メンデルスゾーン

精選版 日本国語大辞典 「メンデルスゾーン」の意味・読み・例文・類語

メンデルスゾーン

(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn-Bartholdy ヤーコプ=ルートウィヒ=フェリックス━バルトルディ) ドイツの作曲家。幼時から作曲を始めて、ロマン主義的傾向のピアノ小品集「無言歌」や、「真夏の夜の夢」の付随音楽で名声を高め、一九世紀ロマン派の指導者的役割を果たした。代表作バイオリン協奏曲ホ短調」、交響曲第四番「イタリア」。(一八〇九‐四七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「メンデルスゾーン」の意味・読み・例文・類語

メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)

[1809~1847]ドイツの作曲家。古典的均衡とロマン的色彩の調和した作風で知られる。作品に、交響曲「イタリア」、「バイオリン協奏曲」、ピアノ曲集「無言歌」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「メンデルスゾーン」の意味・わかりやすい解説

メンデルスゾーン

ドイツの作曲家,指揮者。ユダヤ系ドイツ人としてハンブルクに生まれ,ベルリンで育つ。祖父は高名な哲学者モーゼス・メンデルスゾーン〔1729-1786〕。早くからピアノ,バイオリン,作曲を学び,16歳で《弦楽八重奏曲》(1825年)を,17歳で劇付随音楽《夏の夜の夢》の序曲(全曲完成1842年)を作曲。1829年にはベルリンでJ.S.バッハの《マタイ受難曲》を復活再演し,〈バッハ・ルネサンス〉の扉を開く。また各国を旅してベルリオーズショパン,F.リストらと親交を深め,管弦楽曲《フィンガルの洞窟》(1832年),《イタリア交響曲(交響曲第4番)》(1833年),《スコットランド交響曲(交響曲第3番)》(1842年)などを書く。1835年にはライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団の指揮者となって楽団を育成し,1843年ライプチヒ音楽院を創立したが,間もなく過労のため健康を損ない38歳で死去。作品はほかに,《交響曲第5番・宗教改革》(1830年),二つのピアノ協奏曲(1831年,1837年),《バイオリン協奏曲ホ短調》(1844年),《聖パウロ》(1836年),《エリア》(1846年)の二つのオラトリオ,第1番〜第6番の弦楽四重奏曲(1827年−1847年),《ピアノ三重奏曲第1番》(1839年),《チェロ・ソナタ第2番》(1843年),ピアノ曲集《無言歌》8巻(1830年−1845年),オペラ,歌曲など。古典派的傾向をもつロマン派の作曲家で,気品に満ちた均整美には他に求めがたい魅力がある。姉のファニー〔1805-1847〕もピアノ奏者,作曲家として知られる。
→関連項目カプリッチョキリスト教音楽夏の夜の夢バッハマイモンヨアヒムロマン主義

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「メンデルスゾーン」の意味・わかりやすい解説

メンデルスゾーン
Felix Mendelssohn
生没年:1809-47

ドイツの作曲家。ユダヤ系ドイツ人として,ハンブルクで富裕な銀行家の家に生まれ,1811年ベルリンに移り住んだ。音楽教育は早くから始められ,ゲーテと親しいC.F.ツェルターにも師事した。10歳のときから作曲を始めるが,声楽はバッハやヘンデル,器楽ではとくにベートーベンから強い影響を受けた。それゆえ,初期の作品においては,声楽は古いスタイルに従い,器楽ではかなり大胆な試みがなされるという二重の様相を呈している。27年C.W.L.ハイゼによる家庭での教育を終えてベルリン大学に学び,とくにヘーゲルの美学講義に興味をもった。29年ベルリン・ジングアカデミーを指揮してバッハの《マタイ受難曲》を再演し,バッハ・ルネサンスの開幕を印した。同年イギリス旅行,次の年にはイタリア旅行を企て,これまでベルリンに限られていた活動舞台を世界に広げた。すでにワイマール(1821),パリ(1825)などを訪問していたが,旅行時代は24歳のときまで続き,この旅行を通じてロッシーニ,ドニゼッティ,ベルリオーズ,ショパン,リストら多くの作曲家に会い,また旅先の自然体験から,管弦楽序曲《フィンガルの洞窟》(1832),《イタリア交響曲》(1833),《スコットランド交響曲》(1842)などの名作の楽想を得た。

 33年デュッセルドルフ市の音楽監督,2年後にはライプチヒゲバントハウス管弦楽団の指揮者に就任。37年に結婚,5児を得て家庭は幸福であった。ライプチヒ音楽院の創設(1843)に尽力,教育活動にも加わった。それに加えて,毎年のようにニーダーライン音楽祭やイギリスのバーミンガム音楽祭に出かけ,この時期はまさしく身を削るような忙しい日々の連続であった。しかし,その間にあっても創作のほうは順調に進み,付随音楽《真夏の夜の夢》(1842),《バイオリン協奏曲ホ短調》(1844),室内楽曲,ピアノ曲(《厳格な変奏曲》1841,8巻の《無言歌》),合唱曲《最初のワルプルギスの夜》(1832),歌曲,オラトリオ《エリア》(1846)など,多様な領域において数多くの作品が生み出された。しかし,この多忙な生活による疲労が重なって健康を害し,それにピアノ奏者だった姉ファニーFanny(1805-47)の死による精神的打撃も加わって,47年38歳の若さで世を去った。

 彼の音楽には,古典的形式の枠組みにロマン的な内容が慎み深く盛りこまれているが,その最大の特色は調和的気質,均衡の性格にある。感情表出は抑制され,感情は優雅さとユーモアを交えてロマン的な微光として輝き出ているのであるが,のちの人々はこれを感傷主義と呼んだ。
執筆者:

メンデルスゾーン
Moses Mendelssohn
生没年:1729-86

ドイツのユダヤ人啓蒙哲学者。デッサウのゲットーに生まれ,少年時にベルリンに出て,苦学力行の末,ユダヤ人として初めてドイツ語で著作し,ヨーロッパで名声を得た。いわゆる〈同化〉ユダヤ知識人第1号である。レッシングの盟友となり,彼の《賢者ナータン》のモデルともなった。ユダヤ人解放の先頭に立ち,ユダヤ人啓蒙のためのドイツ語教育学校を興し,同時にユダヤ伝統文化遺産の継承を重視してヘブライ語復興の〈ハスカラー(啓蒙)〉運動を東欧全域に広め,ユダヤ人近代化とドイツ文化の懸橋役を実践して〈近代ドイツ系ユダヤ人の父〉とも仰がれるが,この〈同化〉開拓の道は毀誉褒貶半ばする運命をたどる。旧約聖書のモーセ五書のドイツ語訳業をはじめ,宗教哲学,美学の著作が多く,膨大な全集が現在ようやく刊行中である。長女ドロテアはロマン派文学の理論家フリードリヒ・シュレーゲルと結婚,音楽家F.メンデルスゾーンは孫に当たる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メンデルスゾーン」の意味・わかりやすい解説

メンデルスゾーン
Mendelssohn(-Bartholdy), (Jakob Ludwig) Felix

[生]1809.2.3. ハンブルク
[没]1847.11.4. ライプチヒ
ドイツの作曲家,指揮者,ピアニスト。哲学者 M.メンデルスゾーンの孫でユダヤ系の富裕な家庭に育ち,1811年に家族とともにベルリンに移住。 18年に同地でピアニストとしてデビューし,21年にはワイマールでゲーテと知合った。 26年に序曲『夏の夜の夢』を作曲,29年には J.S.バッハの死後初めて『マタイ受難曲』を指揮,その後イギリスをはじめヨーロッパ各地を演奏旅行し,33年にはジュッセルドルフ市楽長,35年にはライプチヒのゲバントハウス管弦楽団の指揮者となり,43年に R.シューマンらとともにライプチヒ音楽学校を設立。古典主義的ロマン派の作曲家として名声を博した。主作品は交響曲5曲,演奏会用序曲『フィンガルの洞窟』 (1830) ,ピアノの『無言歌』 (30) ,『バイオリン協奏曲ホ短調』 (44) ,オラトリオ『エリア』 (46) 。

メンデルスゾーン
Mendelssohn, Moses

[生]1729.9.26. デッサウ
[没]1786.1.4. ベルリン
ドイツのユダヤ人哲学者。作曲家 F.メンデルスゾーンの祖父。 1754年にレッシングと出会い,生涯の友となった。レッシングの『賢者ナータン』は彼をモデルにしたといわれる。カントとも文通した。ユダヤ人のドイツ市民社会への融合を主張。神学的には理神論に立ち,信仰の自由を説いた。哲学的には,J.ズルツァーと同様に,感情の働きの独立性を認め,のちの J.テーテンスによる精神活動の知情意三分法に先行した。主著『感覚について』 Briefe über die Empfindungen (1755) ,『ファイドン-霊魂の不滅について』 Phädon oder über die Unsterblichkeit der Seele (67) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「メンデルスゾーン」の解説

メンデルスゾーン

ドイツの作曲家。ベルリンの富裕なユダヤ系の銀行家に生まれた。姉も音楽家となった。フェーリクスは神童ピアニストとしてデビューし、10才で作曲を始めた。旅行もよくし、特にパリでは老年のケルビーニ、オペラ作 ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「メンデルスゾーン」の解説

メンデルスゾーン
Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy

1809~47

ドイツの作曲家。古典派とロマン派を調和させた様式美を持ち,洗練された感情が控え目に盛られている。17歳ですでに「真夏の夜の夢序曲」をつくり,交響曲5,協奏曲,ピアノ曲など多数作曲。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「メンデルスゾーン」の解説

メンデルスゾーン
Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy

1809〜47
ドイツ−ロマン派の作曲家・指揮者
「バイオリン協奏曲」「真夏の夜の夢」のほか,交響曲や室内楽曲に優美な名曲を残した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のメンデルスゾーンの言及

【交響曲】より

…第7番(従来の番号付では第8番)《未完成》(1822)と第8番(同じく第7番ないし第9番)《ザ・グレート》(1828)では,トロンボーンが定着し,規模も拡大されて,後のブルックナーを思わせるような息の長い呼吸が認められる。 その他,初期ロマン派交響曲では,メンデルスゾーン(初期の弦合奏主体の13曲と,1824‐42の5曲)とシューマン(未完とスケッチのほか,1841‐51の4曲)が重要である。メンデルスゾーンは第3番《スコットランド》(1842),第4番《イタリア》(1833)をはじめ,標題音楽的な雰囲気と色彩豊かな管弦楽法を特徴とする。…

【夏の夜の夢】より

…幻想的でロマンティックな雰囲気によって古来最も愛されてきた喜劇であるが,最近は人物の動きに意識深層の欲望のうごめきを見たり,劇中劇的ドラマ構造の特性を強調したりする批評家,演出家もある。【笹山 隆】 なお,この戯曲の付随音楽として,多くの作曲家が作曲しているが,最も有名なのはメンデルスゾーンの《序曲》(作品21,1826)である。これは古典的ソナタ形式を自由に変化させたのびやかな様式からなり,幻想的で妖精たちの戯れをみごとに表現している。…

【バイオリン】より

…他方19世紀には,作曲家と演奏家が協力し合い,高度な演奏効果と作曲家の個人様式の追求を調和させることに成功した例も少なくない。メンデルスゾーンの《バイオリン協奏曲》にはダーフィトFerdinand David(1810‐73)が協力し,J.ヨアヒムのためには,シューマン,ブルッフ,ブラームス,ドボルジャークなどが優れた協奏曲を書いている。高度の名人芸を優れた音楽性に結びつけようとした19世紀後半のバイオリン曲には,同時代の名演奏家P.deサラサーテにささげられたE.ラロの《スペイン協奏曲》(1873)やサン・サーンスの《バイオリン協奏曲第3番》(1880),またソナタとしては,ブラームスの3曲(1879,86,88),ベルギーの名手E.A.イザイエにささげられたC.フランクの傑作(1886),ノルウェーの抒情性に富んだE.グリーグの第3番(1887)などがあり,今日の演奏会の重要な曲目を形成している。…

【マタイ受難曲】より

…全体は2部68曲から成り,十字架の預言,最後の晩餐,ゲッセマネの祈り,捕われ,裁判,ゴルゴタの丘,死と埋葬などの場面が,福音朗読者(テノール)の朗唱を中心として,劇的な合唱や内省的なアリア,また味わい深いコラールによって感動的に描かれ,キリスト受難の意味を鋭く問いかける。1829年にメンデルスゾーンがJ.S.バッハの死後初めて演奏し,J.S.バッハ復活の端緒をつくったことも重要である。J.S.バッハ以外ではシュッツの曲(1666)が名高い。…

【ロマン派音楽】より

…世紀後半には他の諸国の貢献も強まる。おもな大作曲家を挙げれば,ベートーベンとシューベルトを視野におさめながら,C.M.vonウェーバー,メンデルスゾーン,シューマン,ショパン,ベルリオーズ,リスト,R.ワーグナーらが代表的存在である。ベートーベンとシューベルトはロマン的要素を有しながら,全体としては古典派に入れられる。…

【ニコライ】より

…ゲーテ,シラー,カント,フィヒテらを攻撃したため,頑迷な啓蒙主義者と見られがちであるが,啓蒙主義の指導的な雑誌の刊行者,ベストセラー作家,批評家としてその多面的な活動は,ドイツ18世紀文化史に大きな足跡を残した。レッシングやM.メンデルスゾーンの助けをえて,ベルリンの啓蒙主義運動の組織者として活躍し,文化の媒介者の役割を果たした。【岩村 行雄】。…

【ユダヤ教】より

…その影響下に,ユダヤ人世界においては,ハスカラーと呼ばれる啓蒙主義運動が起こった。カントと並ぶ当代最大の哲学者として尊敬されたM.メンデルスゾーンを精神的父と仰ぐユダヤ人啓蒙主義者は,ユダヤ人固有の文化を捨ててヨーロッパの世俗文化を学ぶことが,中世以来の社会的差別からユダヤ人を解放する前提であると考えた。19世紀に,民族主義に基づく近代国家が成立すると,彼らは,ユダヤ教の伝統的教義である民族と宗教の間の不可分な関係を否定する〈改革派ユダヤ教〉を創設した。…

【ユダヤ人】より

… ヨーロッパのユダヤ教徒に呈示されたこの新たな道は,彼らに衝撃的な作用を及ぼした。M.メンデルスゾーンを先駆とし,ユダヤ教徒の側から積極的に近代ヨーロッパ文化を吸収しようとするユダヤ教徒啓蒙運動は,ここに一気にその花を開き,数世紀にわたり伝統的なラビの支配のもとにあったユダヤ教徒を,近代ヨーロッパの社会と文化のいぶきに触れさせ,彼らの貪欲なまでの知識欲を刺激した。ユダヤ教改革の運動が起こると同時に,それまでユダヤ教徒に対し,宗教,教育,裁判における独占権を確保してきたラビは,それだけいっそうかたくなに伝統的な教義に固執しようとした。…

【ユダヤ哲学】より

…すなわち,近世のユダヤ哲学の特色は,中世のそれと異なり,ユダヤ教の特殊性を排除し,それを普遍的な理性原理の上に確立することにあった。その最初の代表的な哲学者がM.メンデルスゾーンである。彼の後継者はドイツ観念論の哲学のなかにユダヤ教との思想的一致を見いだしている。…

【ライプニッツ=ウォルフ学派】より

…前者に属するのは,ドイツの広範な読者層にウォルフ哲学を広げることに貢献したチューミヒLudwig Philipp Thümmig(1697‐1728),ビルフィンガーGeorg Bernhard Bilfinger(1693‐1750)やドイツ美学の創始者と目されるバウムガルテンおよびその弟子マイヤーGeorg Friedrich Meier(1718‐77)などであるが,とりわけバウムガルテンはウォルフによってほとんど扱われなかった美学の領域に関してウォルフの体系を補完した。後者に属する人々としてはライマールスHermann Samuel Reimarus(1694‐1768),M.メンデルスゾーン,J.H.ランバートなどが挙げられる。ランバートはウォルフ的合理論とロック的経験論の融和統一をはかった。…

※「メンデルスゾーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android