精選版 日本国語大辞典 「ブルネイ」の意味・読み・例文・類語
ブルネイ
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翻訳|Brunei
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基本情報
正式名称=ブルネイ・ダルサラーム国Negara Brunei Darussalam
面積=5765km2
人口(2011)=42万人
首都=バンダル・スリ・ブガワンBandar Seri Begawan(日本との時差=-1時間)
主要言語=マレー語,中国語,英語,イバン語
通貨=ブルネイ・ドルBrunei Dollar
東南アジア,ボルネオ島北岸にある王国(1984年1月独立)。国土はマレーシアのサラワク州のなかに二つの飛地をなしている。
国土は海岸部と3主要河川の狭い沖積地を除き,全般に低平な丘陵からなっている。南部国境地帯に山地が走り,最高点はパゴンプリク山の1850m。気候は熱帯海洋性で,年降水量は2500~5000mm,南部山地がとくに多雨である。11~3月の北東モンスーンの季節には晴天が少なく,4月にはいってやや乾燥すると,焼畑の火入れが盛んになる。この焼畑が長年続いたことにより,熱帯雨林の一次林はしだいに少なくなっている。土壌はラテライトが主体でやせており,かつ,経済の中心がエネルギー資源の開発に置かれているため,農業生産力は高くない。丘陵や山地は人口密度が低く,住民の80%以上が水運に便利な海岸や河岸の都市に居住する。隣国マレーシアへ通じる道路は,石油基地スリアとその輸出港ルトン(サラワク州)を結ぶ国道のみである。
住民の最大多数派はマレー系で(70%弱),その多くはマレー半島やスマトラ島からの移住者に起源をもっている。ついで華人(20%強),イバン族(海ダヤク族),陸ダヤク族,ムルット族などのボルネオ土着民族である。この多様な住民構成と,かつてのイギリスの統治を反映して,日常使われる言語はマレー語,中国語(福建語,広東語,北京語が中心),イバン語,英語などとなっている。しかし,国語はマレー語,国教はイスラムと制定され,文化的にはマレー系優先の政策がとられている。華人が多い都市の商店街においても,ジャウイ(アラビア)文字表記によるマレー語を掲げることが義務づけられた。独立前,このような政治環境を嫌って,オーストラリアやカナダへ移住した華人が少なくない。今日,近代産業の管理職と高級公務員にはマレー系の進出がめだつ。ボルネオ土着民族は小農や労働者が多い。
執筆者:太田 勇
ブルネイ王国の歴史は古く,その存在は10世紀ころから確かめられるが,実際には8世紀ころから中国とインドネシア東部との海上交通路の要衝であったものと思われる。ブルネイは海上貿易を基礎としてボルネオ島各地の港市を支配し,フィリピン群島南部のスールー諸島にあったスールー王国とは,ボルネオ北部やミンダナオ島の支配をめぐって対立した。18世紀後半のイギリス,スペインの進出は王国にとって大きな脅威であったが,王国は横行していた海賊を鎮圧するために,とくにイギリスと手を結んだ。海賊平定に功のあったJ.ブルックやイギリス北ボルネオ会社がそれぞれブルネイの領土のかなりの部分(現在のマレーシアのサラワク州,サバ州)を支配下におさめ,19世紀後半にはブルネイ王国は現在と同じ狭い領土を支配するだけとなり,1888年にはイギリスの保護下に入った。
1906年イギリスはブルネイに理事官を駐在させて行政の実権を握った。第2次大戦中は日本軍に占領されたが,戦後は再びイギリスの保護領となった。59年2月に国防,外交,治安を除く分野でブルネイの自治が認められ,62年には議会の選挙が行われた。その直後,北ボルネオ統一を目的とするボルネオ人民党の反乱が起こったが,ブルネイの内外で支持を得られず,失敗に終わった。ブルネイは63年のマレーシア連邦結成の際,これに加入するよう強く求められたが,拒否した。その理由は領海で産出する石油,天然ガスの利益を独占するためであった。ブルネイはその後もイギリスの保護領であったが,83年をもってイギリスの保護を離れ,84年1月1日に完全独立した。
ブルネイは人口の点でも面積の点でもミニ国家であるが,このために複雑な行政組織を必要としないという利点はある。政体としては立憲君主制をとっており,現在の国王は1967年に即位したスルタンのハッサナル・ボルキアHassanal Bolkiah(1946~ )である。議会は独立直後の84年2月に解散され,憲法も停止されたままで,実質的には国王による専制政治である。豊富な石油資源のおかげで国民は世界有数の個人所得に恵まれ,政治的な不満はみられず,イスラム指導者としての国王の人気はたかい。個人の所得税はなく,社会保障は完備している。
国内の産業としては林業とケイ砂の生産があるが,とるに足りず,最大の産業は石油と天然ガスの生産である。石油の60~70%,天然ガスは100%が日本に輸出されている。経済関係の統計などはほとんど発表されておらず,詳細は不明である。社会保障が完備しているので,実際問題として国民は失業してもきつい危険の伴う職業にはつきたがらない。国外からの出稼ぎ労働者の数は多く,国民が持てる者,出稼ぎ労働者が貧しき者といった階級区分が生まれている。
執筆者:生田 滋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
東南アジア、ボルネオ島北岸にあるスルタン王国。正称はブルネイ・ダルサラーム国Negara Brunei Darussalam。面積5765平方キロメートル、人口39万(2007推計)。首都はブルネイ川河口にあるバンダル・スリ・ブガワン。
東部のブルネイ湾に流入するリンバン川流域はマレーシアのサラワク州に属するため、国土は東西に二分される。気候は熱帯雨林型で、奥地は密林に覆われるが海岸部は低湿地が多い。19世紀末以来イギリスの保護領とされていたが、1984年1月独立王国となった。独立後東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))および国際連合に加盟した。立憲君主制で国王は世襲による。1984年の独立直後から立法評議会は停止されていたが、2004年に20年ぶりに再開された。議席数は29で議員はすべて国王が任命する。2004年の憲法改正で一部議員を選挙で選ぶと制定されたが実施時期は未定である。現在の国王は29代目のスルタン、ハサナル・ボルキアで、政治的にはほとんど国王一族が支配権を握る。兵力約7000の国防軍もあるが、治安維持のため旧イギリス領時代のネパール兵(グルカ兵)約1000人が駐屯する。住民はマレー系が67%、中国系11%のほかインド系などで複合社会を構成する。イスラム教が国教とされ、公用語はマレー語であるが、英語も広く用いられ、中国語も使われている。
経済開発は1929年に発見されたセリア油田に始まり、第二次世界大戦中は日本の石油補給基地とされた。イギリスがブルネイを容易に手放さなかったのも石油のためである。油田は戦後北方の海底地区にも拡大され、その採掘はブルネイ・シェル会社が独占し、年産1045万キロリットル(2007推定)産出する。さらに近年は海底のアンバ・ガス田などの開発により日産約10.4億立方フィート(2006)の天然ガスを産出し、その開発には日本の資本も参加している。これらの豊富な資源のため、国内総生産(GDP)は121億8000万ドル(2007)、小国ながら1人当りの国内総生産は3万1228ドル(2007)で、世界でもっとも富裕な国の一つである。貿易額は輸出73億5100万ドル、輸入23億1400万ドル(2007)となっており、輸出品目の96%が石油、天然ガスおよび関連製品、おもな輸入品目は機械、輸送機器、工業製品、食料品である。おもな輸出相手国は日本、インドネシア、韓国、オーストラリア、おもな輸入相手国はシンガポール、マレーシア、アメリカ、EU、日本などとなっている。石油、天然ガスの多くが日本に輸出され、日本は最大の貿易相手国である。ただし、これら資源の将来の枯渇に備え、政府は農業や森林開発にも力を入れ始めている。人口の過少なことが国全体を通じての大きな課題で、ASEAN諸国からの出稼ぎ労働者に頼る面が大きい。豊かな財政のため社会福祉施設は充実し、首都の近代化も著しい。義務教育は5歳から12年間(初等・中等教育)と整い無償である。1985年には最初の国立大学ブルネイ大学が創設された。海外留学費も国費でまかなわれている。シンガポール、香港(ホンコン)、マレーシア、インドネシアなど近隣諸国やオーストラリア、ドバイ、ロンドンなどとは空路で結ばれる。1996年OECD(経済協力開発機構)の援助対象国からはずれ、「開発途上国」を脱した。
[別技篤彦]
中国史料ではブルネイをさすかと思われる地名(勃泥(ぼつでい))が9世紀にさかのぼって現れるが、この王国の存在がより確実に言及されるのは14世紀のジャワ語文献においてである。15世紀末か16世紀初頭には土侯のイスラム化があり、以来ブルネイは北西ボルネオの沿岸部のほぼ全域にわたって宗主権を拡大した。北ボルネオ(現在のマレーシア、サバ州)ではスールー王国と覇を競い、南はサラワク州都クチン以遠までがその勢力下にあったが、支配の内実はそれぞれの地域の土豪を被官化するにとどまっていた。
19世紀中葉以降はサラワクがイギリス人ブルック一族の支配するところとなり、さらに北ボルネオがイギリス北ボルネオ会社の経営下に組み込まれることによって、ブルネイは現在の狭小な領土をかろうじて確保するのみとなり、1888年にはイギリスの保護領となった。1906年には内政も含めイギリスの保護下に置かれたが、1959年には内政自治を回復した。1963年のマレーシア連邦成立時には石油利権と王権をめぐる確執から連邦入りを拒み、ようやく1984年初めに完全独立を果たすことになった。住民は本来マレー人であるが、サバ、サラワクから移住してきたプロト・マレー系住民のほか、中国系の割合も高い(後者は全人口の11%)。1962年には即時独立と民主化を要求する武装反乱が起こるなど内政的には不安定要素が大きかったが、近年は石油収入に支えられて経済的にはきわめて富裕である。
[内堀基光]
『下元豊著『もっと知りたいブルネイ』(1986・弘文堂)』▽『桃木至朗他編『東南アジアを知る事典』(2008・平凡社)』▽『東南アジア学会監修、東南アジア史学会40周年記念事業委員会編『東南アジア史研究の展開』(2009・山川出版社)』
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ボルネオ北部にある立憲君主制国家。起源は古く9世紀の中国史料に登場するが,15世紀頃はジャワのマジャパヒト王国に服属していたという。マゼラン艦隊が訪問した16世紀初期頃は,竜脳(りゅうのう)の輸出や中国とモルッカ諸島の中継交易で繁栄し,ボルネオ北部を支配していた。イスラーム化したのも16世紀初期頃という。だが,1570年代以降,フィリピン諸島南部のスールー王国やスペインとの紛争,宮廷の内紛などにより勢力が衰えた。19世紀にはブルックの創始したサラワク王国に領土の大半を奪われ,1888年からイギリスの保護国となった。第二次世界大戦後のマレーシア結成にも参加せず,長くイギリスの保護領であったが,1984年1月に独立を果たした。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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