フュウザン会(読み)フュウザンカイ

デジタル大辞泉 「フュウザン会」の意味・読み・例文・類語

フュウザン‐かい〔‐クワイ〕【フュウザン会】

《〈フランス〉fusainは木炭・木炭画の意》大正元年(1912)高村光太郎岸田劉生よろず鉄五郎らが結成した美術家集団。後期印象派フォービスムを信奉した最初のグループ翌年には解散したが、その個性強調の清新な作風は当時の青年画家に大きな影響を与えた。

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精選版 日本国語大辞典 「フュウザン会」の意味・読み・例文・類語

フュウザン‐かい ‥クヮイ【フュウザン会】

美術団体。大正元年(一九一二)に斎藤与里岸田劉生、万鉄五郎、高村光太郎ら後期印象派やフォービスムの影響を受けた青年画家が結成。同年一〇月に第一回展を銀座読売新聞社で開き、翌年三月に第二回展を開いたが、その後解散。会名は木炭を意味するフランス語フューザン」にちなむ。

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改訂新版 世界大百科事典 「フュウザン会」の意味・わかりやすい解説

フュウザン会 (フュウザンかい)

大正のはじめに結成された後期印象派フォービスムに拠る青年美術家の集団。フュザンfusainとはデッサン用の木炭のこと。1912年(大正1)斎藤与里(より)(1885-1959),岸田劉生清宮彬(せいみやひとし)(1888-1969)が発起して結成,その年10月に銀座京橋の読売新聞社3階で第1回展覧会をひらいた。結成当初は〈ヒュウザン会〉と称し,のちフュウザン会に改められた。参加したのは高村光太郎,川村信雄,木村荘八万鉄五郎,硲(はざま)伊之助,小島善太郎小林徳三郎岡本帰一,バーナード・リーチ,彫刻の毛利教武,川上邦世,工芸の藤井達吉ら30余人で,ゴッホゴーギャンセザンヌマティスなどにならって主観の強い表現を打ち出し,若い画家や一部の識者の注目するところとなった。機関誌《フュウザン》も発行し,翌13年3月同じ会場で第2回展覧会をひらいたが,美術運動として活発にしようという斎藤と,同志のたんなる集りであればよいとする岸田とが衝突し,あっけなく解散してしまった。はなはだ短命で,表現も稚拙なものが多かったが,その情熱と純粋さは彼らをして,平板化した文展アカデミズムを乗り越えさせ,近代の新たな造形の展開を先駆させることになった。
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百科事典マイペディア 「フュウザン会」の意味・わかりやすい解説

フュウザン会【フュウザンかい】

大正初期の美術団体。1912年斎藤与里,清宮彬,岸田劉生発案で,後期印象派の影響を受けた新傾向を目ざす青年作家多数により組織され,ヒュウザン会として第1回展を開催。翌年第2回展をフュウザン会として開催後解散したが,これを機縁としてのちに岸田,木村荘八らが草土社を結成。
→関連項目清宮彬万鉄五郎

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フュウザン会」の意味・わかりやすい解説

フュウザン会
ふゅうざんかい

大正初期の革新的な青年作家によって結成された美術集団。1912年(大正1)10月、高村光太郎(こうたろう)、斎藤與里(より)、岸田劉生(りゅうせい)らの発起により、第1回展を銀座読売新聞社楼上で開催。さらに機関誌『フュウザン』を発行した。第1回展には前記のほかに木村荘八(しょうはち)、萬(よろず)鉄五郎、清宮彬(せいみやひとし)、バーナード・リーチや彫刻の川上邦世、工芸の藤井達吉ら33名が出品した。作品の傾向は、明治40年代の新帰朝者や雑誌『白樺(しらかば)』によって紹介された後期印象派ないしフォービスムを追うものが多く、太い線や力強いタッチ、強烈な色調などを特色とする。全体に未熟な点もあったが、その主観を強く打ち出した清新な作風は、当時の青年作家に多大の影響を及ぼした。第2回展は翌年3月に行われたが、出品者は半数近くにまで減り、また劉生と與里の方針の食い違いもあって2回限りで解散に至った。なお、フュウザンfusainとはフランス語で木炭画の意味で、最初ヒュウザンと表記したのを第2回から訂正したという。

[佐伯英里子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フュウザン会」の意味・わかりやすい解説

フュウザン会
フュウザンかい

1912年創設の美術団体。初めは「ヒュウザン会」と称したが,のち「フュウザン会」に改める。文展系の絵画に反発した高村光太郎岸田劉生,斎藤与里,木村荘八,万鉄五郎らが組織し,機関誌『フュウザン (ヒュウザン) 』を発行。後期印象派やフォーブ風な個性的表現を志向し,当時の青年画家に大きな影響を及ぼしたが,翌年解散した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「フュウザン会」の解説

フュウザン会
フュウザンかい

大正初期の洋画の美術団体。1912年(大正元)斎藤与里(より)・岸田劉生(りゅうせい)・清宮彬(せいみやひとし)の発起によって組織された。後期印象派やフォービズムの影響をうけた青年作家が集まり,雑誌「ヒュウザン」を刊行。13年第2回展をフュウザン会展として開催したが,同年斎藤と岸田の意見の相違から解散した。

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世界大百科事典(旧版)内のフュウザン会の言及

【フォービスム】より

…このフォービスムは,直接的にドイツ表現主義などに影響をあたえたのみならず,世紀末芸術の暗い迷路から現代絵画を解き放ち,絵画を再生へと導く原動力となった。日本では,すでに1910年代に万鉄五郎がフォービスム的な作風を示し,12年のフュウザン会第1回展にはこの傾向の作品が出品された。30年結成された独立美術協会の創立会員には多かれ少なかれフォービスムの影響が見られ,フランスでブラマンクに師事し25年帰国した里見勝蔵(1895‐1981)がその最も顕著な例である。…

【明治・大正時代美術】より

…そして1910年高村光太郎が《スバル》に発表した論文《緑色の太陽》は,自然を見る人間の内面的な活動,人格(自我)の表現を主張し,わが国における印象派宣言として青年画家たちを狂喜させた。
[在野団体の動き]
 こうした新しい雰囲気のなかで,印象派,後期印象派の最初の団体としてのろしを上げたのが,1912年に第1回展を開いたフュウザン会である。斎藤与里,高村光太郎,岸田劉生,木村荘八,万鉄五郎ら33名が参加したが,翌13年第2回展を開いた後,斎藤と岸田の対立から会は解散した。…

※「フュウザン会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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