ビアフラ戦争(読み)ビアフラせんそう

精選版 日本国語大辞典 「ビアフラ戦争」の意味・読み・例文・類語

ビアフラ‐せんそう ‥センサウ【ビアフラ戦争】

(ビアフラBiafra) 一九六七年から七〇年にかけて起こったナイジェリア内戦東部州のイボ族ビアフラ共和国として分離・独立を宣言したが、多数の戦死者餓死者を出し鎮圧された。ナイジェリア戦争

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デジタル大辞泉 「ビアフラ戦争」の意味・読み・例文・類語

ビアフラ‐せんそう〔‐センサウ〕【ビアフラ戦争】

1967年から1970年にかけて行われたナイジェリアの内戦。東部州のイボ族がビアフラ(Biafra)共和国として分離・独立を宣言したが、多数の戦死者・餓死者を出した末に鎮圧された。ナイジェリア戦争。

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改訂新版 世界大百科事典 「ビアフラ戦争」の意味・わかりやすい解説

ビアフラ戦争 (ビアフラせんそう)

西アフリカのナイジェリア連邦共和国で,1967年7月から70年1月まで継続した内戦で,東部のイボ族北部ハウサ族との間の部族間・地域間対立が根本的原因であった。1966年8月のクーデタで成立したゴウォン国家元首は,各州間の対立を軟化させるため,67年5月,従来の4州制を改めて北部州を6分割,東部州を3分割するなどの12州制への移行を発表した。これに対して東部州軍政知事でイボ族のオジュクは,直ちに東部州のビアフラBiafra共和国としての分離独立を宣言した。7月には連邦政府軍とビアフラ軍との間に戦闘が開始され,初期にはビアフラ軍が優勢であったが,連邦政府はソ連,イギリスなどの武器供与をうけて反撃し,10月にはビアフラの首都エヌグを占領した。ビアフラ軍の抵抗はその後も継続したが,多くの一般市民が戦闘に巻き込まれて住居食糧を失い,悲惨な状態が出現した。ビアフラ地域に対しては国際赤十字などが救援に当たるとともに,フランス,中国などが支援をし,部族対立による内戦は国際的対立ともからみあった。70年1月ビアフラ軍の無条件降伏,オジュクの国外亡命によって内戦は終結したが,内政の不安定はその後も続いた。
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百科事典マイペディア 「ビアフラ戦争」の意味・わかりやすい解説

ビアフラ戦争【ビアフラせんそう】

1967年―1970年にわたるナイジェリアの内戦。ナイジェリアの旧東部州のイボ人を中心とする住民が,1967年5月30日,ハウサ人が中核を占める連邦政府に対し,〈ビアフラBiafra共和国〉の独立を宣言。まもなく独立を承認しない連邦政府とビアフラの内戦が始まり,ビアフラは一時は日に餓死者3000人と伝えられるほどの悲劇的な抗戦の末,1970年1月崩壊した。この間餓死者の救援などが国際的な問題となり,和平の試みもなされたが,激しい民族間の対立に加え,連邦政府を支持する英国とソ連,ビアフラを支持するフランス,中国など東西の大国の思惑,および旧東部州で産出する石油の利権もからんでいずれも効果をあげられなかった。
→関連項目アフリカイボエヌグ国境なき医師団ナイジェリアフジポート・ハーコート

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ビアフラ戦争」の意味・わかりやすい解説

ビアフラ戦争
ビアフラせんそう
Nigerian Civil War

ナイジェリア連邦共和国の東部州の分離,独立をめぐる戦争。同州は 1967年5月 30日ビアフラ共和国として一方的にナイジェリア連邦からの分離,独立を宣言。同年7月6日連邦政府軍は東部州に進撃,内戦となった。そして約2年半に及ぶ戦闘ののち,70年1月 11日ビアフラの臨時首都オウェリが陥落,指導者 C.オジュク将軍 (元連邦政府東部州軍政長官) は国外に逃亡,同月 15日ナイジェリア最高軍事評議会議長 (事実上の元首) Y.ゴウォン将軍の内戦終結宣言で終息した。この間,ビアフラ側の死者は餓死,戦死を含めて約 200万人で,「人類史上まれにみる悲劇」として世界の関心を集めた。この内戦は,イギリス植民地時代の分割統治による東部のイボ族と北部のハウサ族との部族対立が最大の原因。内戦をめぐり,イギリスとソ連は連邦政府に,フランスはビアフラにそれぞれ軍事援助を行い,戦火拡大を招いたため,大国のエゴイズムとして国際的な非難を浴びた。なおビアフラ共和国の独立に対して大部分のアフリカ諸国は冷淡な態度をとり,コートジボアール,ガボン,タンザニア,ザンビアの4ヵ国がこの新国家を承認しただけであったが,それはほとんどのアフリカ諸国が,ビアフラ承認によって自国内の分離主義的傾向に拍車をかけることを恐れたためでもあった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ビアフラ戦争」の解説

ビアフラ戦争(ビアフラせんそう)
Biafra

1967年から70年にかけて,ナイジェリア連邦共和国内の北部(ハウサ人)と東部(イボ人)の間で起きた内戦。民族間・地域間の対立に東部の石油の利権も絡んで戦われた。ナイジェリアには300もの民族が住み,政治的には北部,西部(ヨルバ人),東部の違いが大きい。67年,地域間対立軟化を名目に北部を6分割,東部を3分割する12州が導入されたことに対し,東部州のオジュク中佐が反旗を翻し,ビアフラ共和国として独立を宣言した。同年7月,連邦政府軍とビアフラ軍との間で戦闘が開始され,連邦政府をソ連,イギリスが,ビアフラを中国,フランスが支援し,内戦は国際的対立に至った。70年1月,ビアフラ軍の無条件降伏で内戦は終結したが,200万人もの餓死者とそれを上回る数の難民を生んだ。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ビアフラ戦争」の解説

ビアフラ戦争
ビアフラせんそう
Biafra

1967〜70年,ナイジェリアで部族間に起こった内戦
1960年に独立したナイジェリアは,豊富に産出する石油などで富裕になった民族ブルジョワジーや旧首長層を中心に,北部・西部・東部などからなる連邦制国家となった。しかし,部族間の対立が表面化し,1967年の12州連邦案で石油産地を失う東部イボ族が,東部州軍政長官オジュクのもとにビアフラ共和国の分離独立を宣言したために内戦となった。ハウサ族を中心とする連邦政府にイギリス・ソ連が武器を供与し,孤立したビアフラは一般市民を中心に200万の死者をだして敗北,オジュクは亡命した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビアフラ戦争」の意味・わかりやすい解説

ビアフラ戦争
びあふらせんそう

ナイジェリア戦争

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世界大百科事典(旧版)内のビアフラ戦争の言及

【アフリカ】より

…大小250以上の部族を擁する西アフリカのナイジェリアは,そうした分裂要因に悩まされてきた国の典型である。1967年7月から70年1月にかけて起こった内戦(ビアフラ戦争)は,北部(最大の部族であるハウサ族,フラニ族の居住地域)優位の政治に対する東部のイボ族の不満が高まり,東部がビアフラ共和国として分離独立を宣言したことに起因するものであったし,より古くは国連軍派遣という事態にまで発展した第1次コンゴ動乱(1960年7月~63年1月)も,部族対立,地域対立がからんだ内部紛争であった。90年代にいっそう激化しているルワンダやブルンジのツチとフツの根強い対立や,スーダン,コンゴ,ソマリアなどの内戦も,分裂要因の具体的事例としてあげることができる。…

【イボ族】より

…これらの事情が他部族からの反感を招く素地になったといわれている。 1967年から70年にかけてのビアフラ戦争は,石油資源をめぐる戦争であったが,イボ,ハウサ,ヨルバというナイジェリアの大部族間の抗争・対立にも根深い原因があった。ビアフラ共和国としての,ナイジェリア連邦からの分離独立の宣言は,泥沼の戦いをイボ族に強いた。…

【ナイジェリア】より

…これらの部族は人口も500万から1000万以上を数え,もはや部族ということばはあてはまらない。そのほか100以上の部族が居住しており,言語,文化の異なる部族の分化傾向が強く,国全体の政情は不安定で,ビアフラ戦争はその破綻の一例であった。 ヨルバ族はクワ語群に属するヨルバ語を話し,その人口は1000万を超え,隣国のベニンにも居住している。…

※「ビアフラ戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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