万鉄五郎(読み)ヨロズテツゴロウ

デジタル大辞泉 「万鉄五郎」の意味・読み・例文・類語

よろず‐てつごろう〔よろづテツゴラウ〕【万鉄五郎】

[1885~1927]洋画家岩手の生まれ。後期印象派フォービスム影響を受け、フュウザン会結成参加。しだいに独自の解釈によるキュビスムに傾き、晩年は東洋的な表現主義へと移行した。

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精選版 日本国語大辞典 「万鉄五郎」の意味・読み・例文・類語

よろず‐てつごろう【万鉄五郎】

  1. 洋画家。岩手県出身。東京美術学校卒。フュウザン会、春陽会の結成に参加。フォービスム・キュビスムに南画手法を加えた独自の画風開拓代表作「裸体美人」「もたれて立つ人」など。明治一八~昭和二年(一八八五‐一九二七

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百科事典マイペディア 「万鉄五郎」の意味・わかりやすい解説

万鉄五郎【よろずてつごろう】

洋画家。岩手県生れ。上京して早稲田中学に学ぶかたわら白馬会研究所に通い,1907年東京美術学校に入った。1912年卒業制作にフォービスム風の《裸体美人》を描いて注目され,同年フュウザン会を結成。のち,二科展(二科会),院展春陽会出品キュビスムなど新しい傾向を試み,独自の様式を完成した。《もたれて立つ人》(1917年)は日本におけるキュビスム絵画の代表作とされる。池大雅浦上玉堂を研究し,南画も描いた。

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改訂新版 世界大百科事典 「万鉄五郎」の意味・わかりやすい解説

万鉄五郎 (よろずてつごろう)
生没年:1885-1927(明治18-昭和2)

洋画家。岩手県東和町(現,花巻市)に生まれる。1903年上京し早稲田中学3年に編入学,また白馬会第二研究所へ通い,長原孝太郎らに洋画を学ぶ。06年卒業後渡米したが同年帰国し,翌年東京美術学校西洋画科予備科に入学した。在学中から白馬会展に出品し,11年には広島晃甫らとアプサント会を結成,翌12年の西洋画科本科卒業に際して,ゴッホゴーギャンの影響を示す卒業制作《裸体美人》が話題をよんだ。同年,岸田劉生らのフュウザン会結成に参加,第1回展に《女の顔》を出品。以後,院展,二科展などに制作発表し,フォービスム,キュビスムを摂取した独自の画風を展開した。17年の第4回二科展には,キュビスム系絵画の代表作となった《もたれて立つ人》を発表した。19年二科会会友となったが,病気療養のため茅ヶ崎に転居し,その後,南画に強い関心を示し,池大雅,浦上玉堂らを研究,みずからも南画を描いた。22年春陽会結成に際し客員となり,また翌年小林徳三郎,林武,前田寛治らと円鳥会を結成,明治末から大正にかけて,つねに画壇の先頭に立って開拓を試みた。しかし晩年は困窮肺患に苦しみ,41歳で茅ヶ崎に没した。著書は《鉄人独語》など。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「万鉄五郎」の意味・わかりやすい解説

万鉄五郎
よろずてつごろう

[生]1885.11.17. 岩手,東和賀
[没]1927.5.1. 茅ヶ崎
洋画家。農海産物回送問屋の万家の長男として生れた。 1903年上京,早稲田中学校に通いながら,白馬会第二洋画研究所で洋画を学ぶ。のち早稲田高等学院を中退して東京美術学校に入学。 12年卒業制作の『裸体美人』 (東京国立近代美術館) でフォービスム的な表現を示す。また同年に岸田劉生,高村光太郎らとフュウザン会を結成して新興芸術運動を推進。作品はフォービスムから次第にキュビスム的な試みを示し,画面は暗く沈んだ色調に変っていったが,院展洋画部や二科会に意欲的な力作を発表し,日本の立体派絵画の先駆者としての地位を確立。 21年頃から日本画にも興味を示し浦上玉堂,池大雅らを研究,同 22年春陽会の創立に参加,日本水彩画会会員にも推薦された。主要作品『雲のある自画像』 (1912,大原美術館) ,『日傘の裸婦』 (13,神奈川県立近代美術館) ,『もたれて立つ人』 (17,東京国立近代美術館) ,『ほほ杖の人』 (26,同) 。

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367日誕生日大事典 「万鉄五郎」の解説

万 鉄五郎 (よろず てつごろう)

生年月日:1885年11月17日
明治時代;大正時代の洋画家
1927年没

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世界大百科事典(旧版)内の万鉄五郎の言及

【キュビスム】より

…キュビスムはイタリアの未来派,イギリスのボーティシズムに造形的影響を及ぼし,またここからR.ドローネーのオルフィスム,オザンファンらのピュリスムが派生した。抽象芸術 日本におけるキュビスムの受容は1915年ごろに始まり,東郷青児,万鉄五郎らの作品にまずその反映がうかがえる。20年代に入ると,矢部友衛,古賀春江,黒田重太郎,川口軌外,坂田一男と,なんらかの形でキュビスムあるいはそれに類する様式を取り入れる画家はその数を増し,ひとつの流行の観を呈した。…

【フォービスム】より

…このフォービスムは,直接的にドイツ表現主義などに影響をあたえたのみならず,世紀末芸術の暗い迷路から現代絵画を解き放ち,絵画を再生へと導く原動力となった。日本では,すでに1910年代に万鉄五郎がフォービスム的な作風を示し,12年のフュウザン会第1回展にはこの傾向の作品が出品された。30年結成された独立美術協会の創立会員には多かれ少なかれフォービスムの影響が見られ,フランスでブラマンクに師事し25年帰国した里見勝蔵(1895‐1981)がその最も顕著な例である。…

【明治・大正時代美術】より


[在野団体の動き]
 こうした新しい雰囲気のなかで,印象派,後期印象派の最初の団体としてのろしを上げたのが,1912年に第1回展を開いたフュウザン会である。斎藤与里,高村光太郎,岸田劉生,木村荘八,万鉄五郎ら33名が参加したが,翌13年第2回展を開いた後,斎藤と岸田の対立から会は解散した。一方,文展内部でも,印象派や後期印象派の移植とともに,旧態依然の文展への不満がたかまって,前年の日本画部で採用されたのと同じく,洋画部の審査も画風の新旧による二科制とすべし,との要求が新人洋画家たちによって出される。…

※「万鉄五郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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