マクシミリアン(英語表記)Ferdinand Maximilian Joseph

デジタル大辞泉 「マクシミリアン」の意味・読み・例文・類語

マクシミリアン(Maximilian)

(1世)[1459~1519]神聖ローマ皇帝在位1493~1519。婚姻政策によってハプスブルク家領を広げ、同家興隆の基礎を築いた。スイス諸州の独立承認

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「マクシミリアン」の意味・わかりやすい解説

マクシミリアン
Ferdinand Maximilian Joseph
生没年:1832-67

メキシコ皇帝。在位1864-67年。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟。ナポレオン3世メキシコ干渉戦争に際し,こわれて皇帝となる。南北戦争後アメリカ抗議フランス遠征軍の撤退を迫られると,1866年ナポレオンは受諾するが,皇帝マクシミリアンは残留し,革命派に捕らえられて処刑される。開明的君主を心がけていただけに,このハプスブルク家の悲劇はヨーロッパ知識人の間で同情を買った。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マクシミリアン」の意味・わかりやすい解説

マクシミリアン
Maximilian, Prinz Von Baden

[生]1867.7.10. バーデンバーデン
[没]1929.11.6. セイラム城
ドイツ政治家。バーデン大公フリードリヒ2世の従弟。1907~18年バーデン上院議長。第1次世界大戦末期の 1918年10月3日,軍部支配の崩壊とともに不利な戦況終止符を打つために,その平和主義的・自由主義的傾向を認められてドイツ帝国の首相就任。連合国との間に休戦交渉を開始した。当初は君主制の維持に尽力したが,軍隊の士気の低下,国内各地の反乱といった状況下に同 1918年11月9日皇帝ウィルヘルム2世退位を宣言し,同時に首相の地位をフリードリヒ・エーベルトに譲って引退。『回想録』Erinnerungen und Dokumente(1927)がある。

マクシミリアン
Maximilian; Ferdinand Maximilian Joseph

[生]1832.7.6. ウィーン
[没]1867.6.17. ケレタロ
メキシコ皇帝 (在位 1864~67) 。オーストリア大公。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟で,1857年ベルギー王家のシャルロッテ (カルロタ ) と結婚,63年フランス軍のメキシコ占領後,メキシコ保守派およびナポレオン3世から帝位を与えられた。翌 64年これを受諾してメキシコに渡ったが,教会財産の返還拒否などでメキシコ保守派の支持を失い,他方 B.フアレスの率いる革命軍の抵抗にあい,66年フランス軍撤退後,67年革命軍の捕虜となり銃殺された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「マクシミリアン」の解説

マクシミリアン
Maximilian

1832~67(在位1864~67)

メキシコ皇帝。ハプスブルク家の生まれで,オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を兄に持つ大公であったが,自由主義派が政権を掌握したメキシコに軍事介入を行った第二帝政期のフランス皇帝ナポレオン3世に乞われて,メキシコ皇帝に就任した。南北戦争後のアメリカの圧力でフランス軍が撤退したが,その後も皇帝としてメキシコに留まり,ファレス指揮下の自由主義派の軍隊にケレタロで敗れ,銃殺された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「マクシミリアン」の意味・わかりやすい解説

マクシミリアン

メキシコ皇帝(在位1864年―1867年)。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの弟。ナポレオン3世によるメキシコ干渉の際に皇帝として送りこまれたが,フランス軍の撤退後,フアレスの政府軍に捕らえられて処刑。
→関連項目ディアス

マクシミリアン

ドイツの政治家。バーデン大公国世嗣公子で,マックス・フォン・バーデンMax von Badenと呼ばれた。自由主義者・平和主義者として名声があり,第1次大戦末期の1918年10月に宰相となり,無条件降伏を実現,民主化政策の推進による帝政維持を図ったが,ドイツ革命により11月辞職。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マクシミリアン」の意味・わかりやすい解説

マクシミリアン
まくしみりあん
Ferdinando Maximilian
(1832―1867)

メキシコ「皇帝」(在位1864~67)。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟で、メキシコを占領したフランスのナポレオン3世とメキシコ保守派に推され、1864年メキシコ「皇帝」に就任した。保守派の反対をおして自由主義的政策を実施するなどメキシコ人の懐柔に努めたが、民衆の支持を得ることができず、67年自由派のフアレス軍に敗れて捕虜となり処刑された。

[野田 隆]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「マクシミリアン」の解説

マクシミリアン

生年月日:1867年7月10日
ドイツの政治家
1929年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のマクシミリアンの言及

【フアレス】より

…M.ミラモンが自由主義派の勢力に敗れると彼は大統領に就任(1861)したが,国会が2ヵ年の対外負債凍結を宣言するに至り,イギリス,フランス,スペイン3国軍隊がベラクルスに上陸し,フアレス打倒に加勢した。フランスがマクシミリアン大公をメキシコ皇帝として擁立(1864‐67)すると,臨時政府はパソ・デル・ノルテに移った。サラゴサIgnacio Zaragozaがフランス軍を破り君主政が壊滅すると,67年に大統領に再選され,共和政の勝利を確立する。…

【メキシコ】より

…61年内戦を終結させた自由主義派政府は財政窮乏から外債利子支払停止を宣言したため,フランスの武力干渉を招いた。フランスはオーストリア大公マクシミリアンを送ってメキシコを支配し,第2次帝政時代(1864‐67)を出現させた。自由主義派勢力はフアレス大統領の指揮下で戦い,67年にフランス軍を破った(メキシコ干渉)。…

【メキシコ干渉】より

…フランス軍は,63年5月プエブラでの激しい抵抗運動を制圧し,6月にはメキシコを占領した。メキシコの貴族グループは,ナポレオン3世の指示に従ってオーストリアの大公マクシミリアンFerdinand‐Joseph Maximilian(1832‐67)を皇帝にすえた。しかし,マクシミリアンはメキシコの自由主義者と民衆の支持を得ることはできず,またバゼーヌFrançois‐Achille Bazaine(1811‐88)の率いるフランス軍は,対仏抵抗ゲリラとアメリカ合衆国の圧力によって67年3月撤退した。…

※「マクシミリアン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android