イギリス自由党の前身。その起源はピューリタン革命期の議会派にまでさかのぼることもできるが,この名称は1680年ごろから使われはじめた。ピューリタン革命後,国王反対勢力は一時完全に押さえこまれていたが,1670年代初めから勢力を盛りかえし,70年代末にはチャールズ2世の王位継承候補者からヨーク公(のちのジェームズ2世)を排除しようという大運動を展開するに至った。その中心勢力につけられた蔑称がホイッグで,語源はスコットランドの反徒ホイッガモアWhiggamoreである。その支持基盤は初期産業資本および商人層で,のちには貴族や大地主層の一部を含むようになる。宗教的には英国国教会の中のリベラルな層と非国教徒を含み,政治的には共和主義者をも含むが,中心は制限王政論者である。
1688年の名誉革命はトーリー党の協力を得て成功したものの,基本的にはホイッグ路線の勝利を意味した。とくに,血統による王位継承という原理を否定し,議会の決定によってウィリアム3世を即位させたということは,ホイッグの主張する社会契約論の実践ともいいうるものである。名誉革命以後,アン女王の時代には一時トーリー党が勢力を回復したが,その後,ハノーバー家のジョージ1世が即位するにおよんでホイッグ党の優位は決定的となり,とくにウォルポール内閣の時代(1721-42)にはトーリー党を完全に押さえこんだ。当時の政党は,近代的政党とは異なり綱領や規約などをもたず,有力政治家の率いる派閥の連合のようなものであった。ウォルポールの引退後,政治情勢が流動化するにつれて,ホイッグとしてのまとまりがゆるみはじめた。1762年,ジョージ3世がトーリー党のビュート伯を首相に任命するにおよんで,トーリーと連立しようとする保守派と,ロッキンガムを中心とする改革派との間に亀裂が生じ,ホイッグ党はほぼ分裂状態となり,以後1830年までトーリー内閣が続いた。しかし,トーリー党もブルジョア階級の興隆とともに変質しはじめており,1820年代には自由主義的傾向を強め,ホイッグ党との差は希薄になっていた。30年にグレーは自由主義的トーリーを抱きこんで政権を握り,32年に第1次選挙法改正に成功した。このころからホイッグ党は自由党とも呼ばれるようになり,性格がややあいまいになるが,穀物法撤廃などの自由主義的政策を推進し,60年代にグラッドストンのもとで自由党へ完全に脱皮した。
→自由党
執筆者:浜林 正夫
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アメリカ合衆国第7代大統領アンドルー・ジャクソンに反対する諸勢力が結集して形成された政党。合衆国銀行特許延長法案拒否のような強力な行政権限を行使したジャクソンを「アンドルー王」と決めつけ、その支持者をイギリスのトーリー党になぞらえ、これに抵抗するものとして自らを「ホイッグ」と名のった。「国民共和党」と「反メーソン党」という北部に中心拠点をもつ二つの政党が合体して生まれた政党で、ニュー・イングランドのウェブスターやアメリカ体制論者ヘンリー・クレイらが指導したが、多数派形成のためカルフーンのような強硬な南部州権論者をも吸収したため、結集力は弱かった。
最初、党派としては1834年ニューヨーク市選挙で現れ、他の諸州へも勢力を伸ばし、40年ハリソンを大統領に当選させ、議会をも支配した。しかし、ハリソンが就任直後急死し、念願の合衆国銀行再建法は大統領昇任直後の南部州権論者タイラーの拒否権発動によって葬られ、国務長官を除く全与党閣僚が辞任した。ホイッグ立法としてみるべきものは、短期間関税引上げに成功したくらいであった。その後48年の選挙でテーラーを大統領に当選させたが、党内対立を克服できず、50年代の奴隷制反対勢力の台頭に伴う政界再編成のなかで解体し、リンカーン、シュアード、グリーリーのような北部の党員はほとんど共和党に移った。しかし、アメリカ二大政党制度の特徴とされる猟官制(スポイルズ・システム)、党大会制度、選挙の際のもろもろの大衆動員戦術等が、このホイッグ党と相手の民主党との競合関係のなかで定着した点は、政党史上画期的なできごとであった。
[安武秀岳]
イギリスの政党。自由党の前身。1670年代末、カトリック教徒の王弟ジェームズを王位継承者から除こうとした政治家が、スコットランドの反徒を意味する「ホイッグ」Whigという名でよばれたことに由来。対立するトーリー党が王権を尊重したのに対し、ホイッグ党は議会による王権の制限を主張し、名誉革命(1688~89)で議会政治が確立して以後、力を伸ばした。基本的には大地主、貴族の党であったが、商工業階級や非国教徒の支持も受けた。1714年にドイツからハノーバー朝を迎えてからは、同王朝の支持者として半世紀にわたって政権を独占し、ウォルポール以下の首相の下で内閣制度を発展させた。1760年のジョージ3世の即位以後は野党に下ることが多くなったが、この不遇期に、有力貴族を中心とする私的党派から、より近代的な政党に脱皮を遂げた。18世紀末から改革の党としての性格を徐々に強め、19世紀に入って、産業革命期の社会的変化に応じた政策を推進する自由主義的な政党となった。1832年には選挙法改正を実現し、やがて急進派と合流し自由党とよばれるようになるが、それ以後も「ホイッグ」という名が、ホイッグ党の伝統をくむ穏健派の政治家に対して使われた。
[青木 康]
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①〔イギリス〕イギリス,自由党の前身。1670年代末に王弟ジェームズ(のちのジェームズ2世)を王位継承から排除する法案に賛成する人たちで結成。反対派から「スコットランドの暴徒」をさす言葉で呼ばれたのが党名の由来。大地主を中心とする党であったが,トーリ党に対抗しつつ,商工業者と非国教徒の利害に配慮した政策を推進し,18世紀にはウォルポールのもとで優位を占めた。産業革命後の1830年代から選挙法改正をはじめとする自由主義的改革を推進し,自由党結成の主要勢力となった。
②〔アメリカ〕反ジャクソン派が1830年代初めに形成した政党。初め国民共和党と称したが,まもなくジャクソン大統領の「専制」に対抗するという意味でホイッグと称するようになった。50年代の政党再編成期に姿を消した。
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…正式名称=グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland面積=24万4792km2人口(1996)=5848万9975人首都=ロンドンLondon(日本との時差=-9時間)主要言語=英語通貨=ポンドPoundヨーロッパ大陸の西方に位置する立憲王国。正式の国名は〈グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国〉で,〈英国〉とも呼ばれる。…
…イギリスの政党。前工業化段階に生まれたホイッグ党の工業化社会における発展形態で,19世紀から20世紀の初めにかけて,保守党とともにイギリスの二大政党制を担った。その歴史は,1870,80年代を境に大きく二つに分けて考えることができる。…
…イギリスの場合,のちの保守党,自由党へと発展していくトーリー派とホイッグ派の対立は,17世紀に始まる。そして18世紀初頭のR.ウォルポールや,18世紀末から19世紀初頭のW.ピット(小)の活躍により,議会内の多数派が政権を担当する議院内閣制が確立するに至り,さらに1830年の総選挙でのトーリー党の敗北によって,50年ぶりにホイッグ党が政権に復帰し,32年の選挙法大改正前後のころから保守党と呼ばれるようになったトーリー党とホイッグ党の交互の政権担当により,〈議会主義の黄金時代〉が現出されることになった。この間に,ホイッグ党は,19世紀半ばころから自由党と呼ばれるようになるが,やがて19世紀から20世紀への移りめの時期における,労働者階級に基盤をおく政党の急速な台頭によって,イギリス政党制は新しい段階に入ることになる。…
※「ホイッグ党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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