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ムハンマド・アリー朝 ムハンマド・アリーちょうMuḥammad `Alī

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ムハンマド・アリー朝
ムハンマド・アリーちょう
Muḥammad `Alī

ムハンマド・アリーを始祖とするエジプトの王朝 (1805~1952) 。ムハンマド・アリーはヨーロッパの諸制度をいちはやく導入して近代化を進め,産業独占体制を築いて富国強兵をはかった。第4代サイードは 1856年にスエズ運河開削利権を F.レセップスに与えた。第5代イスマーイールのときにトルコのスルタンからヘディーブ (副王) の称号を受けた。しかし財政難は著しく,75年にはスエズ運河会社の株 17万をイギリスに売却したが,赤字財政はなお克服されず国家財政は破産した (1876) 。その結果エジプト財政は英仏共同管理下におかれ,エジプトは列強の植民地と化した。 82年に勃発したアラビー・パシャの反乱は反帝国主義民族運動であったが,イギリスはこれを機にエジプトを占領した。第1次世界大戦の勃発とともにオスマン帝国の名目的支配から脱し,1922年には独立し,フアド1世は王 (マリク) を称した。 52年6月の軍事クーデターの結果,国王ファールークは国外へ追放され,翌年共和制が成立した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ムハンマド・アリー朝
むはんまどありーちょう

エジプト最後の王朝(1805~1953)。ナポレオン占領期のエジプトへ、オスマン帝国傭兵(ようへい)隊長として派遣されたムハンマド・アリーは、1805年エジプト総督(ワーリー)に任命され、ここにアリー一族によるエジプト支配体制=ムハンマド・アリー朝が成立した。アリーは当初、オスマン帝国支配からの独立ばかりではなく、エジプト帝国づくりにも意を注ぎ、富国強兵・殖産興業政策に取り組み、海外領土拡張を企てたが、40年ヨーロッパ列強の干渉で挫折(ざせつ)した。アリー王朝支配は19世紀後半、対外依存の近代化でエジプトの植民地化に道を開いた。82年アラービーの反乱で、エジプトがイギリスの軍事占領下に入ると、王朝は国民の間で「外国人王朝」の烙印(らくいん)を押され、1952年エジプト革命で打倒され、翌53年エジプト共和国が成立した。[藤田 進]

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