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ボリーバル ボリーバル Simón Bolívar

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デジタル大辞泉の解説

ボリーバル(Simón Bolívar)

[1783~1830]南アメリカ独立運動の指導者。カラカスの生まれ。スペイン軍と戦い、ベネズエラコロンビアエクアドルを解放し、大コロンビア共和国を樹立。さらにペルーボリビアの解放に成功。1826年、スペイン系独立諸国の連帯を目的とした国際会議パナマに開催。

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百科事典マイペディアの解説

ボリーバル

ラテン・アメリカ独立の指導者。解放者と呼ばれるベネズエラのカラカスの名門に生まれ,啓蒙思想の影響を受けた。1810年独立運動に参加し,翌年ベネズエラの独立を宣言するが,スペイン軍との戦闘が続き,1814年ジャマイカに亡命。
→関連項目カラカスガルシア・マルケスコロンビアサンタンデルサン・マルティンパエスボリビアラテン・アメリカ

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世界大百科事典 第2版の解説

ボリーバル【Simón Bolívar】

1783‐1830
南アメリカ大陸北部をスペインの植民地支配から解放した軍人,政治家で,19世紀初めのラテン・アメリカ独立の指導者。1783年7月24日,ベネズエラのカラカスの富裕な名門クリオーリョ(植民地生れのスペイン人)の家に生まれた。幼少のときに両親を失ったが,家庭教師シモン・ロドリゲスの薫陶を受け,早くからルソーロックモンテスキューなどヨーロッパの啓蒙思想家の著作に接し,それがのちの自由主義的な思想形成の礎石となった。

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大辞林 第三版の解説

ボリーバル【Simón Bolívar】

1783~1830) ベネズエラの独立革命指導者。ラテン-アメリカ独立のためスペイン軍と戦い、ベネズエラ・コロンビア・エクアドルを解放、大コロンビア共和国を成立させ大統領となる。さらにペルー・ボリビアを解放。ラテン-アメリカ統一には失敗したが、その連帯に尽くした。ボリビアの名は彼の名にちなむ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ボリーバル
ぼりーばる
Simn Bolvar
(1783―1830)

南アメリカ独立運動の指導者、大コロンビア共和国大統領。「解放者」el Liberatorの称号をもつ。ボリビア共和国(現ボリビア多民族国)はその名にちなんで命名された。
 現ベネズエラの首都カラカスのクリオーリョ(植民地生まれの白人)の名門に生まれる。家庭教師より啓蒙(けいもう)思想の影響を受け、1799年からヨーロッパで学び、この間に植民地独立の志を固めた。ナポレオンのスペイン占領をきっかけに独立の気運が高まるなか、1810年に亡命中の独立運動の先駆者ホセ・ミランダとロンドンで会い、両者は帰国して翌1811年ベネズエラを独立させた。しかし大地震の打撃もあって1812年同国は崩壊しボリーバルは亡命した。同年、亡命地で「カルタヘナ宣言」を発表して独立運動の続行を宣言、ヌエバ・グラナダ(現コロンビア)住民の協力のもとに、1813年ベネズエラをふたたび解放した。しかし翌1814年、オリノコ川流域の牧畜民(リャネロス)に支援された王党派に敗れ、ジャマイカへの亡命を余儀なくされた。ここで「ジャマイカからの手紙」を発表、また奴隷制廃止を約束してハイチ共和国の支援を受け、ベネズエラ上陸作戦を決行したが失敗した。
 以後戦略を転換して、1817年にはオリノコ川をさかのぼってアンゴストゥーラ(現シウダー・ボリーバル)を占領した。この後パエスの率いるリャネロスを味方につけ、またナポレオン戦争の終わったイギリスから武器や兵員を調達したのち、1819年にアンデス山脈を越えてボゴタを占領、同年末、現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドルからなる大コロンビア共和国の独立を宣言した。1821年には北進してベネズエラを解放、1822年には南進してエクアドルも解放、さらに同年7月、ラ・プラタ(現アルゼンチン)から進撃してチリおよびペルーを解放していたサン・マルティンとグアヤキルで会談、ペルーでの指導権も握った。1824年にはアンデス山岳地帯を支配していた最後のスペイン軍を撃滅(アヤクチョの戦い)、1825年ボリビア共和国を独立させた。翌1826年にはパナマでスペイン系諸国の国際会議を開催し(コロンビア、ペルー、メキシコ、中央アメリカ諸国が参加)、これら諸国の団結と共同防衛を目的とした条約を成立させ、ラテンアメリカ連帯の先駆者となった。しかしこのころから各共和国内の対立や分離運動、国際紛争が激化し、ボリーバルの努力もむなしく、1830年にはついに大コロンビア共和国も三国に分離解体した。結核に苦しむボリーバルは失意のうちに引退し、ヨーロッパへの途上コロンビアのサンタ・マルタで病死した。[野田 隆]

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世界大百科事典内のボリーバルの言及

【サン・マルティン】より

…アルゼンチンの軍人。ベネズエラのシモン・ボリーバルと並ぶラテン・アメリカ独立の英雄で,アルゼンチン,チリ,ペルーの解放に貢献した。スペイン人の士官を父に,父が役人をしていたアルゼンチン北東部のヤペジュに生まれ,1785年家族とともにスペインに移った。…

【大西洋】より

モンロー主義)を発して,西半球に対するヨーロッパの干渉を拒否した。このような国際環境に恵まれて,中・南米各植民地はS.ボリーバルらの指導のもとに次々と独立を達成した。ただし,独立後もこれらの諸国は,イギリス(のちにはアメリカ合衆国)による事実上の植民地としての支配を受け,低開発状態を脱することができないでいる。…

【パナマ会議】より

…1826年S.ボリーバルの提唱で開催されたラテン・アメリカ諸国による最初の国際会議。1824年末,当時グラン・コロンビアの大統領であったボリーバルは,独立直後のラテン・アメリカ諸国に対しその独立を確保する手段について協議するための会議をパナマ市で開くよう呼びかけた。…

【ベネズエラ】より

…正式名称=ベネズエラ共和国República de Venezuela面積=91万2050km2人口(1996)=2231万人首都=カラカスCaracas(日本との時差=-13時間)主要言語=スペイン語通貨=ボリーバルBolívar南アメリカ大陸最北端にある共和国。北はカリブ海に面し,東はガイアナ,南はブラジル,西はコロンビアに接している。…

【ラス・カサス】より

… ラス・カサスに対する評価は二分され,〈インディアスの使徒〉と高く評価される一方,〈黒い伝説〉誕生の責任者として非難される。いずれにせよ,ヨーロッパ人の征服行為に絶対的な不正をみてとり,被征服民族の人間としての権利を擁護しつづけたラス・カサスは,S.ボリーバルらラテン・アメリカの独立運動を進めた人々やインディヘニスモの推進者に影響を与え,今日も大きな歴史的価値をもっている。黒い伝説【染田 秀藤】。…

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