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フュウザン会 フュウザンかい

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フュウザン会
フュウザンかい

1912年創設の美術団体。初めは「ヒュウザン会」と称したが,のち「フュウザン会」に改める。文展系の絵画に反発した高村光太郎岸田劉生斎藤与里木村荘八万鉄五郎らが組織し,機関誌『フュウザン (ヒュウザン) 』を発行。

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デジタル大辞泉の解説

フュウザン‐かい〔‐クワイ〕【フュウザン会】

《〈フランス〉fusainは木炭・木炭画の意》大正元年(1912)高村光太郎岸田劉生万(よろず)鉄五郎らが結成した美術家集団。後期印象派フォービスムを信奉した最初のグループで翌年には解散したが、その個性強調の清新な作風は当時の青年画家に大きな影響を与えた。

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百科事典マイペディアの解説

フュウザン会【フュウザンかい】

大正初期の美術団体。1912年斎藤与里,清宮彬,岸田劉生の発案で,後期印象派の影響を受けた新傾向を目ざす青年作家多数により組織され,ヒュウザン会として第1回展を開催。
→関連項目清宮彬万鉄五郎

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世界大百科事典 第2版の解説

フュウザンかい【フュウザン会】

大正のはじめに結成された後期印象派フォービスムに拠る青年美術家の集団。フュザンfusainとはデッサン用の木炭のこと。1912年(大正1)斎藤与里(より)(1885‐1959),岸田劉生,清宮彬(せいみやひとし)(1888‐1969)が発起して結成,その年10月に銀座京橋の読売新聞社3階で第1回展覧会をひらいた。結成当初は〈ヒュウザン会〉と称し,のちフュウザン会に改められた。参加したのは高村光太郎,川村信雄,木村荘八万鉄五郎,硲(はざま)伊之助,小島善太郎小林徳三郎岡本帰一,バーナード・リーチ,彫刻の毛利教武,川上邦世,工芸の藤井達吉ら30余人で,ゴッホゴーギャンセザンヌマティスなどにならって主観の強い表現を打ち出し,若い画家や一部の識者の注目するところとなった。

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大辞林 第三版の解説

フュウザンかい【フュウザン会】

〔フュウザン(フランス fusain)はデッサンに用いる木炭のこと〕
1912年(大正1)に結成された青年美術家の集団。斎藤与里を中心に岸田劉生・高村光太郎らが集い、様式は後期印象派からフォービスムに及んだ。13年の第二回展で解散したが、その個性強調主義は当時の画壇に大きな影響を及ぼした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フュウザン会
ふゅうざんかい

大正初期の革新的な青年作家によって結成された美術集団。1912年(大正1)10月、高村光太郎(こうたろう)、斎藤與里(より)、岸田劉生(りゅうせい)らの発起により、第1回展を銀座読売新聞社楼上で開催。さらに機関誌『フュウザン』を発行した。第1回展には前記のほかに木村荘八(しょうはち)、萬(よろず)鉄五郎、清宮彬(せいみやひとし)、バーナード・リーチや彫刻の川上邦世、工芸の藤井達吉ら33名が出品した。作品の傾向は、明治40年代の新帰朝者や雑誌『白樺(しらかば)』によって紹介された後期印象派ないしフォービスムを追うものが多く、太い線や力強いタッチ、強烈な色調などを特色とする。全体に未熟な点もあったが、その主観を強く打ち出した清新な作風は、当時の青年作家に多大の影響を及ぼした。第2回展は翌年3月に行われたが、出品者は半数近くにまで減り、また劉生と與里の方針の食い違いもあって2回限りで解散に至った。なお、フュウザンfusainとはフランス語で木炭画の意味で、最初ヒュウザンと表記したのを第2回から訂正したという。[佐伯英里子]

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世界大百科事典内のフュウザン会の言及

【フォービスム】より

…このフォービスムは,直接的にドイツ表現主義などに影響をあたえたのみならず,世紀末芸術の暗い迷路から現代絵画を解き放ち,絵画を再生へと導く原動力となった。日本では,すでに1910年代に万鉄五郎がフォービスム的な作風を示し,12年のフュウザン会第1回展にはこの傾向の作品が出品された。30年結成された独立美術協会の創立会員には多かれ少なかれフォービスムの影響が見られ,フランスでブラマンクに師事し25年帰国した里見勝蔵(1895‐1981)がその最も顕著な例である。…

【明治・大正時代美術】より

…そして1910年高村光太郎が《スバル》に発表した論文《緑色の太陽》は,自然を見る人間の内面的な活動,人格(自我)の表現を主張し,わが国における印象派宣言として青年画家たちを狂喜させた。
[在野団体の動き]
 こうした新しい雰囲気のなかで,印象派,後期印象派の最初の団体としてのろしを上げたのが,1912年に第1回展を開いたフュウザン会である。斎藤与里,高村光太郎,岸田劉生,木村荘八,万鉄五郎ら33名が参加したが,翌13年第2回展を開いた後,斎藤と岸田の対立から会は解散した。…

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