ミラボー(読み)みらぼー(英語表記)comte de Mirabeau, Honoré Gabriel Riqueti

デジタル大辞泉 「ミラボー」の意味・読み・例文・類語

ミラボー(Honoré Gabriel Riqueti Mirabeau)

[1749~1791]フランス政治家。1789年、三部会第三身分代表となり、国民議会の成立に尽力。立憲君主制を主張、フランス革命初期の指導者となったが、革命の進展とともに市民の支持を失い、死後、宮廷との秘密取引も露見した。著「専制主義論」など。

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精選版 日本国語大辞典 「ミラボー」の意味・読み・例文・類語

ミラボー

  1. [ 一 ] ( Honoré Gabriel Riqueti, Comte de Mirabeau オノレ=ガブリエル=リクティ、コント=ド━ ) フランスの政治家。フランス革命の初期に三部会の第三身分の代表として活躍、国民議会成立に重要な役割を果たしたが、のち宮廷側に買収され、王と議会の妥協を計った。雄弁で知られる。(一七四九‐九一
  2. [ 二 ] ( Victor Riqueti, Marquis de Mirabeau ビクトール=リクティ、マルキ=ド━ ) フランスの経済学者。[ 一 ]の父。ケネーの門弟で、重農主義経済学の発展に寄与。主著「農業哲学」など。(一七一五‐八九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミラボー」の意味・わかりやすい解説

ミラボー(comte de Mirabeau, Honoré Gabriel Riqueti)
みらぼー
comte de Mirabeau, Honoré Gabriel Riqueti
(1749―1791)

フランス革命期の政治家。重農主義の経済学者ミラボー侯Marquis de Mirabeauを父として3月9日に生まれる。1767年18歳で軍籍に入ったが、3年後には除隊し、乱行浪費波瀾(はらん)の青年期を送り、1772年貴族の出のエミリと結婚した。父は幾たびも封印状によってミラボーを拘囚。ジュラ地方の要塞(ようさい)監獄にいたとき、司令官夫人ソフィとオランダに逃走し、1777年から3年間バンセンヌに投獄され、そこで『ソフィへの書簡』を書き、知的形成を行った。エクス高等法院廷におけるエミリの離婚訴訟に対する弁論の大演説は国外にも知られた。1786年からベルリンを訪問して大著『プロイセン王国論』(1788)を発表、文筆活動に携わった。1789年エクス、マルセイユから三部会の第三身分議員に選出され、政治生活に入り、魁偉(かいい)な容貌(ようぼう)とその雄弁によって、幾たびか議会を制圧し、パリ市民の人気を博した。愛国税、教会財産国有化法案を支持したが、君主主義者として1790年の憲法論争では国王の拒否権、宣戦講和権を主張。君主制を守ろうとし、友人を介してルイ16世に革命の凍結をねらう覚書を送り、年金を受けた。さらに同年7月マリ・アントアネットとの秘密会見が明らかとなり、議会への裏切りが糾弾された。しかしその人気は回復し、1791年3月には議長となったが、同年4月2日、腎石仙痛(じんせきせんつう)で急死した。遺体はパンテオンに葬られたが、1792年の民衆蜂起(ほうき)、いわゆる「八月十日事件」のとき、宮廷に送った彼の書類が発見されてパンテオンから除かれた。

井上幸治

『井上幸治著『ミラボーとフランス革命』(1949・木水社)』


ミラボー(marquis de Mirabeau, Victor Riquetti)
みらぼー
marquis de Mirabeau, Victor Riquetti
(1715―1789)

フランスの経済学者。革命期の政治家ミラボー伯の父。初め軍職にあったが、退役後経済学の研究に専心するようになり、カンティヨンの『商業一般の性質に関する研究』Essai sur la nature du commerce en général(1755)の手稿を入手して、これを簡略にしたもの(あるいは盗作)を自己の著作として発表しようとしたが、手稿の返却を求められたため、予定を変更して『人間の友あるいは人口論』L'Ami des hommes, ou Traité de la population(1756)を発表した(実際の出版は1757年)。彼はこの書で、フランスの富の増大のためには、コルベール主義のもとで減少した農村人口を回復し増大することが先決であるとした。「人口」論という書名をもつ最初の著作とされる。ケネーの『経済表』Tableau économique(1758)の前年の著作であり、好評を博し、以後次々と続編を追加して大著となる。『経済表』の出現後はケネーの理論に共鳴し、人口主義者の立場は放棄せずに農業資本主義を目ざす重農主義のよき普及者となり、『人間の友』の続編(1760)やケネーとの共著とされる『農業哲学』Philosophie rurale(1763)で難解な『経済表』の解説にあたった。『租税論』Théorie de l'impôt(1760)では重農主義の土地単一税論を展開した。

[津田内匠]

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改訂新版 世界大百科事典 「ミラボー」の意味・わかりやすい解説

ミラボー
Honoré Gabriel Riqueti,comte de Mirabeau
生没年:1749-91

フランスの政治家。パリ南方オルレアン地方のロアレで生まれる。父は著名な重農主義の経済学者。はじめは軍人となるが,軍隊生活に飽きて1770年に除隊し,その後は放蕩生活におぼれて破産,愛人とオランダに逃亡して著述業に従事した。77年に捕らえられてフランスに送還され,42ヵ月間バンセンヌ牢獄に監禁された。釈放後,再び著述活動を再開する一方,イギリスなどに旅行し,86年には財務長官カロンヌにより秘密交渉のためプロシア政府に派遣された。その間に自由主義貴族として人気を博し,89年エクサン・プロバンスの第三身分より全国三部会議員に選出され,〈獅子の咆哮(ほうこう)〉と呼ばれたその雄弁により,憲法制定国民議会で大きな影響力を行使した。当初,国王の圧力から議会を守ったり,また議会内では,教会財産の国有化などを提唱したが,憲法問題では国王の絶対的拒否権を要求し,革命の急進化に反対する立憲君主主義者の立場をとった。さらに90年末から宮廷と内通し,国王から手当の支給を受け,自分の借金返済に当てたりした。放蕩と過労のため急逝し,遺体はいったんは革命の功労者としてパンテオンに葬られたが,国王との内通発覚後,国民公会により除去された。
執筆者:


ミラボー
Victor Riqueti, marquis de Mirabeau
生没年:1715-89

フランスの重農主義派の経済学者,啓蒙思想家。革命政治家ミラボーの父にあたる。1757年《人間の友,あるいは人口論》を著し,この書の成功のために彼は〈人間の友〉と呼ばれた。その後同じ重農主義者ケネーの崇拝者となり,その思想の普及に努めた。60年《租税理論》を公刊し,統制経済体制と徴税請負人を厳しく批判したため,一時バンセンヌ牢に投獄された。また《穀物流通に関する書簡》(1768)では,穀物流通の全面的自由の必要性とあらゆる独占の廃止を説いた。家庭的には妻子との不和に悩まされ,息子を一時幽閉したり,晩年には,妻と約20年間にわたる裁判を争わなければならなかった。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミラボー」の意味・わかりやすい解説

ミラボー
Mirabeau, Honoré Gabriel Riqueti, Comte de

[生]1749.3.9. セーヌマルヌ,ピニヨン
[没]1791.4.2. パリ
フランス革命期における立憲王政派の政治家。憲法制定国民議会での最もすぐれた雄弁家であり政治的英才として知られた。重農主義者ミラボー侯ビクトル・リケティの長男。青年時代放蕩を重ね監禁,放浪の生活をおくったが,この間啓蒙思想の影響を受け反専制のパンフレットなどを書き,J.ブリッソーの「黒人友の会」にも参加。プロバンスのエクスから第三身分代表として全国三部会に選出され,全国三部会および国民議会に主導的役割を果し,「人権および市民権の宣言」の起草に参画し,1791年1月国民議会議長となった。一方,立憲王政を目指し,野心家オルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフとも結びつき,王室とひそかに取引するなど行動に不信がもたれた。青年時代の放蕩,再三の獄中生活,議会の激務などがたたって病気がちとなり,91年3月演説中に過労で倒れた。人民の深い哀悼のうちに,盛大な儀式によりパンテオンに葬られたが,92年8月の民衆蜂起の際,宮廷とミラボーの緊密な関係を実証する書類が発見されたため,94年9月遺体は国民公会の命令でパンテオンから除去された。

ミラボー
Mirabeau, Victor Riqueti, Marquis de

[生]1715.10.5. ボクリューズ,ペルチュイ
[没]1789.7.13. バルドアーズ,アルジャントゥイユ
フランスの重農主義者。ミラボー伯オノレ・ガブリエル・リケティの父。初め軍隊に入り,その後パリ近郊のビニョン所領内で研究に没頭。 1756年『人間の友』L'Ami des hommes,ou traité de la populationを発表し,人口増加と富の増進の関係を分析して,同じく重農主義者の F.ケネーとの親交を得た。 60年徴税請負制を批判し課税体系の改革を主張した『租税論』 Théorie de l'impôtを著わし,告発されて投獄されたが,ケネーやポンパドゥール侯夫人の努力によって釈放された。次いでケネーの経済理論を忠実に展開した『農事哲学』 Philosophie rurale,ou économie générale et politique de l'agriculture (1763) を公刊してこの学派の普及に貢献した。

ミラボー

「ドラアベンヘッダ」のページをご覧ください。

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百科事典マイペディア 「ミラボー」の意味・わかりやすい解説

ミラボー

フランス革命の指導者。小貴族の出。父は重農主義経済学者。啓蒙主義の影響を受け,諸外国に滞在し,文筆活動による収入で放蕩(ほうとう)生活を送った。第三身分から三部会に選出され,国民議会の成立に努力して議長となり,山岳派の指導者ともなったが,立憲君主制の立場をとって党主流と決裂。死後,宮廷と通謀していたことが判明し,反逆者と目された。
→関連項目カバニス

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ミラボー」の解説

ミラボー
Honoré-Gabriel Riqueti, comte de Mirabeau

1749~91

フランス革命の指導者。父は重農主義経済学者。放縦な青春を送る。三部会第三身分から選出され,国民議会の成立に重要な役割を果たすが,やがて国王拒否権などの支持に回り,1790年3月には宮廷の秘密資金を受けるようになる。その雄弁は有名。91年4月急死。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ミラボー」の解説

ミラボー
Honoré Gabriel Victor Riqueti, Comte de Mirabeau

1749〜91
フランス革命初期の政治家で,自由主義貴族の代表
立憲君主主義の指導者で,憲法制定議会を組織した中心人物。雄弁をもって知られ,議会では国王の側近に攻撃を集中し,王を利用してブルジョワジーの利益を守ろうとした。しかし,その死後,王室と裏取引きをはかったことが露見し,パンテオンに葬られた遺体は捨てられた。

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367日誕生日大事典 「ミラボー」の解説

ミラボー

生年月日:1715年10月4日
フランスの重農主義者
1789年没

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世界大百科事典(旧版)内のミラボーの言及

【重農主義】より

…18世紀の後半,フランス絶対王政は,特権的独占商人や奢侈品(しやしひん)工業の保護育成を中心とするフランス型重商主義政策(コルベルティスムcolbertisme)や,金融政策を中心とする商業主義(ジョン・ローの体制)によって,経済的にも財政的にも破綻(はたん)に(ひん)し,体制的危機に直面した。その再建策として大農経営の発展を提唱したF.ケネーを創始者とし,その自然法思想や政策的主張や経済学説を祖述し発展させたV.R.ミラボー(ミラボー侯),P.S.デュポン・ド・ヌムール,メルシエ・ド・ラ・リビエール,A.N.ボードー(ボードー師),G.F.ル・トローヌ,A.R.チュルゴなどを代表者とする一団の経済学者に共通する経済思想・政策的主張・理論体系を一括して示す名称。…

※「ミラボー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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