーブル」の意味・読み・例文・類語

バーブル

  1. ( Bābur ) インドのムガール帝国の開祖。チムール五世の孫。フェルガナ領主の子として生まれ、チムール帝国の再建をめざしたが失敗、インドに侵入してロディー王朝を倒し、一五二六年、デリーを本拠に建国、インドの統一を実現した。(一四八三‐一五三〇

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改訂新版 世界大百科事典 「バーブル」の意味・わかりやすい解説

バーブル
Bābur
生没年:1483-1530

インドのムガル帝国の創設者。在位1526-30年。中央アジアのフェルガナ地方アンディジャーンにティムール朝の王子として生まれる。母はモグーリスターン・ハーン家の出身。1494年父の死去により,12歳でティムール朝フェルガナ地方の太守となる。97年サマルカンドに入城して,ティムール朝サマルカンド政権の君主の位に就くが,フェルガナ地方における内乱のため,わずか100日でサマルカンドを放棄。99年アンディジャーンの奪回に成功,1500年にはウズベクのシャイバーニー・ハーンの手から再びサマルカンドを奪取したが,翌年シャイバーニー・ハーンにサリ・プルの戦で敗北,中央アジアでの活躍の場を失い,幾多の艱難辛苦の後,アフガニスタンに転身して,04年カーブルを征服。次いでこの地を本拠に,11年三たびサマルカンドをウズベクの手から奪還したが,翌12年ウズベクのウバイド・アッラーフ・ハーンに敗れ,以後中央アジアでの活動の道をまったく閉ざされた。しかしこれにくじけず,カーブルを本拠に,19年以降5次にわたってインドに侵入,26年パーニーパットの戦に,デリーのローディー朝の君主イブラーヒームの軍勢を撃破してデリー,アーグラを占領。翌27年にはラージプート族のラーナー・サンガーの軍勢をカンワーKanwāの戦で打破して,ムガル帝国によるインド支配の基礎を築いた。30年アーグラで病没。軍人・政治家として傑出していたにとどまらず,トルコ散文学史上最高の傑作とされる回想録《バーブル・ナーマBābur-nāma》を著し,またイメージ豊かな多数の詩を残した優れた文人でもあった。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「バーブル」の解説

バーブル
Bābur

1483~1530(在位1526~30)

インド,ムガル帝国創始者ティムールの5代目の子孫。中央アジアのフェルガナの領主バーブルは,ティムール帝国の復活をめざしたが,ウズベク人によって中央アジアを追われ,1504年,アフガニスタンのカーブルを征服。その後もサマルカンド奪還を試みたが,結局ウズベク人に敗れた。そこで,19年以降,5度インドに侵入し,26年パーニーパットの戦いでローディー朝の王イブラーヒームの大軍を撃破し,デリーアーグラーを占領。翌年,ラージプート連合軍も破り,ムガル帝国の北インド支配の基礎をほぼ築いた。30年,アーグラーで病死。彼は軍人,政治家としてだけでなく,文人としても傑出していた。その回想録『バーブル・ナーマ』はトルコ語散文学の最高傑作とされる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バーブル」の意味・わかりやすい解説

バーブル
ばーぶる
haīr al-Dīn Muammad Bābur
(1483―1530)

インドのムガル朝の始祖(在位1526~30)。ティームールの5世の孫。中央アジア、フェルガナの領主バーブルは、ティームール帝国の復活を夢みたが、ウズベク人のために自領をも奪われ、カブールに建国し、サファビー朝と結んで故国の回復を図ったが失敗した。そこで、おりからロディー朝の内紛で混乱していたインドへの遠征を決行した。中央アジアで鍛えられた軍事的才能と優秀な火砲をもった彼は、1526年、10倍ともいわれるイブラーヒーム・ロディーの大軍を、パーニーパットの戦いで撃破して首都デリーを奪い、さらにラージプート連合軍やベンガル王にも勝利し、北インド主要部を征服した。彼はその領地の主要部分を自己の武将たちに分与し統治させたが、少なからぬ部分を、服属したアフガン人豪族や各地の土豪(ザミーンダール)たちに所領として安堵(あんど)しなければならず、まだ帝国の安定を確立できなかった。彼のチャガタイ・トルコ語による回想録『バーブル・ナーマ』は一大傑作である。

[長島 弘]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バーブル」の意味・わかりやすい解説

バーブル
Bābur, Zahīr al-Dīn Muhammad

[生]1483.2.14. フェルガナ
[没]1530.12.26. アグラ
インド,ムガル帝国の創始者 (在位 1526~30) 。父の跡を継いでフェルガナ地方の領主となり,中央アジアの諸勢力と抗争,帝国建設を目指したが果さず,ついに中央アジアを追われて,アフガニスタンのカーブルからインドに侵入した。 1526年ロディー朝のイブラーヒームをパーニーパットに破り,デリーで新王朝を創始した。彼は父方でチムール (帖木児),母方でチンギス・ハン (成吉思汗)の血をひくといわれる。そのためこの王朝はムガル (モンゴル) 朝と呼ばれるようになった。著書『バーブル・ナーマ (回顧録) 』 Bābur Nāma。

バーブル
Bābol

1927年までバールフルーシュ Bārfurush。イラン北部,マーザンダラーン州の都市。カスピ海岸より 24km内陸のバーブル川沿岸に位置する。アッバース1世が夏の離宮を建てたが,重要になったのは 18世紀からで,19世紀には東カスピ海岸地域の最も新しい町とみなされ,ロシア貿易で繁栄した。しかし 20年以降は停滞し,現在は避暑地として発展。人口 13万 7348 (1991) 。

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百科事典マイペディア 「バーブル」の意味・わかりやすい解説

バーブル

バベルとも。インドのムガル帝国の創始者。1504年南下してカブールを征服,さらにパンジャーブ地方に侵入し,1526年にはパーニーパットの戦でローディー朝を破って王位につき,デリーとアーグラを占領,北インドのイスラム支配の基礎を築いた。
→関連項目ティムール朝

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旺文社世界史事典 三訂版 「バーブル」の解説

バーブル
Bābur

1483〜1530
インドのムガル帝国の創始者(在位1526〜30)
ティムール5代目の子孫,母方からチンギス=ハンの血統をひくといわれる。ティムール朝の再興を志したが,ウズベク族のために中央アジアを追われた。のち南進してカブールを占領し,さらにパンジャーブに侵入し,パーニーパットの戦いでロディー朝を倒してデリーに入城,ムガル帝国を創始した。トルコ散文の最高傑作とされる回想録『バーブル−ナーマ』を著したことでも有名。

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