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スペイン国王(在位1556~98)。カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の子。1556年父帝の退位により、スペインの王位とともにネーデルラント、フランシュ・コンテ、ミラノ、ナポリ、シチリアなどのヨーロッパ所領および新大陸とアジアの植民地を継承、さらに1580年にはポルトガルとその海外領土を併合し、ここに「陽(ひ)の没することのない」大帝国が出現した。しかしこの強大さがヨーロッパの勢力均衡を破壊したことから、フランス、イギリス、教皇庁の警戒心をよび、これら諸国を敵に回すはめとなった。その結果スペインはこれら領土とカトリックの護持のため、絶え間ない戦争に駆り立てられることになった。
彼の治世前半は、1559年に有利な条件でカトー・カンブレジの和約をフランスと締結することによって長年続いたイタリア戦争を終結させ、1571年にはレパントの海戦でオスマン・トルコ艦隊を大破し、またネーデルラント(オランダ)の独立運動もいちおう制圧できた。しかし、治世末期は、しだいに強まる独立運動を抑えきれなくなるとともに、フランスの内乱にも深入りしすぎ、アルマダ(無敵艦隊)がイギリス海軍に大敗を喫するなど、外交・軍事面で後退を余儀なくされていった。外国への過剰な介入は、西インド諸島からの銀の流入にもかかわらず、対外債務を増大させ、再三にわたる国家財政の破綻(はたん)を招いた。また、15世紀末からいちおうの発展をみた農業と手工業も、対外戦争遂行に伴う重税と国家の適切な保護の欠如から、治世最後の10年には衰退に向かった。同時に、対プロテスタント戦争という側面をもつこれらの対外戦争は、国内にも大きい精神的緊張をよんだ。彼の正統信仰護持の姿勢は、異端に対する厳重な取締りはいうに及ばず、祖先に異教徒の血をもつ者をも追及し、外国との知的交流をも断つ結果となり、このこともスペインの没落を促す要因となった。それゆえ当時のスペインは、「泥の足をもった巨人」と形容される。彼は、死の直前まで国王としての使命感にあふれ、政務に精励した。1598年9月13日、エル・エスコリアル宮で死去。なお、1584年には日本からの天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)を謁見した。
[芝 修身]
スペイン国王(在位1700~24、1724~46)。フランスのルイ14世の孫でスペイン・ブルボン家の開祖。後継者なく没したカルロス2世から王位を遺贈されたが、これに異議を唱えるハプスブルク家およびその同盟国とブルボン家との間で、いわゆるスペイン継承戦争が起こった。最終的にはユトレヒト条約により、ヨーロッパにあるスペインの多くの領土を放棄するかわりに、フェリペの王位は承認された。1724年に突如皇太子ルイス(ルイス1世)に王位を譲って引退したが、ルイス1世が6か月後に病死したので、ふたたび王位についた。外国人を含む有能な人材を登用し、中世以来のアラゴンの諸特権を廃止、中央集権化を進めるとともに、税制・財政改革、商工業の振興、陸海軍の整備、スペイン王立アカデミーや王立図書館等の創立にみられる文化行政の推進等が図られた。その結果、スペインは前世紀の没落からしだいに国力を回復した。
[芝 修身]
スペイン国王(在位1621~65)。フェリペ3世の子。前代に続いて寵臣(ちょうしん)政治を行い、オリバレス伯公爵に政治を任せた。ヨーロッパにふたたびスペインの国威を示そうとして無謀にも三十年戦争に介入、ますますカスティーリャの国力を衰退させた。そのため、1640年にカタルーニャとポルトガルに対外戦争遂行のため相応の負担を要求した結果、反乱が起こり、ポルトガルは独立し、イベリア半島は四肢分断状態に陥った。ヨーロッパでの相次ぐ敗退は、ウェストファリア条約でオランダの独立を正式に承認し、ピレネー条約でフランスにアルトア、ルシヨンその他を割譲するという結末をもたらした。この結果、スペインは完全にヨーロッパ政治の指導的地位から転落した。しかし文化面では、絵画、文学等にベラスケス、カルデロン・デ・ラ・バルカらの才能が輩出し、前代に続き黄金時代が続いた。
[芝 修身]
スペイン国王(在位1598~1621)。フェリペ2世の子。1598年フランス、1604年イギリスと和約を結び、ついで09年にはオランダと12年間の休戦協定を結び、その独立を事実上認めた。かくして、戦乱に明け暮れた時代に終止符を打ったが、政治への関心は薄く、この平和を疲弊した王国の財政と経済の再建に利用せず、国政を私腹を肥やすことにのみ熱心なレルマ公に任せ、寵臣(ちょうしん)政治への道を開いた。モリスコ(改宗ムーア人)を追放し、バレンシアその他の地方の農業を荒廃させた。しかし同時に、小説家セルバンテスに代表される文化の黄金時代を迎えたことも事実である。
[芝 修身]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…イタリアにおける覇権をめぐってもフランスと対立し,北イタリアの諸都市や教皇庁,さらにスペインとの間に複雑な同盟・対立関係を続けた。その間95年のベネチア同盟は,強大なフランス王シャルル8世に対抗する教皇庁,マクシミリアン1世,ミラノなどにスペインをも加えた大同盟であったが,ハプスブルク家とスペイン王家との間では,当時の外交慣行に従って,マクシミリアン1世の息子フィリップ(のちのカスティリャ王フェリペ1世)と息女マルガレーテをそれぞれスペインの王女および王子と結婚させるというかたちの同盟が成立した。このことは,ハプスブルク家がスペイン国王ともなる(フィリップの息子カルロス1世=皇帝カール5世)という世界史的にも重大な結果をもたらす基となった。…
※「フェリペ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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