イタリアの政治家、ファシズムの創始者。ロマーニャ地方プレダッピオ村の鍛冶(かじ)職人の息子として生まれる。無政府主義者で反教権的社会主義者であった父親の強い影響の下で青春期を過ごした。師範学校卒業後、1902年から約2年間スイス各地を放浪。亡命者の集まるこの国で社会主義運動の生活体験を積み、弁説やジャーナリストの才能に目覚める一方、のちに彼のうちで発酵することになる種々の思想的酵母(ソレル、ブランキ、ニーチェ、パレート)を知った。帰国後、兵役についた(1905~1906)が、除隊して各地で教師生活をしながら社会主義地方新聞に寄稿する(1908)。その後オーストリア領トレントの労働会議所書記となったが、まもなくロマーニャに帰り、フォルリの社会党連盟書記になった(1910)。ここで『ロッタ・ディ・クラッセ(階級闘争)』紙を創刊、反教権主義と革命的社会主義を宣伝し、リビア戦争が起こると反戦行動を扇動し、5か月間投獄された(1911)。この事件以来、党内で過激主義者として多少知られるようになるが、1912年の党大会では右翼改良主義者の追放演説で脚光を浴び、一躍指導部に選出された。まもなく党機関紙『アバンティ(前進)』の編集長(事実上の党委員長)になると、彼の指導下に執行部と党機関で非妥協的左派が多数となり、同紙は党外の旧サンジカリストを含めた革命的左派の論壇となった。第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)(1914)当時、彼は党是である絶対中立の立場を擁護したが、戦局の展開とともに、戦争を通じて革命を展望するサンジカリストの論理に共鳴し、1914年10月、参戦論を機関紙に発表し、党を追われた。翌11月、イタリア工業家などの融資を受けて日刊新聞『イタリア人民』紙を発刊したが、これは左翼および民主的参戦運動の組織化に貢献しただけでなく、戦後ファシズム運動の機関紙にもなった。1915年8月に応召して前線勤務につき、重傷を負って除隊した。
大戦後、参戦派と反戦派の反目・対立が激化する1919年3月、ムッソリーニは参戦勢力の一部とともにミラノで「戦闘ファッシ」を結成。この運動は1920年末から社会党に敵対する勢力として急速に膨張し、1921年秋にはファシスト党に改組された。彼は党首としてこの党をてこにアナーキーなファシスト運動を統制し、旧支配層との政治的取引に運動を利用しながら、1922年10月ローマ進軍を行い、組閣して権力に到達した。以後20年以上も首相の座を守ることになる。当初連立政権から出発したが、1924年のマッテオッティ暗殺後、反ファシズムの世論の沸騰を前に危機に陥ったムッソリーニは民主主義の装いをかなぐり捨て、ファシズム以外のあらゆる政党と組織を解体し、いわゆる一党独裁体制を樹立した(1925~1926)。階級闘争の凍結と経済の安定化、さらに教会とのラテラン協定調印(1929)により旧支配層との妥協政策を完成し、国民の同意を得ることにも成功した。この体制の頂点にあってすべての権力を掌握したムッソリーニは、公式にドゥーチェ(首領)とよばれた。
1935年10月エチオピア侵略に乗り出したが、これに抗議する国際世論と国際連盟に対抗するためドイツへの接近を余儀なくされた。スペイン内戦への介入(1936)はこの接近をますます促し、ベルリン・ローマ枢軸の形成(1936)、国際連盟脱退(1937)、反ユダヤ主義の導入(1938)を行い、ドイツとの軍事同盟(1939)に達した。第二次世界大戦にドイツに遅れて参戦(1940.6)したが、1940年10月に始まるギリシア侵攻の敗北により、ドイツへの従属は決定的となった。敗色濃厚の1943年7月ムッソリーニは、軍部のクーデターによって一夜のうちに失脚し、グラン・サッソの山中に拘置された。ドイツ軍は彼を救出し、同年9月北イタリアに傀儡(かいらい)国家(イタリア社会共和国)を樹立。1945年4月パルチザンの蜂起(ほうき)により、ナチ・ファシストの支配は一掃され、スイスに逃亡を図った彼は、コモ湖畔でパルチザンに捕らえられ、同月28日処刑された。
[重岡保郎]
『ローラ・フェルミ著、柴田敏夫訳『ムッソリーニ』(1967・紀伊國屋書店)』▽『ポール・ギショネ著、長谷川公昭訳『ムッソリーニとファシズム』(白水社・文庫クセジュ)』▽『マクス・ガロ著、木村裕訳『ムッソリーニの時代』(1987・文芸春秋)』▽『R・ムッソリーニ他著、谷亀利一訳『素顔の独裁者――わが夫ムッソリーニ』(1980・角川書店)』
イタリアの政治家,ファシズム指導者。ロマーニャ地方のフォルリ近くに生まれ,鍛冶職人でアナーキスト系社会主義者の父,小学校教諭の母のもとで育ち,師範学校を出て教員資格を取得。1902年から約2年間スイスで過ごし,社会主義者との交わりを深める。帰国後,兵役,教職を経て,一時オーストリア領トレントの労働会議所の書記を務めた。10年社会党フォルリ支部書記となり,翌年イタリア・トルコ戦争(リビア戦争)に反対する行動で5ヵ月間投獄された。彼の思想は文化雑誌《ボーチェ》やソレル,パレート,ニーチェらの書に負うところが多く,その社会主義も意志,直観,暴力の契機を重視した直接行動的性格を帯びていた。12年社会党全国大会での改良派に対する痛烈な批判演説で脚光を浴び,指導部に選出された。さらに党機関紙《アバンティ(前進)!》編集長のポストを与えられ,ミラノに活動の拠点を移す。ジャーナリストの才と激しい論調の革命主義の主張で党内に一派をなし,注目を集めた。第1次大戦の当初,党の方針である反戦中立の論陣を張ったが,14年10月突如として参戦論を機関紙に掲げ,11月には独自の日刊紙《ポポロ・ディタリア》を創刊して参戦主義の活動を始めた。このため社会党から除名され,その後参戦派のサンディカリストとともに〈革命行動ファッシ〉に加わって,いわゆる革命派参戦主義を唱えた。戦時中,前線勤務に就くが事故で負傷して17年に除隊,ジャーナリスト活動に戻った。
大戦後の19年3月〈戦闘ファッシ〉を結成してファシズム運動を開始し,21年5月下院議員に当選する。22年10月ファシストのローマ進軍の圧力によって,国王から組閣令を引き出し,39歳で首相となった。以後20年にわたって首相の地位にあり,とくに25年1月力による支配の方針を表明した後,ファシズム体制を築いて独裁的な権力を掌握した。ファシズム内の諸潮流の均衡の上に立って,その時々で大臣を交代させながら,みずからはドゥーチェduce(ラテン語duxに由来し,指導者の意味)として最高の地位を保持した。しかし,第2次大戦で敗色が濃くなると政・財・軍各界からの批判が高まり,43年7月24日ファシズム大評議会で不信任の動議を突きつけられた。翌日国王に逮捕され,グラン・サッソの山中に幽閉されたが,9月ドイツ軍の救出をうけ,新たにイタリア社会共和国(サロ共和国)を樹立した。45年4月レジスタンスの勢いが強まり,ドイツ軍にまじってスイスに逃れようとしたが,コモ湖畔でパルチザンに捕らえられ,銃殺刑に処せられた。
→ファシズム
執筆者:北原 敦
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1883~1945
イタリアの政治家。父親は急進的な社会主義者。1902年スイス滞在期に革命グループと接触し,帰国後イタリア社会党に入党。党内では左派に属し,機関誌『前進』(Avanti!)の編集にあたった。第一次世界大戦に参戦を主張して党から除名され,独自に『イタリア人民』(Popolo d'Italia)紙を発刊して参戦宣伝を行った。第一次世界大戦後はファシズム運動を起こし,22年ローマ進軍を背景に首相となり,22~43年ファシズム体制の独裁者となった。43年7月ファシズム大評議会で不信任を受け,国王から首相職を解かれ逮捕される。のちドイツ軍に救出され,北イタリアにイタリア社会共和国を建てたが,45年4月パルチザンに捕われ銃殺された。
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1883.7.29~1945.4.28
イタリアの政治家。第1次大戦前はイタリア社会党に属し,党機関紙「前進」の編集を担当した。大戦に際し参戦論を展開,党を除名される。1919年「戦闘ファッシ」を結成しファシズム運動を開始。22年のローマ進軍の成功以来20年にわたって首相を務める。43年7月失脚し逮捕されたがドイツ軍に救出され,新たにイタリア社会共和国(サロ共和国)を樹立。45年4月パルチザンにより銃殺刑に処せられた。
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…ファシズムはこのポー平原を大衆的な直接行動によって制圧したあと,北・中部の諸地域を順次獲得していき,そうした地域的な支配を背景にして,22年10月にローマ進軍を敢行する。このときムッソリーニ内閣が成立し,約20年間にわたるファシズム支配の時代が続く。ファシズムの時代を通じてムッソリーニが首相の座を独占していたが,ファシズムの内部には,サンディカリスト・ファシズム,ナショナリスト・ファシズム,テクノクラート・ファシズム,農村ファシズム,保守的ファシズムなどいくつかの潮流があって,互いに対抗しあいながらファシズム体制が築かれていった。…
…また他方では,20年代後半のフランスの〈アバンギャルド〉映画の前ぶれとなった非商業的な未来派の映画運動があり,アントン・ジュリオ・ブラガリアの《不実な魅力》(1917),ルチオ・ダンブラの《王と塔と旗手》(1917)等々といった意欲的な〈芸術的実験作〉が作られた。しかし,22年,ファシスト党を率いたムッソリーニの〈ローマへの進軍〉がイタリア映画の衰退にとどめの一撃を加えた。〈イタリア映画は,以後25年間,世界のスクリーンからほとんど完全に姿を消して〉(G.サドゥール《世界映画史》)しまうのである。…
…面積約4km2。エウルとは本来,ムッソリーニの肝いりで1942年に開催が予定された〈ローマ万国博覧会Esposizione Universale di Roma〉の略称である。会場予定地には,新古典主義的な建物群の建設が予定されたが,第2次世界大戦のため博覧会は中止。…
…しかし,彼の説く直接行動主義は,その経済第一主義,非政治性のために,政治的にはあいまいな解釈を許すことになり,その後,左右両翼の諸運動がソレルのサンディカリスムに,その理論的支柱を見いだすことになった。左翼のほうでは,レーニンのボリシェビズムやイタリアのA.グラムシが大きな影響を受けているし,右翼についても,ムッソリーニに対するソレルの決定的な影響は特筆されてよい。彼は,1917年のロシア革命に大きな喜びを見いだし,レーニンを弁護するが,世を去ったのは,奇しくもムッソリーニがローマ進軍を敢行する直前であった。…
…その一方,占領下のフランスでもさまざまな抵抗運動がなされ,独立の確保のための戦いが展開された。
[イタリア]
1922年ファシスト政権の成立以後,ムッソリーニはイタリアを国際政治的に他のヨーロッパ大国と同等の地位にまで高め,また帝国主義の時代にかならずしも成功しなかった地中海・北アフリカへの進出をもくろんでいた。そして30年代に入り,ナチズムの台頭とともに,イタリアは大国として行動する機会を見いだし,最初はナチス・ドイツの敵対者(オーストリアをめぐる対立)として,後にはドイツとイギリス,フランスとの仲介者(ミュンヘン会談の提案)として発言力の強化に努めた。…
…労働同盟は同年夏にゼネストでファシズムに対抗するが,逆にファシストの攻撃をうけて失敗し無力化した。22年10月ムッソリーニ内閣が成立した後,24年に発生したマッテオッティ事件が反ファシズムの歴史のなかで重要なものとなった。統一社会党の国会議員マッテオッティがファシストに暗殺されたことに抗議して,社会党,人民党,自由主義諸派,共産党の反ファッショ諸政党は分離議会(アベンティーノ議会と称した)を結成,この議会の正統性を主張してムッソリーニ内閣に退陣を迫った。…
…〈ファシズム〉という語が生まれたのは,ムッソリーニを指導者とするイタリアの〈ファシズム〉運動の台頭によってである。イタリアでは,第1次大戦直後の混乱のなかで,1922年10月31日に早くもムッソリーニ内閣が成立したが,その後29年に始まる世界恐慌を背景に,33年1月30日ドイツではヒトラー内閣が生まれた。…
…イタリアの政治新聞。参戦論に転向して社会主義紙《アバンティAvanti》の主筆を追われたムッソリーニが1914年ミラノで創刊した。19年ムッソリーニがファシスタ党を結成するに及び,その機関紙となる。…
…1929年2月11日ラテラノ宮殿においてイタリア王国首相ムッソリーニと教皇庁国務長官ガスパリ枢機卿とのあいだに調印された協定。これにより,1870年イタリア軍がローマを占領して以来50年余り続いた国と教会の対立(ローマ問題)に終止符が打たれた。…
※「ムッソリーニ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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