ミロ(Joan Miró)(読み)みろ(英語表記)Joan Miró

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ミロ(Joan Miró)
みろ
Joan Miró
(1893―1983)

スペインの画家で、シュルレアリスムを代表する芸術家。4月20日カタルーニャバルセロナに時計貴金属商の子として生まれる。商人にしたかった両親の希望に反して絵画を好み、一時生地のラ・ロンハ美術学校に籍を置いたのち、1912年からガリ画塾(アカデミー)で学び、18年に同市の前衛的なダルマウ画廊で初の個展を開いた。フォービスムの影響の強いその作品群にすでに、カタルーニャの風土と歴史に深く根ざしたミロ芸術の本質的な傾向が強く表れている。19年パリに出てピカソに会い、キュビスムの影響を受け、21年同市での初の個展を開く。22年にバルセロナ近郊モンロイの別荘を描いた傑作『農園』や、カタルーニャの風土をモチーフとした23年の『耕地』などで、シュルレアリスムに移行した。その傾向は、24年アンドレ・ブルトンを主唱者とするシュルレアリスム運動への参加で決定的となる。同じころの『アルルカン謝肉祭』は、対象の記号化による自由なイメージとオートマティスムによる幻覚的なミロ芸術の出発点となった。オブジェコラージュも試みるが、36年のスペイン内戦勃発(ぼっぱつ)前後から40年ごろまでの作品は暗さを増し、37年にはパリ万国博覧会のスペイン共和国館に、ピカソの『ゲルニカ』とともに『刈り入れ人』(逸失)を発表した。

 第二次世界大戦中はバルセロナに帰って『星座』の連作に取り組み、象形文字化された星や女や鳥などが夢幻的な空間を浮遊する詩情あふれる絵画世界を達成した。第二次大戦後はアメリカに行ってその前衛芸術の展開に寄与するとともに、マリョルカ(マジョルカ)、バルセロナ、パリを行き来しながら、絵画、版画、彫刻、陶器、オブジェと作域を広げ、つねに新しい造形を試みて若い芸術家に刺激を与え続けた。1983年12月25日マリョルカに没。

 ミロは、スローガンを掲げる芸術家でもなければ、制作を通じて観(み)る者に問題を押し付けることもしない。伝統あるカタルーニャの風土や人と動物、12世紀のロマネスク絵画、路傍や海辺に転がる老木や石ころにインスピレーションを得て、それらを現代的な記号に変え、優れた技術によって夢の世界を、ときには幼児のように純粋で、ときには独特の諧謔(かいぎゃく)とユーモアに満ちた夢の世界を、われわれに提示するのみである。バルセロナには、若い芸術家の創造的な実験の場としても開放されたミロ美術館(1976開館)がある。1966年(昭和41)と70年の2回日本を訪れ、70年には大阪万国博覧会のガス館のための陶板による大壁画を制作した。

[神吉敬三]

『J・ミロ、G・ライヤール著、朝吹由紀子訳『ミロとの対話』(1978・美術公論社)』『東野芳明解説『現代世界美術全集18 エルンスト/ミロ』(1971・集英社)』

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