西アフリカのナイジェリア連邦共和国で,1967年7月から70年1月まで継続した内戦で,東部のイボ族と北部のハウサ族との間の部族間・地域間対立が根本的原因であった。1966年8月のクーデタで成立したゴウォン国家元首は,各州間の対立を軟化させるため,67年5月,従来の4州制を改めて北部州を6分割,東部州を3分割するなどの12州制への移行を発表した。これに対して東部州軍政知事でイボ族のオジュクは,直ちに東部州のビアフラBiafra共和国としての分離独立を宣言した。7月には連邦政府軍とビアフラ軍との間に戦闘が開始され,初期にはビアフラ軍が優勢であったが,連邦政府はソ連,イギリスなどの武器供与をうけて反撃し,10月にはビアフラの首都エヌグを占領した。ビアフラ軍の抵抗はその後も継続したが,多くの一般市民が戦闘に巻き込まれて住居,食糧を失い,悲惨な状態が出現した。ビアフラ地域に対しては国際赤十字などが救援に当たるとともに,フランス,中国などが支援をし,部族対立による内戦は国際的対立ともからみあった。70年1月ビアフラ軍の無条件降伏,オジュクの国外亡命によって内戦は終結したが,内政の不安定はその後も続いた。
執筆者:中村 弘光
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1967年から70年にかけて,ナイジェリア連邦共和国内の北部(ハウサ人)と東部(イボ人)の間で起きた内戦。民族間・地域間の対立に東部の石油の利権も絡んで戦われた。ナイジェリアには300もの民族が住み,政治的には北部,西部(ヨルバ人),東部の違いが大きい。67年,地域間対立軟化を名目に北部を6分割,東部を3分割する12州が導入されたことに対し,東部州のオジュク中佐が反旗を翻し,ビアフラ共和国として独立を宣言した。同年7月,連邦政府軍とビアフラ軍との間で戦闘が開始され,連邦政府をソ連,イギリスが,ビアフラを中国,フランスが支援し,内戦は国際的対立に至った。70年1月,ビアフラ軍の無条件降伏で内戦は終結したが,200万人もの餓死者とそれを上回る数の難民を生んだ。
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…大小250以上の部族を擁する西アフリカのナイジェリアは,そうした分裂要因に悩まされてきた国の典型である。1967年7月から70年1月にかけて起こった内戦(ビアフラ戦争)は,北部(最大の部族であるハウサ族,フラニ族の居住地域)優位の政治に対する東部のイボ族の不満が高まり,東部がビアフラ共和国として分離独立を宣言したことに起因するものであったし,より古くは国連軍派遣という事態にまで発展した第1次コンゴ動乱(1960年7月~63年1月)も,部族対立,地域対立がからんだ内部紛争であった。90年代にいっそう激化しているルワンダやブルンジのツチとフツの根強い対立や,スーダン,コンゴ,ソマリアなどの内戦も,分裂要因の具体的事例としてあげることができる。…
…これらの事情が他部族からの反感を招く素地になったといわれている。 1967年から70年にかけてのビアフラ戦争は,石油資源をめぐる戦争であったが,イボ,ハウサ,ヨルバというナイジェリアの大部族間の抗争・対立にも根深い原因があった。ビアフラ共和国としての,ナイジェリア連邦からの分離独立の宣言は,泥沼の戦いをイボ族に強いた。…
…これらの部族は人口も500万から1000万以上を数え,もはや部族ということばはあてはまらない。そのほか100以上の部族が居住しており,言語,文化の異なる部族の分化傾向が強く,国全体の政情は不安定で,ビアフラ戦争はその破綻の一例であった。 ヨルバ族はクワ語群に属するヨルバ語を話し,その人口は1000万を超え,隣国のベニンにも居住している。…
※「ビアフラ戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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