改訂新版 世界大百科事典 「ビクトリア時代」の意味・わかりやすい解説
ビクトリア時代 (ビクトリアじだい)
Victorian Age
字義どおりには,1837年から1901年に至るイギリスのビクトリア女王の治世をいう。だが通常は,その治世の中でも,とくにイギリスが世界経済の覇者となった1840~70年代のこの国の〈黄金時代〉を含意し,しかもこの時期の生活,文化とのかかわりで用いられる。この時期のイギリス社会に顕著な一特色は,工業化と都市化が進み,それを背景に中流階級が勢力を増大させ,経済と政治の重要な担い手になったことであった。それゆえビクトリアニズムVictorianismといわれるこの繁栄期の文化にも,彼らの生活哲学が色濃く投影されている。彼らは支配階級の地主階級とは異なってピューリタニズムの影響を強く受け,自分の仕事に勤勉で,自主独立の気概に富み,19世紀の時代思潮であった自由主義の最大の支持勢力であった。1859年S.スマイルズの《自助論》が出版され,爆発的な売行きを示したが,〈自助self-help〉こそは,彼らの生活のモットーであった。この《自助論》は71年(明治4)に中村正直によって《西国立志編》として邦訳され,明治期の青年たちを鼓舞した。繁栄期のもう一つの特色は,工業化と都市化が生活の場としての職場と消費の場としての家庭を分離させ,家庭が社会生活の重要な単位となったことであった。よき家庭生活は,自助と並んで中流階級の理想となり,とくにビクトリア女王と夫のアルバートが,率先して幸福な家庭生活の範を示した。仕事熱心でスキャンダルがなく,潔白な私生活をつらぬいたビクトリア女王は,中流階級の生活の理想をよく代弁し,そのことによって彼らの支持をかちえることができた。
だが,中流階級の興隆だけが繁栄期ビクトリア時代の特色であったわけではない。1840~70年代の政治の実権は,なお地主階級が握っており,イギリス社会全体としては,ジェントルマンが究極の人間の理想像であった。ジェントルマンであるかないかということを基準に社会の階層秩序が形成されており,上層の中流階級は田舎に土地と邸宅を買い求め,子弟をパブリック・スクールに送ってジェントルマンの地位を目ざした。一方,それだけの資力のない中流階級の間では,ジェントルマンの外見を模倣する紳士気取り(スノッブ)の風が広がり,とくに召使の雇用は,彼らをより下の労働者階級から区別する端的な地位の象徴となった。また,家父長制がなお家族形成の基本的な原理となっており,そのため女性の男性への従属は当然のことと一般に考えられ,女性の政治的・社会的権利は,ほとんど認められていなかった。そして人口の最も大きな部分を占める労働者は,地主階級とも中流階級とも異なる別の世界に生きていた。たしかに一部上層の熟練労働者は労働組合をつくり,1867年には選挙権も獲得し(第2次選挙法改正),自助の生活態度さえ身につけ始めていたが,不熟練労働者の大部分は政治的権利からも疎外され,世紀末のC.ブースとB.S.ラウントリーの調査によるなら,都市域の人口の約3分の1がスラム街に住み,〈貧困〉の状態にあった。B.ディズレーリは,1840年代のイギリス社会を富者と貧者の〈二つの国民〉と称したが,この状況は繁栄期のビクトリア時代にもなお維持されていたといってよい。
1840~70年代の時期は,科学の発達に伴って人々のキリスト教的世界観がしだいに崩壊していった時代でもあった。19世紀前半の信心深い中流階級の人々は,《創世記》の天地創造の説明をなおすなおに信ずることができた。だが1859年に出版されたC.ダーウィンの《種の起原》は,彼らの世界観に決定的な衝撃を与えた。ダーウィンの学説は,直ちに広く世間に受け入れられたわけではないが,着実に古い宗教的世界観を崩壊させた。また,繁栄期のビクトリア時代は,労働時間の短縮とあいまって,人々の余暇と娯楽の領域が大きく拡大し始めた時代でもあった。熊や牛に犬をけしかけて楽しむ野蛮な見世物がしだいに影をひそめ,サッカーのような団体スポーツがそれに代わった。中流階級の間ではこのころから登山やサイクリングが流行するようになった。汽車を利用する観光・団体旅行も,1851年の万国博覧会のとき以来広がった。海水浴が一般化したのもこのときのことであった。
執筆者:村岡 健次
風俗,タブー
宗教,道徳による抑圧が強まり,リスペクタビリティ(世間体,体面)をとりつくろう風潮が強く見られたのが,この時代の特徴であったから,とくに性についてのタブーや,その結果として生ずる弊害がさまざまな問題を呼んだ。例えば言語上のタブーとして,性行為や性器を示す言葉が一般に禁じられたのはもちろん,それが現在から見ると滑稽な程度にまで達してしまった。arse(尻)が禁じられ,bottom(底)とかbehind,posterior(後部)と言い換えねばならないのは,まだ理解できるが,leg(脚)までが卑猥(ひわい)語扱いされlimb(四肢)と言い換えねばならなかった。身体に直接着ける衣類を示す言葉もタブーとなり,trousers(ズボン),stockings(靴下)までがunmentionables,indescribables(口にすべからざるもの)に変わる。こうした操作を婉曲語法euphemismという。この社会的風潮で最も被害を受けたのは文学であって,シェークスピア全集までがバウドラーThomas Bowdler(1754-1825)の手で〈父親が子どもに,紳士が淑女に読んで聞かせるのをはばかるような〉部分をかってに削除,改変されて《家庭用シェークスピア》の名で出版されたのは1818年のことであった。20世紀になってすら,ジョイスの《ユリシーズ》,D.H.ロレンスの《チャタレー夫人の恋人》が発禁処分を受けたのであるから,その間の時期がどうであったか,容易に想像がつく。
このような抑圧の激しい時代だけに,隠された暗い部分も多かった。作者不詳で秘密に出版されるポルノグラフィー文学が急に増したのもビクトリア時代であった。これらの筆者や読者はけっして下層社会の無学な者ばかりではなく,いわゆるジェントルマンが多く交じっていた。雑誌《パール》(1879-80)や長編自叙伝《わが秘密の生涯》(1890ころ)などは,その描写の迫真性において,社会風俗史の資料と認められているほどである。女性の身体の線がなるべく表に現れ出ぬような衣服が流行した結果,逆に性的興奮を高めることとなった。ジェントルマンの子女は幼いころから完全に男女別の厳しい寄宿舎制の学校で教育されたために,イギリス上流社会での同性愛流行は社会問題になった。子どものときから体罰(とくに尻を棒で打つ)を多く加えることによって,従順の徳と倫理観を植えつけようとするのが一般常識であったが,これがサディズム,マゾヒズムの性的倒錯を生み出す一つの源泉となった。このように社会的規制によって秩序が確立したと思われているビクトリア時代は,一方では当時の良識からはずれた部分をしだいに増大,助長させる温床ともなり,〈世紀末〉と一般に呼ばれる19世紀末期は,それが爆発寸前にまで達した。ビアズリーの白黒だけの絵画がかもし出す微妙なエロティシズムや,ルイス・キャロルの子ども向きの無邪気な物語らしく思える書物の行間から見え隠れする性的倒錯などは,その典型的実例と考えられる。
執筆者:小池 滋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報