マンロー
Munro, Alice
[生]1931.7.10. ウィンガム
[没]2024.5.13. ポートホープ
アリス・マンロー。カナダの作家。旧姓 Laidlaw。オンタリオ州の貧しい農場に生まれ,母は教師だった。ウェスタンオンタリオ大学で 2年間英語とジャーナリズムを学ぶ。1951年に最初の夫ジェームズ・マンローと結婚,ビクトリアで書店を開き,3人の娘を育てた。その後離婚,のちに再婚。10代で小説を書き始めた。結婚後,家事や育児のかたわら小さな文学雑誌などに作品を発表し,1968年に初の短編集 "Dance of the Happy Shades"を出版,カナダで最も権威ある総督文学賞を受賞した。その後 "Who Do You Think You Are?"(1978)で 2度目の,"The Progress of Love"(1986)で 3度目の総督文学賞を受賞。"The Love of a Good Woman"(1998)はカナダの著名な文学賞であるジラー賞と全米批評家協会賞を受賞した。2001年に短編集『イラクサ』Hateship, Friendship, Courtship, Loveship, Marriageを出版,その中の 1編でアルツハイマー病を扱った「クマが山を越えてきた」The Bear Came over the Mountainは 2006年,サラ・ポーリー監督により『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』Away from Herとして映画化され,高い評価を得た。2004年 "Runaway"で 2度目のジラー賞受賞。そのほかの代表作に『林檎の木の下で』The View from Castle Rock(2006),『小説のように』Too Much Happiness(2009)などがある。2009年,女性として初めて国際ブッカー賞を受賞。最後の作品集と宣言した『ディア・ライフ』Dear Life(2012)には四つの半自伝的物語が含まれている。フラナリー・オコナーやキャサリン・アン・ポーターなど 20世紀アメリカ南部の女性作家から影響を受け,鋭い洞察と共感によって人間の機微をとらえ,精緻で色彩感豊かな文体で表現する。2013年,カナダ人初のノーベル文学賞を授与された。
マンロー
Munro, Thomas
[生]1897.2.15. ネブラスカ,オマハ
[没]1974.4.14. サラソタ
アメリカの美学者。クリーブランド美術館勤務,美学誌"Journal of Aesthetics and Art Criticism"の編集者。実験美学の流れに立ち,芸術の諸相を,形態学と心理学との両面から考察している。著書"Toward Science in Aesthetics" (1956) ほか多数。
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マンロー(Thomas Munro、美学者)
まんろー
Thomas Munro
(1897―1974)
アメリカの美学者。コロンビア大学で博士号取得(1920)後、クリーブランド美術館教育学芸員、ケイス・ウェスタン・リザーブ大学芸術学教授を兼任(1931~1967)。アメリカ美学会初代会長(1942~1944)を務めた。美的価値を考察の対象から外すことにより芸術の客観的事実を明らかにすることができると考え、嗅覚(きゅうかく)(香水)・味覚(料理)・触覚(布地)などの「低級感覚」の芸術にも注目し、比較美学の立場から諸芸術の素材・制作過程・作品構造の特質を解明した。著書に『諸芸術とその相互関係』The Arts and Their Interrelations(1949)、『芸術の発展』Evolution in the Arts(1963)などがある。
[相沢照明 2015年10月20日]
『The Arts and Their Interrelations (1949, The Liberal Arts Press, New York)』▽『Evolution in the Arts (1963, The Cleveland Museum of Art)』
マンロー(Sir Thomas Munro、軍人、行政官)
まんろー
Sir Thomas Munro
(1761―1827)
イギリス東インド会社の軍人、行政官。マイソール戦争で獲得した南インドの地租行政を担当して、ライーヤトワーリー制度の基礎を確立した。1812年インド統治について下院特別委員会で証言し、インドの軍務に復帰したのち、1820年マドラス管区知事となり、在任中に病死した。家父長主義的統治理念をもって知られ、統治の帰結として進歩したインドの独立を予知していた。
[高畠 稔]
マンロー(Neil Gordon Munro)
まんろー
Neil Gordon Munro
(1863―1942)
イギリス人医師、考古学者、人類学者。スコットランドのダンディ市に生まれる。エジンバラ大学医学部を卒業後、1891年(明治24。1892年ともいう)に来日し、横浜ゼネラル・ホスピタル院長、軽井沢サナトリウム所長を歴任。1905年(明治38)日本に帰化した。32年(昭和7)以降北海道沙流(さる)郡平取(びらとり)村二風谷(にぶたに)でアイヌの診療に従事し、その間、日本の考古学やアイヌ研究に業績を残した。著書には、日本の考古学の概説を試みた『先史時代の日本』Prehistoric Japan(1908)、アイヌの宗教研究書『アイヌ―信仰と儀礼』AINU ― Creed and Cult(1962)などがある。死後、その旧居は、北海道大学附属北方文化研究所二風谷分室(マンロー記念館)として保存されている。
[竹ヶ原幸朗]
マンロー(David Munrow)
まんろー
David Munrow
(1942―1976)
イギリスの管楽器奏者、音楽学者。バーミンガム生まれ。早くから多方面にわたる音楽の勉強を進め、リコーダーを中心とする各種の古い管楽器の演奏と、中世・ルネサンス音楽の研究を中心に活動。1967年にロンドン古楽コンソートを設立して、古い音楽の演奏をそれまでの学究的堅苦しさから解放、生き生きとした表情と音楽性によって表現した。BBC放送の音楽解説者、ロンドン王立音楽院のリコーダーの教授、王立シェークスピア劇場の音楽担当など多方面に活躍し、同世代および次世代の、古い音楽の演奏家や演奏スタイルに強い影響を与えた。著書に『中世・ルネサンスの楽器』(1976)がある。
[美山良夫]
『柿木吾郎訳『中世・ルネサンスの楽器』(1979・音楽之友社)』
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マンロー
Thomas Munro
生没年:1761-1827
イギリスの軍人,政治家。インドのマドラス管区総督。1780年,東インド会社のマドラス軍に入隊。92年から1800年までアレクサンダー・リードの下で南インドのバーラマハール地方(現在のカルナータカ州南部とタミル・ナードゥ州の境)の統治に参加。この間南インドの地方事情,とくに土地所有制度,農業形態,村落機構などをつぶさに調査し,この地に導入すべき徴税制度を試行した。1820年にマドラス管区総督に就任し,その後南インドの代表的な土地・徴税制度として有名になったライーヤトワーリー制度を施行した。
執筆者:重松 伸司
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マンロー
Thomas Munro
1761~1827
イギリスの軍人,植民地行政官。1780年,マドラスの東インド会社軍に加わり,1820年,マドラス知事(在任1820~27)に任じられた。マドラスの事情を知り尽くした有能な行政官として知られた。土地制度については,上層農民から直接土地税を徴集するライーヤトワーリー制の導入を推進した。地方行政については,税を徴集する収税官と治安維持を任務とする治安官を同一の人物が兼任する制度をつくりあげた。これはベンガルの制度とはまったく異なるものであり,マンロー・システムと呼ばれ,19世紀に入ってから植民地化された地域に拡大していった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
マンロー
英国の古楽演奏家,指揮者,音楽学者。古楽再興のパイオニアの一人。バーミンガム出身。18歳の時ペルーで1年間暮らし,民俗楽器や古楽研究のきっかけを得る。ケンブリッジ大学とバーミンガム大学に学び,1967年以降レスター大学ほかで教鞭(きょうべん)をとる一方,リコーダー奏者として活動。1967年に〈ロンドン古楽コンソート(アーリー・ミュージック・コンソート)〉を結成し,中世,ルネサンス,初期バロックの音楽に清新な演奏を繰り広げたが,33歳で自殺。著書に《中世・ルネサンスの楽器》(1976年)がある。
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マンロー Munro, Neil Gordon
1863-1942 イギリスの医師,人類学者。
1863年6月16日生まれ。明治25年(1892)来日。翌年横浜ゼネラル-ホスピタル院長となる。38年日本に帰化。各地の遺跡を調査。昭和7年北海道平取(びらとり)村の二風谷(にぶたに)に移住し,住民の診療とアイヌ民族の研究をおこなった。昭和17年4月11日死去。80歳。スコットランド出身。エジンバラ大卒。著作に「Prehistoric Japan」。
マンロー Munroe, Henry Smith
1850-1933 アメリカの地質学者。
1850年3月25日生まれ。明治5年(1872)開拓使の招きで来日。ライマンの助手として北海道の地質を調査。8年東京開成学校(東大の前身)にうつる。9年帰国。のち母校コロンビア大の教授。1933年5月4日死去。83歳。ニューヨーク出身。
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マンロー
生年月日:1819年10月19日
イギリスの古典学者
1885年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報