スイスの理論物理学者。ウィーンに生まれ、ハンブルク大学教授ののち、1928年から死ぬまでチューリヒ工科大学の教授であった。その間、しばしばアメリカに行き、プリンストン高等研究所の客員教授などであった。20歳で相対性理論の教科書を著し、これは、その後書かれた量子力学の本とともに、現在でも優れた教科書として読まれている。
量子力学が建設されたころ、パウリの原理(排他律)を導入して、電子が単なる質点でなく、自転のような性質(スピン)をもつことを明らかにして、スペクトル線の超微細構造の理論をつくり、原子・分子・固体物理学の基礎を築いた。場の量子論の建設においても重要な多くの研究をし、1928年にハイゼンベルクとともに、現在の場の量子論の形式を確立した。これは、空間の各点に場の自由度を与え、ラグランジュ形式から出発して、量子力学の方法を適用したものである。場の量子論は素粒子論および物性理論で適用される、現在ではもっとも高度の理論であって、素粒子の発生・消滅などをみごとに記述するものであるが、その成功も、またこの理論に特有の困難も、すべてハイゼンベルクとパウリの初めの定式にすでに現れている。
また、1920年代の終わりごろ、原子核のβ(ベータ)崩壊ではエネルギー保存則が成立しないといわれ大きな問題となったが、パウリは1931年に、スピン2分の1、質量ゼロ、荷電ゼロの粒子(ニュートリノ)が存在するとすれば困難は解決されることを提唱した。これがβ崩壊の理論、ひいては現在のような素粒子論の発展する道を開いた。ニュートリノの存在の直接的な実験的証明はずっとのちになって与えられた。
自然法則、物理学の理論における対称と不変性の重要さを強調し、とくに相対性理論の要求を満たす場の量子論の一般的性質を明らかにした。すなわち、ローレンツ変換に対する不変性から、空間軸の反転、時間軸の反転および粒子‐反粒子変換の三つを同時に行ったとき、場の量子論が不変であることの証明に寄与し、また、スピンが半整数の粒子はフェルミ‐ディラックの統計に、整数の粒子はボース‐アインシュタインの統計に従うことを証明した。これらの定理は、弱い相互作用におけるパリティの非保存および時間反転について非対称な現象がみつかった際、その理論化に重要な役割を果たした。1945年にパウリの原理の発見によりノーベル物理学賞を受けた。
[町田 茂]
オーストリア生まれの理論物理学者。ウィーン大学の化学の教授を父として生まれ,大学へ入る前に高等数学と相対性理論を独学で習得した。その後ミュンヘン大学のA.J.ゾンマーフェルトに師事し,最高度の数理物理的処法を学び,さらに学位取得後,コペンハーゲンのN.ボーアの下で物理学の根本問題に対する深い哲学的手法を学んだ。1928年,チューリヒの連邦工科大学教授となり,第2次世界大戦中アメリカで過ごした以外,終生そこにとどまった。
ミュンヘン時代の20歳のとき,ゾンマーフェルトに委嘱されて著した《相対性理論》は,60年を経た今も不朽の名著といわれるが,それは〈物事を深く理解して明快に整理する〉彼の特異な才能を示した最初のものであった。1924年,元素の周期律の根本的な分析から,原子の中の一つの軌道に2個の電子が入ることは許されないというパウリの原理を発見し,これによって45年ノーベル物理学賞を授与された。1925年W.ハイゼンベルクらによるマトリックス力学が出現すると,パウリは直ちにそれを用いて,水素原子のエネルギースペクトルが正しく与えられることを示すなど,量子力学の建設にも本質的な寄与をし,29年にはハイゼンベルクとともに量子電気力学(波動場の量子論)を発展させた。30年,今日中性微子(ニュートリノ)と呼ばれている粒子の存在を仮定することで,β崩壊に関する困難が解決できることを示し,その後は場の量子論,中間子論,素粒子論の研究を精力的に進め,なかでも素粒子のスピンと統計に関する定理や,CTP定理と呼ばれる相対論的場の理論の不変性の証明など多くの重要な仕事をした。彼は非常にきびしい批判家で,研究会や多くの手紙で不明りょうな論旨を徹底的に追及したので,〈パウリの裁可〉と呼ばれて彼の承認が新しい考えの公認と目されたほどで,〈物理学の良心〉とたたえられた。科学の哲学的な基礎を探る問題にも情熱を注ぎ,《物理と認識》や心理学者C.G.ユングとともに《自然解釈と心霊》(邦訳題《自然現象と心の構造》)を著しているが,そこにも深い学殖が示されている。
執筆者:山崎 和夫
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…また一般に1個の粒子が2個の粒子に崩壊する場合は,それぞれの粒子のエネルギーは一定となるので,上の反応式が正しいとすればβ崩壊で出る電子の運動エネルギーは一定となるはずであるが,実験によれば一定にはならない。この矛盾に対してW.パウリは,観測にかからない(質量が0)中性の第3の粒子がいっしょに出ると考えればよいことを提案し(1931),フェルミが実際そのことを考えに入れた理論を提出した。この粒子が中性微子(ニュートリノ)で,第2次大戦後には実験によってもその存在が確かめられた。…
…歴史的にはβ崩壊の際のエネルギー保存則を説明するために導入された。すなわち,β崩壊に際して出てくる電子が連続スペクトルをもつという事実からはエネルギー保存則が成立していないようにみえるが,1930年W.パウリは電気的に中性で質量が0,もしくは電子に比べてはるかに小さい粒子が電子とともに放出されるとすれば,エネルギーの保存則が成立することを指摘し,中性微子の存在を理論的に予言した。実験的には53年原子炉における陽子との反応において観測されたのが最初とされている。…
…原子の状態は,その原子に固有な各電子軌道に何個の電子が入っているかによって規定されるが,同一の軌道には反対向きのスピンをもつ電子が各1個ずつ,すなわち,合計2個までしか入れないという量子力学の原理をパウリの原理という。スピンまで指定すると,一つの電子状態にすでに電子が1個入っていれば,第2の電子はその状態に入れないことになるので,排他律exclusion principle,禁制原理ともいう。…
…これにより光の放出,吸収が量子論的に扱えるようになる。1929年W.K.ハイゼンベルクとW.パウリは場の量子化に正面から取り組んだ。彼らは空間を格子状とし,自由度が有限の質点系でおきかえ,その量子力学の連続極限を考えた。…
※「パウリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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