翻訳|Malawi
基本情報
正式名称=マラウィ共和国Republic of Malawi
面積=11万8484km2
人口(2009)=1526万人
首都=リロングウェLilongwe(日本との時差=-7時間)
主要言語=チェワ語,英語,トゥンブカ語
通貨=マラウィ・クワチャMalawian Kwacha
アフリカ中南部の内陸にある国。イギリスの保護領時代にはニヤサランドNyasalandと呼ばれた。マラウィとは本来土着語で〈炎〉を意味し,かつてこの地に興ったバントゥー系のマラビ王国に由来するが,独立時(1964)にあらためて国名に採用された。国土は日本の1/3弱で,しかもその1/5強がマラウィ湖などの湖水面であるため〈湖の国〉ともいわれる。国旗は,黒,赤,緑の横三色旗で,一番上の黒条に日の出の図柄が描かれている。黒はアフリカ人を,日の出は希望と自由を表し,赤は血,緑は自然を示している。
執筆者:星 昭
アフリカ大地溝帯の南部に属し,南北に走る底部は標高400~500mで,マラウィ湖とこれに続くシーレ川低地,チルワ湖周辺低地などを含む。両側の肩部は中生代末から第三紀末にかけての3群の浸食面が識別される波状高原面で,標高は800~1300mの部分が広いが,中生代末の面は残丘山地として散在し,北部のニーカ高地(最高2606m),中部のビプヤ高地,南部のゾンバ山地,ムランジェ山地(最高3000m)などに分布する。
南緯9~17°と熱帯圏に含まれ,11~4月の雨季(年降水量の80%以上が集中)と5~10月の乾季がきわだった対照を示す。降水量は年による変動が少なくないが,水に関してはマラウィ湖の存在で内陸国ながら比較的恵まれている。年平均量は標高の影響もあり,北半部では湖岸の1500~2000mmから,内陸に入るにつれて900mm以下へと減少し,南半部では高原部で900~1300mm,山地で2000mm以上,低地で800~900mmをそれぞれ示す。最暖月は1月,最涼月は4月または5月で,気温の年較差は7~8℃程度であり,年平均気温は標高に応じ,低地で24~26℃,高原部で19~22℃,山地で13~17℃となっている。
執筆者:戸谷 洋
人口分布は不均等で,土壌が肥沃で高原地帯をなす南部に集中している。住民はバントゥー系で,おもに六つの部族に分かれる。そのうち,マラウィ湖岸のチェワ族Chewaとその近縁のニャンジャNyanjaが最も多く,次いでロンウェLomweである。ほかにトンガ族,ヤオ族,トゥンブカ族,ヌゴンデ族などが居住している。またインド人が主であるがアジア人,そしてイギリス人やアフリカーナー(南アフリカ共和国の白人)が少数居住している。バンダHastings Kamuzu Banda(1905-97)政権は,農村部の商業を握っていたアジア系住民に対し,四つの都市に居住を制限していた。チェワ族やニャンジャ族などは16世紀までにマラビMaravi王国を形成したが,その後東アフリカのアラブによる奴隷貿易に悩まされ,19世紀末にはイギリスの保護下に入った。イギリスはこの地域を南北ローデシアの鉱山労働者の供給源とし,また農業地域に規定した。現在でもマラウィの95%の地域は農村で,トウモロコシ,キャッサバ(マニオク),モロコシやイネなどの主作物を焼畑農業で栽培する。またタバコ,ワタ,ラッカセイなどの商品作物の生産も盛んで,牛,ヤギ,羊,豚などの家畜も飼育する。小国のわりに人口が過剰で,そのため南アフリカ共和国やザンビアなどの鉱山へ出稼ぎに行く労働者は30万にものぼる。
早くからキリスト教が普及し,カトリックやプロテスタント各派が勢力をのばしている。独立運動の時期には,ウォッチ・タワー(ものみの塔)運動など独立教会による千年王国運動が起こっている。またイスラム教徒も多く,北部を中心に約50万以上を数える。村落部では,バントゥー系部族に固有の伝統的な祖先崇拝も強く残っている。英語のほかに,国語に定められたチェワ(チチェワ)語が公用語になっている。新聞も英語紙のほかにチェワ語新聞が発行されている。
執筆者:赤阪 賢
15~16世紀にマラウィ湖周辺にマラビ(またはマラウィ)王国が興り,17世紀に最盛期を迎えたが,やがて内部に分裂が生じ,住民の一部は東西に離散した。1700年以降,この地域はアラブの勢力圏に入って彼らの交易(主として奴隷の取引)の場となり,ヤオ族がその仲買人としてこの地に進出した。他方,ヌゴニ族(南部アフリカのズールー族の一派)の南からの進出もこのころ行われており,マラビ王国はこれら外来部族と戦うことを余儀なくされた。続いてポルトガル人が内陸深く足を踏み込み,アフリカ人諸王国に朝貢を迫った。さらに探検家リビングストンのマラウィ湖到達(1859)以来,イギリス人宣教師や貿易業者がここに根拠地を置くことになるが,彼らが実際現地で敵対したのはマラウィ湖北岸を拠点として奴隷狩りをしていたアラブであった。当初ポルトガルやドイツの勢力拡大の阻止に腐心していたイギリス本国政府も,ジョンストンを派遣して対アラブ戦争を有利に終らせ,同時に奴隷貿易の撲滅を口実として各地のアフリカ人首長領を〈平定〉し,イギリスの支配権を認めさせた。こうして1891年にイギリスの保護領ニヤサランドが成立した。保護領は93年にイギリス領中央アフリカと改称され,1907年には再びニヤサランドと改められた。
20世紀に入ってから主として南部のシーレ高地を中心に一般ヨーロッパ人の入植が行われたが,その規模は隣のイギリス領ローデシア(現,ジンバブウェとザンビア)とは比較にならないほど小さく,したがって入植者による土地占拠は国土のわずかな部分に限られた。これは国内に鉱産物などの資源が必ずしも豊かでなかったことにもよるが,セシル・ローズのイギリス南アフリカ会社の支配権がこの地域にまでなかなか及ばなかったためでもある。その後南ローデシア(現,ジンバブウェ)の白人政府が北ローデシア(現,ザンビア)との合体を計画したとき,イギリス政府はそれにニヤサランドを加えて53年にローデシア・ニヤサランド連邦(通称イギリス領中央アフリカ連邦)を設立した。連邦時代のニヤサランドは,茶のプランテーションなど多少の外貨獲得産業をもっていたが,大部分は南北ローデシアや南アフリカ共和国への出稼労働者からの本国送金によってかろうじて生活を維持していた。したがって連邦経済の目覚ましい発展にもかかわらず,その少数白人支配体制にいち早く異議を唱えたのはニヤサランドのアフリカ人であり,59年には暴動となってあらわれた。
もともとこの国のアフリカ人民族主義運動は,J.ブースのもたらしたウォッチ・タワー運動の影響を受けた抵抗運動として始まった。1915年には第1次大戦中のアフリカ人徴兵に反対したチレンブエの反乱が起きている。44年に最初の民族主義政党〈ニヤサランド・アフリカ人会議(NAC)〉が結成され,58年にはガーナで医師として活動していたバンダが帰国してNAC議長に就任した。ローデシア・ニヤサランド連邦からの離脱と独立を唱えるNACは59年に解散させられ,バンダらは投獄されたが,残ったメンバーによってすぐにマラウィ会議党(MCP)が結成され,バンダも翌年釈放された。バンダは63年に自治政府の首相に就任し,同年12月ニヤサランドの連邦離脱をイギリスに承諾させた。そして64年7月6日ニヤサランドはイギリス連邦内での独立を達成し,66年に共和国となった。独立後のバンダ政権は自分の政策に反対する閣僚を解任し,H.チペンベレなど政敵のクーデタを鎮圧してマラウィ会議党の一党独裁的体制を固めた。
バンダは1970年の憲法改正で終身大統領になるなどさらに権力の集中を図ったが,反対勢力との政治的緊張はなくなったわけではなかった。たしかに80年代には身内の側近たちに支えられて政権は一応安定したかに見えたが,80年代末になると冷戦終結に伴う国際社会の変質の中で,バンダ政権下の人権抑圧と生活苦に対する国民の不満が顕在化し,モザンビーク難民の大量流入とザンビアにおける政変の影響もあって,国内に政治変革の動きが一挙に高まった。実際92年各地にストや学生デモ・暴動が起こり,これに共鳴した国際援助機関も対マラウィ援助(人道的援助を除く)の凍結に踏み切ったので,バンダ大統領は政権の行方を国民投票にかけることを余儀なくされた。その結果は複数政党制民主主義を是とする意見が多数を占め,94年選挙では統一民主戦線(UDP)がMCPを抑えて勝利し,大統領もムルジBakili Muluziに代わった。ムルジ新政権は,民主同盟(AFORD)との連立の形で成立し,人権尊重と民主化を旗印にバンダ体制からの脱却を図ったが,96年には連立を解消するなどその政権基盤は必ずしも安泰ではなく,野党の弱体と国際的圧力に助けられて存続している感が強い。
バンダ時代は1966年憲法に基づいて大統領は行政府の長を兼ね,政党はMCPの一党制,国会は一院制でMCP議員とバンダが任命する少数利益代表議員から成っていた。司法はイギリスの近代裁判制度を模して運営され,伝統的首長の権利は土地利用の割当てだけに限定された。内政は政敵やクーデタ首謀者に対して厳しい処刑をもって臨み,北部のトゥンブカ族には差別政策を行うなど,警察国家そのものだった。外交面では南アフリカやイスラエルと友好関係を結び,これによって多額の借款や投資が得られたが,アフリカ諸国からは〈黒人アフリカの除け者(パリア)〉と呼ばれた。
これに対してムルジ時代になると,95年憲法に基づいて大統領の絶対権は制限され,国会は複数政党制による選出議員から構成され,内政は地域利害の調整にはてまどっているものの,司法権の独立を通じて反対勢力への人権抑圧を防ごうと努めた。外交面では,南アフリカでアパルトヘイトが廃絶され,またムルジ自身イスラム教徒で,アラブ諸国との関係を修復していることもあり,大部分のアフリカ諸国との関係は大いに改善された。西側先進諸国とは二国間ベースの援助を通じて良好な結び付きを保っている。
1996年の世銀レポートによるとマラウィの1人当り国民所得は170ドルで,世界で7番目に貧しい国であり,住民の平均寿命(44歳)は世界最貧国のモザンビーク(46歳)よりも短いという。国土の4分の1が農地で,人口の88%が農村地帯に住むこの国の経済の中心は農業で,それはGDPの3分の1以上,輸出所得の90%以上を生み出し,フォーマル雇用の半分近くを吸収している。農業生産の70%はトウモロコシ,キャッサバ,米などの自給食料作物だが,輸出用農産物としては葉タバコ,砂糖,茶などがある。なおマラウィ湖を抱えるこの国では漁業もかなり発達しており,住民の食料として魚は肉より重要度が高い。製造業としては葉タバコ,茶,綿花などの1次加工が中心だが,近年ヌカラ水力発電所の完成に伴って繊維,皮革,紙パルプなどの消費財やセメント,農機具,自動車組立てなど資本財の生産も行われるようになった。貿易については,輸出は農産物加工品,輸入は化学製品,車両,建築資材などが中心で,主要相手国は輸出入とも南アフリカ,ジンバブウェ,イギリスである。
貧困にあえぐマラウィ経済にとって長年の懸案は財政赤字の削減であった。特に1994/95年には,バンダ政権末期の抑制なき歳出と相次ぐ旱魃のため,その額はGDPの15.1%にまで達した。政治的民主化を断行したばかりのムルジ政権も早々に経済耐乏政策を採らざるをえなくなり,現金支出制度(各省庁の予算執行を合理化するもの)を採用する一方,世銀,IMFの勧告する構造調整政策を導入して,農産物市場の自由化,公務員の人員整理,不採算国営企業の民営化などさまざまな施策を打ち出した。しかし構造調整の目標の一つたるインフレ抑制と実質成長率の伸長は実現が困難であった。構造調整政策は本来,対外均衡を優先した政策なので,国内の社会・生活面に大きな負担をかけやすく,特に市場経済システムが未発達なマラウィの現実においては国民生活の悪化を経済的弱者にしわ寄せする形で推し進めているように見える。
執筆者:星 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アフリカ南東部にある内陸国。正称はマラウイ共和国Republic of Malawi。北半部は東側をタンザニア、西側をザンビア、南半部は東西ともにモザンビークに接する。旧称イギリス領ニアサランド。イギリス連邦加盟国。面積11万7726平方キロメートル(2020)、人口1275万8000(2006推計)、1320万(2008)、1756万3749(2018センサス)。首都はリロングウェ。
[林 晃史・高根 務]
東側の大半(総面積の約5分の1)をアフリカ第3位の面積をもつマラウイ湖(旧称ニアサ湖。イギリス領時代の名称ニアサランドはニアサ湖に由来)が占める。マラウイ湖の南側にはさらに二つの小さな湖(マロンベ湖とチルワ湖)がある。マラウイ湖の南端からシレ川が流出しモザンビーク領でザンベジ川に合流する。国土はアフリカ大地溝帯(ニアサ・リフト・バレー)の中にあり、平野部は平均標高500メートルであるが、北部のニカ高地と南部のシレ高地は標高1000~2500メートルに達する。気候は、5月から10月の乾期と11月から4月の雨期に分かれ、気温は平野部で21~29℃、高地で14~21℃程度である。ニカ高地では霜の降りることもある。年降水量は高地で2000ミリメートル、平野部で600~900ミリメートルである。植生も地形の高低によって異なり、高地は森林と草地、平野部はサバナであるが湖岸は叢林(そうりん)帯となっている。
[林 晃史・高根 務]
4~11世紀にかけてバントゥー系住民の大移動とともに、その一部が北西方からこの地に定着した。16世紀後半、ピリ人がこの地にマラビMaravi王国を建国し、インド洋海岸部と内陸を結ぶ長距離交易で発展した。しかし17世紀のポルトガル人の来航、アラブ人奴隷商人の侵入によって衰退に向かい、19世紀初めにはアラブ商人との交易を行うヤオ人がマラビ王国にとってかわった。
1859年、スコットランド人の宣教師で探検家のリビングストンが初めてマラウイ湖に達し、その後ヨーロッパ人によるキリスト教布教活動が盛んになるとともに、布教活動を助けるためイギリスの交易会社アフリカ湖沼会社が設立された。同会社はたびたびアフリカ人、アラブ人の抵抗にあい、さらにポルトガルがシレ高地の領有を主張した。1890年イギリスは探検家H・ジョンストンを派遣し、イギリス南アフリカ会社(1889年、南部アフリカ地域での貿易を目的に設立)を通じてニアサランドの開発を援助し、1991年にはニアサランドを正式にイギリスの保護領とした。その後、シレ高地では入植者による茶や綿花栽培が盛んになり、1908年には鉄道が敷設された。
第一次世界大戦中の1915年、植民地支配に反対するチレンブエの反乱が起こったが鎮圧された。第二次世界大戦後の1953年、南・北ローデシアとニアサランドを統合する連邦(ローデシア・ニアサランド連邦)が結成されるとともにアフリカ人の連邦反対運動が高まり、1958年、ガーナから帰国したH・K・バンダがその中心となって闘った。翌1959年バンダらは逮捕されたが、同年マラウイ会議党(MCP)が結成され、以後連邦反対闘争の柱になった。1960年バンダが釈放されMCP議長に選ばれた。同年ロンドンで制憲会議が開かれ、同会議に基づき、1961年に総選挙が実施されてMCPが圧勝した。1962年12月宗主国イギリスはニアサランドの連邦脱退を認め、1963年12月連邦は解体し、翌1964年7月6日ニアサランドは独立してマラウイとなり、バンダが初代首相となった。2年後の1966年マラウイは共和国に移行、それに伴いバンダは大統領となった。
[林 晃史・高根 務]
大統領は行政府の最高指導者である。独立以来、1993年6月までマラウイ会議党(MCP)の一党体制が続き、バンダは1970年終身大統領となった。しかし、バンダの独裁化、とくに人権侵害に対する教会や国際社会からの批判が起こり、1993年6月の国民投票により複数政党制に移行した。1994年5月、大統領選挙と議会選挙が実施され、統一民主戦線(UDF)のB・ムルジElson Bakili Muluzi(1943― )が得票率47%を得て大統領に選出された。同時に行われた議会選挙でもUDFが最大議席数を獲得したが、議会の過半数を占めるには至らなかった。その後1999年6月の大統領選挙でもムルジが再選された。再選後のムルジは3選を禁止する憲法の改定を進めようとしたが、国内外の反対にあって断念し、後継にB・ムタリカBingu wa Mutharika(1934― )を指名した。2004年5月の大統領選挙ではUDFのムタリカが36%の得票を得て大統領に選出されたが、議会選挙ではMCPが第一党となった。2005年にムタリカはUDFを脱退して民主進歩党(DPP)を結成した。2009年5月に行われた大統領選挙ではムタリカが再選を果たし、議会選挙でもDPPが最大議席数を獲得した。
マラウイは1964年12月国連に加盟し、翌1965年2月にアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合に改組)のメンバーになった。さらにイギリス連邦の一員であり、また非同盟諸国会議のメンバーであるが、周辺の諸国が南アフリカ共和国の人種差別政策および白人支配に対して強力に反対したのに対し、親南アフリカ共和国政策をとり、ナカラ鉄道敷設やリロングウェへの遷都に対し同国から援助を得た。しかし1975年モザンビークとアンゴラ、1980年ジンバブエが独立し、南部アフリカ開発調整会議が結成されるとそれに加盟した。また1975年のEC(ヨーロッパ共同体)とのロメ協定および2000年にはロメ協定にかわるコトヌー協定にも調印した。東南部アフリカ共同市場(COMESA)の加盟国でもある。軍隊は陸軍5300人、うち湖上海兵隊220人、空軍200人(2010)。
[林 晃史・高根 務]
マラウイ経済の中心は農業であり、国内総生産(GDP)の30~40%、輸出の約90%以上、就業人口の約85%以上を占める。農業は、アフリカ人の家族経営による小農部門と、白人およびアフリカ人経営の大規模経営部門に分かれる。小農部門では主食であるトウモロコシや換金作物の葉タバコが、大規模経営部門では輸出用農産物の葉タバコ、サトウキビ、綿花、茶などが栽培されている。マラウイ湖では淡水漁業も行われている。
鉱業はボーキサイト、アスベスト、黒鉛、雲母(うんも)などの埋蔵量が確認されているが、採掘はほとんど進んでいない。
製造工業は、国内総生産の約11%、就業人口の8%強を占める。製茶工場、繰綿工場、たばこ工場、製材所などの農林産物加工業がほとんどであるが、そのほか外資系企業によるせっけん、油脂、製靴、マッチ、醸造、タイヤ再生、セメントなどの工場がある。エネルギーの大部分は火力発電に依存してきたが、シレ川のテザニ水力発電所の完成により水力発電の比重が増した。
主要輸出品は葉タバコ、茶、砂糖、綿花などの農産物以外にはなく、輸入は石油製品、肥料、石炭などである。おもな貿易相手国はイギリスなどEU諸国および南アフリカ共和国などの南部アフリカ諸国である。国内はマラウイ湖などの観光資源に恵まれているが、観光産業の発展は不十分でこの部門のGDPに占める割合は2%にとどまっている。
輸送部門では、鉄道がサリマから南下しモザンビーク国境のヌサンジェに至る本線(モザンビークのベイラ港に連絡)のほか、バラカから支線がモザンビーク国境に達している(モザンビークのナカラ港に連絡)。また、1979年にはサリマ―リロングウェ間の鉄道が完成、さらにザンビア国境のムチンジまでの鉄道も完成した(タンザン鉄道に直結)。道路総延長は1万5451キロメートルに達する。以前は南部のブランタイアが国際空港であったが、1983年リロングウェに新国際空港が開かれた。マラウイ湖上の船舶輸送も重要な輸送手段である。通貨はマラウイ・クワチャ。
[林 晃史・高根 務]
住民はバントゥー系のチュワ人、トンガ人、ヤオ人、トゥンブカ人などで、ほかにインド人12万人、ヨーロッパ人7000人がいる。公用語は英語とチェワ語。1人当り国民総所得(GNI)は290ドル(2009)ときわめて低く、国連が定めた分類の後発開発途上国(LDC)に属する。アフリカ人の大半は農村に住み小規模農業を営んでいる。工業が未発達のため雇用機会が少なく、多くのマラウイ人が南アフリカ共和国、ジンバブエ、ザンビアへ出稼ぎに出ている。とくに南アフリカ共和国の金鉱山は最大の出稼ぎ先であったが、1974年飛行機事故でマラウイ人出稼ぎ労働者が死亡して一時出稼ぎを中止、1977年以降再開した。
教育制度は、独立後もイギリス植民地時代の制度がそのまま残り、初等教育は8年制、中等教育は4年制である。
宗教は、早くから布教活動が行われたためキリスト教徒が多いが、その宗派はさまざまで、カトリック260万人、プロテスタント207万人のほか多くの宗派がある。またイスラム教徒も156万人いるといわれている。
[林 晃史・高根 務]
独立直後の1964年(昭和39)7月日本がマラウイを正式に承認したことに始まり、現在はおもに貿易、経済・技術援助を通して密接な関係がある。貿易関係では、マラウイが一次産品輸出国であるため、マラウイの輸入超過が続いていたが、近年は資源輸出が多くなり輸出超過となっている(輸入13.4億円、輸出35.8億円。2009)。マラウイに対する日本の協力は1971年(昭和46)の青年海外協力隊派遣以降継続して行われており、2009年(平成21)時点で円借款累計332.5億円、無償資金協力は累計559.1億円、技術協力は累計331億円に上っている。
[林 晃史・高根 務]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アフリカ東南部高地,マラウィ湖西岸にある共和国。首都リロングウェ。チェワ人,アンゴニ人,ヤオ人などが住む農業国。1891年イギリス保護領ニヤサランドとなり,1953年ローデシア・ニヤサランド連邦の一部を構成したが,64年イギリス連邦内自治国マラウィとして独立,66年共和国に。94年バンダ大統領が率いる長期政権が崩壊。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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