中央アジア,ウズベキスタン共和国にある都市。ザラフシャン川下流域の広大なオアシスに位置し,人口23万7400(2001)。ペルシア語,アラビア語ではBukhārā。最近の考古学的研究によれば,ブハラは後1世紀ころに建設され,以後今日に至るまで市域の移動は行われなかった。ブハラという都市名は〈仏教の僧院〉を意味するサンスクリットのvihāraから派生したと推定されているが,文献には7世紀の中国の史書に〈安国〉として初めて現れる。この時代のブハラはイラン系のソグド人の都市国家で,ブハール・フダートBukhār Khudātと呼ばれた土着の王朝が支配していた。709年クタイバ・ブン・ムスリム指揮下のアラブ・ムスリム軍に征服され,アラブの移住に伴ってイスラム化が始まった。9,10世紀にサーマーン朝の首都となったブハラは,西アジア方面にトルコ系奴隷を供給する商業都市として繁栄するとともに,イスラム文化と,復興するイラン文化との一大中心地となり,イブン・シーナー,ルーダキーら多くの学者,詩人が輩出した。1220年モンゴル遠征軍の攻撃によって多大の被害を被ったが,都市は徐々に復興し,1500年のウズベク族による占領の後はブハラ・ハーン国の首都となった。16世紀以降ウズベク遊牧民の侵入と定着化との結果,マー・ワラー・アンナフルではトルコ化が進展したが,ブハラでは1920年代に至るまでイラン系のタジク語がトルコ系のウズベク語に対して優位を占め続けた。また,近郊にあるナクシュバンディー教団のバハー・アッディーン・ナクシュバンドの聖廟は中央アジア各地から多数の巡礼者を集め,ブハラは中央アジアにおける神秘主義の中心地としても知られた。18世紀末以後中央アジアとロシアとの商業関係が深まるなかでブハラは中央アジア有数の商業都市に成長し,20世紀初頭の都市人口は7万を超えた。1920年のソビエト革命後ブハラ人民ソビエト共和国(1920-24)の首都となったが,現在はウズベク共和国の一州都である。
執筆者:小松 久男
モスクとしては,南側にアラベスクなどを刻んだファサードを有するブハラ最古のマガク・イ・アッターリー(10世紀創設,12世紀および1547年再建),最大級の規模をもつカルヤーン(1514創設)と重厚なミナレット(1127)などがある。マドラサには,現存する中央アジア最古のウルグ・ベク(1418創設,1585修復),これに対面する規模雄大なアブド・アルアジーズ・ハーン(1652),精緻なタイル装飾で知られるミール・アラブ(1535),クケルタシュ(1569修復)などがある。墓廟としては,イスマーイールの墓廟(10世紀初期),チャシュメ・アイユーブ廟(12世紀創設,1380-85年ころ再建),サイフ・アッディーン・ブハールジー廟(13~15世紀),ウルグ・ベク廟(1585修復)などが挙げられる。以上のほか有蓋の市場ターク・イ・ザルガラン(16世紀),修道場フワージュ・ザイン・アッディーン(16世紀),屋外の礼拝場ナマーズガー(ムサッラー。12~17世紀),城砦(9世紀。現在,歴史・民俗博物館)などが主要な遺構である。
執筆者:杉村 棟
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中央アジア、ウズベキスタン共和国ブハラ州の州都。ボハラBokharaともいう。ゼラフシャン川が流れる低地に位置し、運河に面する。人口23万7900(1999)、27万7839(2019推計)。ブハラ州の地形はだいたい平坦(へいたん)で、降水量は少なく、カラクール種ヒツジの飼育地帯であり、養蚕も盛んである。それゆえブハラ市にその関連産業が発達している。とくに上等の巻毛羊皮、帽子、外套(がいとう)など、カラクール種ヒツジの加工製品は世界的に有名である。金糸・絹糸の伝統美術工芸品の製造でも知られている。また、天然ガスが産出し、ロシア中央部、ウラル、南カザフスタンにパイプラインで輸送されるとともに、工業の発達も顕著である。首都タシケントやトルクメニスタンの首都アシガバートに通ずる中央アジア鉄道の駅がある。シルク・ロードの重要地点として栄え、いまでも古い町並みが残る。1993年には世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[山下脩二]
イスラム時代以前の歴史には不明な点も多いが、遅くとも西暦1世紀には、現在の地に町が建設されていた。7世紀の中国文献で、ブハラは安国と記され、イスラム文献にブハール・フダートBukhār Khudātとみえる、イラン系ソグド人王朝の支配下にあった。アラブ軍の占領後、8世紀初頭から徐々にイスラム化し、9~10世紀にはサーマーン朝の首都となって、イスラム学術・イラン文化の中心地となった。1220年にチンギス・ハンによって破壊されたが、まもなく復興し、16世紀からブハラ・ハン国の首都として、西トルキスタンの政治・経済・文化の中心地となっていった。18世紀以降ロシアとの通商関係が緊密化するなかで、一大商業都市として発展した。革命によってブハラ人民ソビエト共和国(1920~24)の首都となったが、ウズベク・ソビエト社会主義共和国(1924~91)成立後、1928年にブハラ州の州都となった。1991年のソ連崩壊によるウズベキスタン共和国の独立によって、同国領となった。
[堀川 徹]
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ザラフシャン川下流のオアシスに位置する中央アジアの古都。古くはソグド人の都市国家として栄え,8世紀初めのアラブの征服後,イスラーム化が進展。サーマーン朝期からは中央アジアにおけるイスラームの学芸,ペルシア語文学の中心地となり,また幹線隊商路が交わる商業都市として発展。16世紀のシャイバーン朝以後,歴代のウズベク政権がここを首都とした。現在はウズベキスタン共和国ブハラ州の州都。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ウズベキスタン共和国,ブハラの北西部に位置する墓廟。〈サーマーン家の墓廟〉とも呼ぶ。…
…サファビー朝期には,フランス人の旅行家J.シャルダンの報告によると,毎日この広場が露天商の黒いテントで埋まったというから,常設店舗を補完する露店の市場であった。同じような状況は19世紀のブハラでも見られた。タジクの革命的文学者アイニーの自伝によると,ブハラ・ハーンの宮殿の前にあるアルグ広場は,処刑が執行された後,食料品屋,果物屋,菓子屋などの露天商に開放された。…
※「ブハラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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