内陸アジア・ステップ地帯の遊牧騎馬民族。民族の系統は不明の点が多いが,トルコ・モンゴル系の民族が中核となり,これに種々の民族が包括されたものと考えられる。中国古代史に登場する匈奴の一部が西遷したものの後裔であるか否かは,長いあいだ論争の的となってきたが,現在もまだ決着がついていない。2世紀以降,中央アジアよりしだいに西進して,ヨーロッパ方面に移動し,350年ころにはサルマート系アラン人を支配下に収め,375年ころにはボルガ流域の東ゴート族を征服,これに隣接する西ゴート族を東ローマ領内に追った。いわゆるゲルマン人の民族大移動の一因は,このフン族西進の圧力であるとされる。
その後フン族はハンガリー平原を制圧,ここを根拠に東・西ローマ領内に侵入を繰り返していたが,445年,アッティラがフン族全体に支配権を確立した結果,黒海からライン河畔に広がるフン帝国が出現した。彼はさらにガリア征服を企てたが,西ローマの将軍アエティウスは,フランク族,ブルグンド族,西ゴート族の援助をうけて,451年,侵入したフン族をカタラウヌムの戦で撃退した。アッティラは翌年にもイタリアに侵入,依然としてヨーロッパに脅威を与えたが,453年,彼が急死すると,内紛と支配下諸民族の反乱により,フン帝国は急速に瓦解した。彼の死については,新婚の妃による暗殺説もある。
執筆者:平城 照介
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…この間にガリアのアルモリカでは農民反乱であるバガウダイの乱が鎮圧されず,ブルグント族もライン下流を渡り進出し,ガリアに入った。ローマの将軍アエティウスはフン族にブルグンドを討たせて2万人を殺戮した。そのフン族もアッティラ王の下に大軍をもってガリアに攻め入ったので,アエティウスは少数のローマ正規軍のほかガリア定住の同盟部族,個別的定住の異民族(ラエティ)を総動員し,451年カタラウヌムの戦でこれを退けた。…
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