ボローニャ派(読み)ボローニャは

改訂新版 世界大百科事典 「ボローニャ派」の意味・わかりやすい解説

ボローニャ派 (ボローニャは)

イタリアの地方画派。古い大学都市ボローニャは,13世紀の写本彩飾画にさかのぼる優れた美術的伝統を有するが,普通〈ボローニャ派〉という場合には,ボローニャで学び新様式を確立してイタリア美術に主導的役割を果たした16世紀末から17世紀前半にかけての一群の画家をさすことが多い。

 彼らはいずれもボローニャでカラッチ一族アカデミア(1582設立)に学び,そのおもだった者,すなわちレーニアルバーニランフランコドメニキーノらはアンニバレ・カラッチに倣って1600年ころローマに出,教会堂,宮殿の大規模なフレスコ装飾,宗教的・神話的主題の油彩画を手がけ,アンニバレのあとを受けてローマ画壇の主流をなした。ただし,30余年にわたりローマで活動したドメニキーノとランフランコを別とすれば,ボローニャ派のローマ滞在は短期かつ断続的である。彼らの様式は,盛期ルネサンスの規範と自然観察の融合によるマニエリスムの超克をめざしたカラッチ一族の方向を継ぐものであるが,カラッチ一族のそれぞれに認められる個性の差は,これに師事した画家たちの資質の差により増幅され,ドメニキーノの厳格な古典主義とランフランコの動的でイリュージョニスティックなバロック様式両極とする多様な傾向に分化した。古典的調和,抒情性,繊細な色彩性を特色とするレーニは,1614年以後郷里で支配的存在となり,アカデミアの弟子ではないがルドビコ・カラッチの影響下に様式を形成したグエルチーノは,大胆な仰視遠近法による天井画をローマに導入した。このようにボローニャ派はバロックと古典主義の双方への展開をはらんでいたが,後世においては肯定するにせよ否定するにせよ,アカデミックな古典主義の側面のみが強調されたきらいがある。
カラッチ一族
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボローニャ派」の意味・わかりやすい解説

ボローニャ派
ぼろーにゃは
Scuola Bolognese

イタリアのボローニャで栄えた画家の一派。ボローニャでは、14世紀にもビターレ・ダ・ボローニャなどの優れた画家の一派が活躍したが、通常は16世紀末から17、18世紀に輩出した画家たちをさす。このボローニャ派の黄金時代の基礎を築いたのは、ロドビコ、アゴスティーノ、そしてアンニーバレらのカラッチ一族であった。彼らはボローニャで一種のアカデミーを開き、16世紀後半のマニエリスム絵画を克服する新しい絵画を研究し、それを多くの画家に広めた。とりわけアンニーバレ・カラッチはフィレンツェベネチアのルネサンス絵画を総合した作品で大きな影響を与え、カラバッジョと並んでバロック絵画の基礎を築いた画家として高く評価されている。彼はローマでも活躍したが、カラッチ一族に育てられた画家もローマやナポリで重要な仕事をした。なかでも、ドメニキーノ、グイド・レーニ、アルバーニ、そしてグエルチーノはことに重要である。ボローニャ派は、18世紀前半に活躍したジュゼッペ・マリア・クレスピ(1665―1747)らを最後に重要性を失った。

[石鍋真澄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ボローニャ派」の意味・わかりやすい解説

ボローニャ派
ボローニャは
Scuola Bolognese

北イタリアの古都ボローニャを中心として栄えた絵画の流派。 15世紀前半までは,まだ伝統的なビザンチン画風が支配的であったが,後半から地理的関係上フェララ派との接触が強まり,特に 1470年以降,フェララ派の L.コスタがこの地に移住するに及んで大きな影響を与えることになる。この地出身のフランチアは彼から学び,またウンブリア派のペルジーノからも摂取して甘美で温雅な画風を樹立した。彼の画風はその弟子ビティからラファエロにまで伝えられるが,一般的にみて 15世紀後半から 16世紀前半までのこの画派は,イタリア画壇では概して不振であった。ところが 16世紀後半,この地出身のカラッチの唱道する盛期ルネサンス様式の折衷主義は,一躍同派を 17世紀のイタリア画壇の主導的地位にまでのし上げた。すなわちカラッチは従兄弟のアゴスティーノおよびアンニバーレとともに,1589年にボローニャに美術学校アカデミア・デリ・インカミナーティを創設,コレッジオ,サルト,ティツィアーノ,ティントレットをはじめ,ミケランジェロやラファエロらのすぐれた先人の各種技法を組織的に研究してそれを教授し,そこから多くの英才を輩出させ,同派の一大隆盛を現出させた。このアカデミアから,G.レニをはじめ F.アルバーニ,ドメニキーノ,グェルチーノら,多数のすぐれたバロック画家が育っていった。

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世界大百科事典(旧版)内のボローニャ派の言及

【カラッチ一族】より

…イタリアの画家一族。マニエリスムを克服し17世紀の新様式への道を開いて,いわゆるボローニャ派を創始した。ルドビコLudovico C.(1555‐1619)とその従弟アゴスティノAgostino C.(1557‐1602),アンニバレAnnibale C.(1560‐1609)の兄弟が知られ,3人は最初郷里のボローニャに共同のアトリエを構え,1582年,アカデミア(画塾)を設立。…

【カラバッジョ】より

…さらに《パウロの改宗》(1600‐01),《キリストの埋葬》(1602‐04),《聖母の死》(1605)などを手がけ,初期バロックのリアリズム様式を確立した。同じころ,アンニバレ・カラッチ(カラッチ一族)とボローニャ派は初期バロックの古典主義流派を形成して,ローマ画壇を二分した。06年友人を殺害し,ナポリ,シチリア,マルタを流浪,各地に作品を残して39歳で没す。…

【バロック美術】より

…これは,バロック的装飾画の最初の例である。カラッチ一族のアカデミアからはレーニ,ドメニキーノ,アルバーニFrancesco Albani(1578‐1666),ランフランコ,グエルチーノなどが輩出し,彼らはいずれも1600年ころローマに出て,ローマ彫刻の雄壮さとベネチア派の色彩と自然主義を併せもつ大様式の画派(ボローニャ派)を形成した。他方,ミラノで修業したロンバルディア出身のカラバッジョも,1590年ころローマにあって,リアリズムと明暗様式を特色とする宗教画によって大成功をおさめ,この両者の勢力がツッカロらの後期マニエリスムを圧倒し,新時代を画した。…

【ボローニャ】より

…しかし政治的には安定を欠き,ペポリPepoli,ベンティボリオBentivoglioなどの都市貴族,あるいはミラノのビスコンティ家などが支配を争ったものの,どれも長期的なシニョリーア制を確立するにはいたらず,1513年以後イタリア統一まで,ナポレオン時代を除き教皇領であった。16世紀末以後,絵画の分野でカラッチ一族,G.レーニなどに代表されるボローニャ派の活躍をみたが,教会の支配下で文化的にも経済的にも停滞した。イタリア統一後は,再びこの地方の文化的中心として,また伝統的手工業や中小企業を基盤にした商工業都市として発展し,人口も増大した。…

【レーニ】より

…1600年ころから数回ローマに滞在し,教皇庁関係をはじめとする重要なフレスコ画を手がけるが,14年以後はボローニャを根拠地に活動,多くの弟子を擁して聖俗の主題による多数の油彩画を制作。カラッチ一族亡きあとのボローニャ派の代表的存在で,アカデミックな芸術観が崩壊する19世紀後半まで高い名声を保ち続けた。近年真作と工房作の別が明らかにされるにつれ,真価が再確認されつつあり,またその色彩性も注目されている。…

※「ボローニャ派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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