ビリャ(英語表記)Francisco Villa

改訂新版 世界大百科事典 「ビリャ」の意味・わかりやすい解説

ビリャ
Francisco Villa
生没年:1877-1923

メキシコ革命動乱期の軍事指導者,政治家。本名はドロテオ・アランゴDoroteo Arango。その優れた軍事作戦能力と勇猛果敢な活躍によって今日でも大衆に親しまれている伝説的英雄北部ドゥランゴ州貧農の子に生まれる。農場労働者として働いていた1894年ごろ地主に危害を加え,逃亡してパンチョ・ビリャと名のった。その後の約15年間のビリャについては,義賊,牛どろぼうなど多くの言い伝えがあるが,詳細は不明である。1910年,メキシコ革命勃発と同時に小武装集団を率いて革命軍に加わり,ディアス独裁政権の打倒に貢献した。のちV.カランサの護憲主義運動に参加し北部軍団司令官となった。しかしカランサと対立し,アメリカ国境侵犯事件やアメリカ人殺害事件を起こしてアメリカの軍事介入を招くなど,北部でカランサ政府に対する反抗運動を展開した。カランサの死後中央政府和解しドゥランゴ州の田舎に引退したが,23年暗殺された。
メキシコ革命
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビリャ」の意味・わかりやすい解説

ビリャ
びりゃ
Francisco (Pancho) Villa
(1877―1923)

貧農出身のメキシコ革命軍指導者。ビリャとは逃亡中の仮名で、本名はドロテオ・アランゴDoroteo Arango。一般には愛称名パンチョ・ビリャとして有名。北部ドゥランゴ州に生まれたが、少年時代に殺人を犯して逃亡、のちに義賊的バンディド(山賊)として下層民衆の人気を集めた。1910年のマデロの指導するメキシコ革命に参加、軍事面で活躍したが、革命勝利後失脚しアメリカへ亡命した。13年の反革命後、帰国して貧農を主体とする最強の革命軍を自力でつくりあげ、第二次革命を勝利に導いた。しかし第二次革命の指導者カランサ(大地主)と対立し、14年夏にサパタと同盟してカランサと戦い、一時ほぼ全土を支配したが、15年以後劣勢になり北部チワワ州でゲリラ戦を続けた。20年にカランサ政権が倒れたので、新政権と和平し農場経営にあたったが、23年政敵に暗殺された。

野田 隆]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ビリャ」の解説

ビリャ
Francisco ‘Pancho’ Villa (本名 Doroteo Arango)

1878~1923

メキシコ革命の主要な軍事指導者の一人。1910年にマデーロの呼びかけに応じて革命に参加し,メキシコ北部で勢力を展開,その後マデーロを暗殺したウエルタ派勢力を撃破し,革命勢力の勝利に貢献した。16年以降はカランサオブレゴンとの角逐のなかで,出身地チワワで独立した勢力を保持し続けたため内戦状態が続いた。20年に中央政府との和解に応じて引退し,23年暗殺された。その粗野で人の意表をつくふるまいとイメージゆえに,革命史を彩る伝説的な人物となっており,民衆的人気は高かった。

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百科事典マイペディア 「ビリャ」の意味・わかりやすい解説

ビリャ

メキシコの革命家。ビヤとも。メキシコ北部ドゥランゴ州の貧農出身。通称パンチョ・ビリャで知られる伝説的英雄。1910年メキシコ革命勃発と同時に革命軍に加わる。のちにカランサの立憲主義運動に加わり,北部軍団司令官となるが,カランサと不和となり,北部で反抗運動を展開。カランサの死後,政府と和解し引退したが,暗殺された。
→関連項目チワワ

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