イタリア(英語表記)Italia

翻訳|Italia

デジタル大辞泉 「イタリア」の意味・読み・例文・類語

イタリア【〈ドイツ〉Italienische】[曲名]

メンデルスゾーンの交響曲第4番の通称。イ長調。イタリア旅行に着想を得て、1831年から1833年にかけて作曲された。第4楽章はイタリアの舞曲サルタレロに基づく。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「イタリア」の意味・わかりやすい解説

イタリア
Italia

基本情報
正式名称=イタリア共和国Repubblica Italiana 
面積=30万1336km2 
人口(2010)=6048万人 
首都=ローマRoma(日本との時差=-8時間) 
主要言語=イタリア語 
通貨=リラLira(1999年1月よりユーロEuro)

長靴形に地中海に突出した半島を主体とする共和国。北はアルプスを境としてフランス,スイス,オーストリアに接し,東は地続きのユーゴスラビアとともにアドリア海を抱き,西はティレニア海に臨む。

現在のイタリア共和国の範囲がイタリアとして理解されるようになるのは,近代になってこの範囲においてトスカナ語が共用語として用いられるようになってからのことである。近代以降,イタリアという地名はさまざまなイメージを引き起こす言葉として用いられてきた。古典古代文明の繁栄した土地として,また,カトリック世界の中心地として,イタリアはしばしば文化的および宗教的巡礼の対象であった。アルプスの北の寒冷な国の人々にとって,イタリア旅行は,貴族や文人などのエリートのステータス・シンボルとしての意味も持っていた。19世紀後半に成立したイタリア王国は,イギリス,フランス,ドイツなどの先進工業化諸国に比して,工業化が遅れ,19世紀末からは特に貧しい南部からたくさんの移民が各国に出て行くようになり,貧しい国イタリアというイメージもゆきわたった。

長靴形の半島部およびシチリアとサルデーニャとから成るイタリアの自然は,かなり多様である。夏にはイタリアのほとんどの部分が低緯度大陸気団の影響下に入って,高温・乾燥によって特色づけられる〈地中海の夏〉によっておおわれるが,冬になると,アペニノ山脈の北部および東側は,中緯度大陸気団の影響を受けて,寒冷かつ湿潤であるし,中南部においても西からやってくる低気圧の影響を受けて,しばしば雨の降る不安定な気候を呈する。

 地形的に見ると,アルプス造山運動の影響を受けたアルプス山脈とアペニノ山脈とが,国土の骨組みを形づくっていて,大きな平野はアルプス山脈とアペニノ山脈との間の大きな地向斜が第三紀および第四紀の堆積によってうずめられたポー平原があるにすぎない。北部の山地・丘陵部および中南部の高山部には氷河地形が見られるし,中部イタリアおよび南部イタリアには休火山および活火山が多く,火山地形も各地に見られる。

 東部アルプスおよびアペニノ山脈においては石灰岩が卓越していて,独特の山容を呈している。特に南部においては,乾燥した気候とあいまって,山地および丘陵部においては地表水が乏しく植生は貧弱である。また,石灰岩地帯の末端の海岸部においては石灰岩地帯を伏流してきた水が湧き出るので,湿地の広がることが多い。

 北部のポー川流域平野においては,乱流していた水路を歴史時代において人間が制御することに成功し,肥沃な沖積平野に水稲などの穀物および牧草,野菜などを栽培する豊かな農業が展開されている。これに対して,中部および南部の石灰岩産地および丘陵部においては,土壌侵食や夏の乾燥に対してテラスの造営や灌漑施設の建設を行わなければならず,近代的な集約農業の展開には多くの困難がともなう。内陸部では古代ローマ時代とほとんど変わらない粗放な乾燥地農業が行われているところも多い。また,低い湿地帯においては,排水路の建設による土地改良が大きな課題になっている。

 このようにしてイタリアの自然はもともと人間の生産活動にとって決して恵まれたものではないが,何千年にもわたってそこで展開されてきた人間の活動により,豊かな農地が各地につくり出され,社会・文化活動の結節点としての都市が,限られた立地点を求めて絵画的とも言えるたたずまいを見せている。また,人間の経済活動にとっては,大きな障害になってきたかもしれないが,青い地中海の空,複雑な海岸線,荒々しい山容などは,国内および国外のたくさんの観光客を引きつける観光資源になっている。

現在のイタリアの住民の地域的差異を理解するためには,一方では古代の多様な言語的および民族的要素に対して古代ローマが及ぼした一様化の作用,他方では中世および近代においてイタリアの各地にもたらされたいくつかの民族的要素を念頭に置かなければならない。言語の面から見ると,この二つの過程はかなり明瞭にあとづけられるが,住民の体質的特徴にそれを見ることはかなり困難である。それでも,南イタリアにおけるアラブおよびベルベルの侵入の影響,あるいは北イタリアにおけるゲルマン的要素の影響などは容易に観察できる。

 イタリアにおける方言の差異は非常に大きい。しかし,イタリア語とならんで公用語としても認められているアディジェ川上流域のドイツ語系住民と,南イタリアに散在するアルバニア系住民の村の場合を除いて,ほとんどの方言はラテン語が俗語化したロマンス語に属する。北部の方言にはプロバンス語に近いものが多く,アオスタの谷においてはイタリア語とならんでフランス語が公用語として認められている。南部の方言は現代イタリア語のもとになったトスカナ方言とは非常に違っていて,民謡などの形でそれらが広く残っている。しかし,国語としてのイタリア語は,非常によく普及しており,アディジェ川上流域の場合を除いて,国語による言語的抑圧に起因する地域問題はイタリアには存在しない。
イタリア語

行政上は20州から成り,州の下に県がおかれている。通常北イタリアという場合,ロンバルディア,ピエモンテ,バレ・ダオスタ,リグリア,トレンティノ・アルト・アディジェ,ベネト,フリウリ・ベネチア・ジュリアの7州を指しているが,エミリア・ロマーニャ州を北イタリアに含める場合もある。すでにイタリア統一以前から豊かな農業地帯であったし,繊維工業をはじめとする工業の発達もアルプスの山麓部を中心として見られた。イタリアの統一が北イタリア,特にピエモンテの政治的・軍事的イニシアティブのもとに達成されたこともあって,イタリア王国成立後の経済的発展,特に工業化は北イタリアを主要な舞台にしてなされた。第2次大戦前にすでに,トリノ,ミラノ,ジェノバによって囲まれた地帯は,〈工業三角形〉としてイタリアの近代工業の集中する地帯になっていたが,現在は,ベネチアをも含めて東西に長く延びるイタリア経済の中枢部を形づくっている。特にミラノには,イタリア経済の中枢管理機能が集中し,イタリアの経済的首都になっている。また,ポー川中流域から下流域にかけての平野部は,イタリアでもっとも豊かな農業地帯であり,イタリア統一後も著しい生産力の発展を示した。水稲,小麦などの穀物栽培,牧畜,一部の地帯における銘柄ブドウ酒生産などが,近代資本主義的経営によって営まれている。1950年代から60年代にかけてのイタリア経済の高度成長期には,中部イタリアおよび南部イタリアから約250万の人口が北イタリア,特に都市部に流入した。

 中部イタリアは通常エミリア・ロマーニャ,マルケ,トスカナ,ウンブリア,ラチオの5州の範囲を指して用いられている。第2次大戦前には伝統的手工業を除いて近代工業の発達はあまり見られなかったが,現在では,アルノ川流域や臨海部には近代工業が立地するようになっている。農業について見れば,ラチオ州を別にすれば伝統的には折半小作制によるブドウと他の作物とを組み合わせた混合耕作が卓越していた地帯であったが,第2次大戦後折半小作制は急速に衰退し,また,農業の機械化にともなって,ブドウ栽培も限られた銘柄産地において,大規模なブドウの専用栽培を行うようになった。フィレンツェ,ピサをはじめとして中世からルネサンス期にかけて独特の都市文明が発達したところであり,各土地の都心部には歴史的都市のおもかげが残っており,文化遺産も豊富である。政治的に見れば,中部イタリアの諸州においては左翼勢力が非常に強い。

 南イタリア(メッツォジョルノ)はカンパニア,アブルッツィ,モリーゼ,プーリア,バジリカータ,カラブリア,シチリア,およびサルデーニャの8州から成っている。歴史的に見れば,サルデーニャを別にすれば,常にナポリを中心とする王国を成していた地域であり,その歴史は北イタリアおよび中部イタリアと非常に違っている。このような歴史的事情と民族的・文化的要素の違い,そして両シチリア王国がピエモンテに軍事的に征服されるという形でイタリアの統一が達成されたという事情のために,イタリア王国のもとにおいて,南部の工業化と農業開発とは非常に遅れ,南北の格差はイタリア統一後大きな問題になってきた。もちろん南部の風土条件が北西ヨーロッパ的近代農業の発展に適していないこと,寄生的大土地所有制が南部社会の近代化を妨げてきたという事情も無視することはできない。第2次大戦後,イタリア共和国政府は土地改革,南部への大規模な公共投資を行って,南部開発事業に本格的に取り組んできているが,南北の格差の拡大をなんとか抑えてはいるものの,南部問題は依然としてイタリア国家にとっての重要な問題として残っている。また,南部開発政策の実施にともなって,南部内部における限られた開発地域とその他の地域との間の格差も大きな問題になってきている。

イタリア人の地縁的な帰属意識は重層的な性格をもっている。都市であれ,農村であれ,日本の市町村に相当するコムーネは,数百年の伝統をもち,大都市域の拡大にともなって都市域に併合される場合を除いて,町村合併などということはない。カンパニリズモ(郷党主義)とも言われるコムーネのまとまりは非常に強い。

 第2に注目されるのは,イタリアの県(プロビンチア)は,すべて中心都市(二つある場合もある)の名前によって呼ばれていることである。シエナ人といえば,シエナの都市の住民と同時に,シエナ県の住民をも意味する。これは,都市を中心にして,周辺の農村部が政治的・経済的・文化的なまとまりを形づくっていた歴史を反映するものである。次に,現在,共和国憲法によって大幅な自治権が認められている州(レジオーネ)の多くは,すでにローマ時代から,自然的・文化的なまとまりをもち,しばしば一つの行政単位をなしてきた。大幅な州自治が認められているのも,州がまとまった地域単位をなし,住民がそれに対して強い帰属意識を持っていることによっている。このような地方主義(レジオナリズモ)の主張は,イタリア王国成立(1861)のときから常に強かったが,同時に,イタリアの歴史において,分離独立主義の動きは,ごく少数の例外を除いて存在しなかったと言ってよい。1980年代末からは,北部の立場からの地方主義を唱える北部同盟の政治的影響力が大きくなったが,北部のパダーニャ地方を中心とするパダーニャ共和国の独立は多数住民の支持を受けているわけではない。ナショナリズムという言葉が,リージョナリズムの意味で用いられることのあるフランスやスペインと違って,イタリアにおいては,ナショナリズムの対象はイタリアしかない。郷党割拠主義,地方主義,そして強固なナショナリズムの併存,そこにイタリア人の地縁的帰属意識の特色がある。
執筆者:

ベネデット・クローチェは,リソルジメント(1861)以前については厳密な意味におけるイタリア史は存在しないと述べている。たしかに単一の政治機構に組織された国家がイタリア半島全域を統治するという事態は,ローマ帝国の時代を除いては見られなかった。全体として見れば,イタリア半島の歴史は,権力の分散状態に特徴があるといえるだろう。

 イタリアの名の起源は明らかではない。牛vitulusをトーテムとする部族の名に由来するという説があるが,さだかではない。南イタリアに植民地マグナ・グラエキアを築いたギリシア人がこの名を最初に用いたといわれる。本来はイタリア半島南部のごく一部をさす名称であったが,しだいにその範囲が拡大した。アウグストゥスの時に半島のほぼ全域にローマ市民権が与えられて,イタリアの名で呼ばれるようになり,さらにディオクレティアヌスの改革(3世紀末)によって島嶼部もこれに含まれることになった。このことは,後代,とくにルネサンス期以降の人びとによってしばしば想起されたが,実際には19世紀まで統一が成らなかった。

 時代区分についてみると,476年のいわゆる〈西ローマ帝国の滅亡〉とその後の東ゴート王国の成立,ユスティニアヌスのイタリア再征服(540)の時期までを古代として扱うのが普通である(〈テラマーレ文化〉〈エトルリア〉〈ローマ〉の項目を参照されたい)。

 568年または569年に北イタリアに侵入したランゴバルド族は半島の多くの部分を支配した。彼らはアリウス派からカトリックに改宗し,固有の言語も失いローマ人の中に吸収されてしまうが,後の法慣習(相続法,刑法)に大きな影響を残した。この時代以降を中世と考える。8世紀後半にフランク人が進出してランゴバルド王国を倒し,800年にカールがローマ皇帝の位についたことにより,半島の歴史はドイツに結びつくことになった。この結合は,カロリング朝断絶後弱まったが10世紀のオットー1世以降ふたたび強化された。カロリング家のピピンによって半島の旧ビザンティン領がローマ教皇に寄進され,教皇領の基礎がつくられたことも重要である。西ヨーロッパ全域に影響力を持つ宗教的権威が世俗的領域的な権力として半島内に存在することは,その後の歴史に大きな影響を及ぼした。

 イタリア史のもう一つの特徴は,古代以来都市が衰えはしながらも,政治的経済的中心として存続したことである。ランゴバルドやフランクも都市を行政の中心として利用した反面,封建制はドイツ,フランスのようには発展しなかった。11世紀初頭以降,ヨーロッパ全体の経済発展とベネチア,ジェノバを先頭とする地中海商業の展開の中でイタリアの都市は著しく成長し,コムーネ(自治都市)を形成した。12世紀にドイツ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)がイタリア征服のため6回の遠征を行ったとき,北イタリアの諸都市はロンバルディア都市同盟を結成して対抗し,ついにコンスタンツの和(1183)によって自立的地位を承認させた。研究者の中には,これ以前を封建時代,以後をコムーネ時代と分ける者がいる。一方,南イタリアは8世紀以降イスラム勢力の支配下にあったが,11世紀にノルマンが進出し,集権的なシチリア王国を建てた。その後,支配者はホーエンシュタウフェン家,アンジュー家,アラゴン家と変わったが,北のコムーネ群,南の集権的国家というコントラストは存続した。13世紀に入ると,コムーネ相互の抗争,ポポロ,アルテに結集する商工業者層の台頭によって政治秩序が混乱し,一部の領主層の介入もあって,権力がしだいに1人の手に集中するようになった(シニョリーア制)。ミラノのビスコンティ家,ベロナのスカラ家がその先頭に立ち,ベネチアを除くほとんどすべての都市に拡大し,激しい抗争を展開した。15世紀にはミラノ,ベネチア,フィレンツェ,教皇領,ナポリの五大勢力がイタリアの政治を左右するようになり,ローディの和(1454)以降,政局は一応安定した。この時期にルネサンス文化が発達した。制度史家は,この時代をシニョリーア制ないしプリンチパート(君主)制の時代とする。

 1494年,フランス王シャルル8世がナポリの主権を主張して南下し,イタリアの諸国家も外国君主の力を利用して勢力の拡大をはかった。北部ではフランス,南部ではスペインが大きな力をもった。その中で教皇領がアレクサンデル6世,ユリウス2世の下で勢力を増大させた。1519年カール5世が神聖ローマ皇帝に選出されるや,積極的なイタリア政策を展開し,フランスと激しく対立し,イタリアはたびたび戦場となった(イタリア戦争)。戦争はカトー・カンブレージ条約(1559)で終結し,イタリアはスペインの支配下に入った。この間に国土は疲弊し,かつて独占的な立場にあった地中海貿易も全体的に縮小し,イギリス,オランダの新興勢力が進出するようになった。ベネチアの資本は土地に投下され,ジェノバの資本はスペインへ流出した。

 18世紀にはスペイン継承戦争の結果,オーストリアがイタリアにおける支配的勢力となった。さらにポーランド継承戦争,オーストリア継承戦争の中で,イタリア諸国家の運命は列強の意のままに変転した。その中にあってサボアに拠点を持っていたサボイア公家がしだいにピエモンテに勢力を拡大し,一時シチリア島を得てその王を称し,1720年にシチリアとサルデーニャ島を交換してサルデーニャ王となった。こうしたイタリア戦争以降の時代を伝統的に外国支配の時代と呼んでいる。18世紀後半にはフランスを中心とする啓蒙思想の影響がイタリアに及び,ロンバルディア,トスカナ,ナポリなどで税制,土地制度,裁判,教会特権の廃止などの改革が試みられたが,いずれも成功しなかった。
執筆者:

18世紀末(1796-99),フランス革命軍のイタリア遠征に呼応して,イタリア諸国で共和革命が起こった。〈革命の3年間〉あるいは〈ジャコビーノ革命期〉とよばれている。すべて短命に終わったが,この革命でイタリア統一の思想が初めて政治行動の場に移されたことから,研究者の間ではこの革命期をリソルジメントの開始とする見方が有力である。このあと,イタリアに統一国家が形成される1860年までがリソルジメントとよばれる時期になる。リソルジメントは,ナポレオン体制,ウィーン体制,48年革命の諸局面を経過し,またマッツィーニ,ガリバルディ,カブールらさまざまな人物の活動を通して,それに都市民衆や南イタリア農民の独自の運動を呼び起こしながら,統一国家の成立をもたらした。この統一国家は北イタリアのサルデーニャ王国が他の諸国を併合する形で成立し,61年に国名はイタリア王国となった。

 ローマとベネト地方はこの時点ではまだ新国家の外にあったが,アルプス山地からイタリア半島を貫いてシチリア島にまで及ぶ全域がひとつの国家のもとに編成されたのは,古代ローマ帝国以来のことであった。統一国家の成立によって,イタリア史はもはや複数の国家の歴史ではなくなったが,しかし,だからといってイタリア史の構造が単純化したのではない。国家としてはたしかにひとつになったが,そこにはいくつもの地域世界が包摂されることになった。それらの地域世界は,北のアルプスから南のシチリアまで,それぞれに固有の文化,伝統,慣習のもとに成り立っており,また地域世界ごとに独自の文化と伝統に根づいた民衆の日常生活が営まれている。そうした多様な地域世界と民衆の日常生活を,単一の国家制度の枠組みの中に編成していくことは多くの困難を伴うものであった。国家と諸地域あるいは国家と民衆にかかわるこの困難な関係が,統一国家成立後のイタリア史を強く特徴づけている。
リソルジメント

成立当初の新政府は,多様な諸地域を国家制度の中に編成するうえで,諸地域の大幅な自治を認める分権主義にするか,それとも中央政府に権力を集中する集権主義でいくか,議論が分かれていた。選択されたのは後者で,現在にまで及ぶイタリア国家の中央集権的性格が決定づけられた。この中央集権的性格は,内相直属の官僚として中央政府から各県(この時点で59)に派遣され,行政のみならず,地方生活全般にわたって幅広い権限を有する県知事の制度に顕著であった。中央集権制の選択には,ひとつの状況が強く作用していた。それは南イタリアの農民反乱である。反乱は,1860年から65年まで続き,国家は軍隊を投入してようやくのことで鎮圧した。南イタリアの民衆は,以後長期にわたり中央政府に不信を抱き続け,反乱は語り伝えられながら集団の記憶にとどめられた。この事件は,成立まもない国家と民衆の分裂を端的に示したものといえるが,南イタリアの状況は国家と地域という観点においても問題を残した。

 統一以前の南イタリアはシチリア島と共に両シチリア王国に編成され,スペイン系のブルボン王朝の支配下にあった。南イタリアでは巨大都市に成長した首都ナポリを除くと,都市の発展はほとんどみられなかった。したがってここでの地域世界のありようは,大小の都市-農村関係にもとづいて地域世界が形成されてきた北イタリアと違って,ナポリが政治的・行政的な支配権を及ぼしながら,他地域に君臨し,寄生する関係をとっていた。しかし,統一国家の成立によってこの関係は崩壊する。つまり,ナポリが首都から一地方都市に転落し,南イタリアはより広い国家と社会の枠組みのなかに編成し直されるのである。ここから,いわゆるナポリ問題が生じてくる。一方,南イタリアの諸地域は,鉄道の発達にも助けられて,ナポリを素通りし,北イタリアと直接に結びつく関係をもつようになる。これは南イタリアのナポリからの解放を意味したが,しかし他方では北イタリアとの関係で新たに南部問題とよばれるイタリア社会の大きな問題を生みだすことになる。
メッツォジョルノ
 南部問題にはシチリアをも含めて共通して指摘できる問題があるけれども,しかし,シチリアはシチリアで独自の考察が必要である。この島は,地中海の穀倉として古代から諸民族の争奪のもとにおかれていたが,統一以前には両シチリア王国の一部をなして,ナポリからの支配を受けていた。しかし,ナポリの支配を嫌って半島部からの分離を求める自治主義の動きが根強く存在し,新国家に組みこまれたのちにも,この自治主義の要求は機会あるごとに表明された。だが,統一以後のシチリア社会で特に重要なのは,マフィアとよばれる現象が出現したことである。マフィア的現象は,農村ブルジョアジーが国家の諸制度に依拠しないで,みずからの実力の行使によって地域的な支配権を確立しようとする試みとみることができる。こうした試みは,国家的観点からは無法,犯罪とされたとしても,地域社会のなかでは慣習的な正当性の意識によって支えられている面があり,そのような状況のもとでは地域世界と国家の関係はより一層複雑な性格をもつことになる。マフィアの活動はこののち変化していく部分があるが,シチリア社会に対する国家とマフィアの重層的な支配の構造は維持され,現在にまで続く。

 イタリアは1866年にベネト地方を,70年にローマを併合して,領土的な統一をほぼ完成させた。イタリア国家の首都は,1864年までトリノ,次いでフィレンツェだったが,ローマを併合すると直ちにローマを首都とした。ローマは,古代にはローマ皇帝,中世以降はローマ教皇という普遍的権威の存在によって,ヨーロッパ史のなかで際だった位置を占めてきた。だが,いまやイタリアの首都となることで,普遍的都市から国民的都市へとその歴史的な性格が変化した。ローマの性格の転換は,ローマ教皇がローマの支配権を失い,ローマ市の一隅(バチカン)に押しこめられる過程でもあった。ローマ教皇はイタリア国家との闘争に入り,カトリック信徒に国家への非協力をよびかける。イタリア史を貫いて存在する国家と教会の錯綜した関係は,この段階でローマ問題とよばれる新たな対立の局面を迎える。この対立は,ファシズム時代のラテラノ協定の締結で和解が成るまで続いた。

1880年代から90年代にかけて,イタリア社会に新しい動きが目立ってくる。それは基本的には工業化の開始と農業恐慌という二重の状況に条件づけられていたが,そのおりに政府が導入した保護主義体制にかかわるところが大きかった。この保護主義体制は諸地域の民衆の生活を圧迫し,負担を強いるものだった。民衆はこれにいろいろな形で抵抗を試みようとし,それに関連して社会主義運動とカトリック運動がしだいに力を強めてきた。政府は1887年に,工業と農業両部門の関税率を引き上げて,それまでの自由貿易政策から保護主義へと方針を転換した。保護主義体制は,北部工業の育成,ポー平原の農業家層の保護,それに南部穀作地帯の大土地所有制の保護を狙いとしたもので,農業と工業ならびに北部と南部の二重の関係の新編成を示していた。この体制によって,大土地所有にもとづく南イタリアの伝統的な社会構造が保護されたことは重要で,南部問題がますます深刻化してくる。南部問題の現実を認識した,いわゆる南部主義者が,これ以降さまざまに発言を続けていくが,その多くは政府の善政を期待するもので,南イタリアの内側に身をおいた視点はなかなか出てこなかった。この点は社会主義者やカトリックの場合も同じで,両者の運動とも北イタリアに重点がおかれていて,南部には浸透しなかった。保護主義体制で圧迫された南イタリアの民衆は,こののち移民として,年々大量の数がアメリカ大陸へ向かった。シチリアでは,この体制に反発した民衆が,シチリア・ファッシとよばれる運動を展開したが,厳しく弾圧されて終わり,そのあとやはりアメリカ大陸へ向かう移民が急増した。

 さて一方,イタリアで最も肥沃な農業地帯であるポー川流域の平野部は,資本家的農業経営が支配的で,農業労働者が多数存在した。イタリアの社会主義運動はこの地帯の農業労働者を最大の基盤として発展し,農民同盟や協同組合が盛んに組織された。ポー平原の北部からベネトにかけての一帯は,小農や小作農による農業経営が一般的で,ここではカトリック運動が強かった。国家に対立している教会は国会選挙への参加を拒否していたが,カトリック運動を通じて,精神的な面にとどまらず,民衆の日常的な社会生活の領域にもその活動を及ぼしていた。カトリックによる社会問題への取組みは,教皇レオ13世の労働に関する回勅レルム・ノウァルム(1891)によって一段と活発化し,民衆の窮状を救うための農村金庫,協同組合,民衆学校,保健施設などの設置に努力が示された。政府は民衆の抵抗,あるいは社会主義運動やカトリック運動の台頭に直面して,弾圧策を強める一方,エチオピア侵略に乗り出したりした。侵略(1896)は失敗に終わり,また民衆の不満は1898年に全国暴動を呼び起こすなど,政府の行詰りは明らかとなった。

ここで登場したのがジョリッティで,20世紀初頭の約15年間をイタリア史ではジョリッティ時代とよんでいる。この期間は急速な工業成長が果たされた時期であるとともに,議会制民主主義の形成期とも評価されている。この点に関して,ジョリッティにとって二つの問題は不可分なものとしてあった。順調な工業発展を図るためには社会的な安定が必要であり,それには労働者や社会主義勢力に弾圧策で臨むよりも,議会制の中に導きいれて統合を図る方が有利だとする判断である。しかし,二つともに地域的な限定をもっていた。工業発展は北イタリアのミラノ,ジェノバ,トリノを結ぶ三角形に集中して進行した。労働運動,社会主義運動は,これら工業地帯とポー平原農業地帯を基盤としていた。したがって,ジョリッティ時代の民主主義といわれるものは,北イタリア社会を対象としたもので,南イタリアの民衆には依然として抑圧策が続けられた。ジョリッティ時代は,また思想・文化の面でも新しい動きがみられた。クローチェ,ジェンティーレパピーニプレッツォリーニマリネッティコラディーニらがそれぞれの雑誌を中心に思想運動,文化運動を進めた。一般的にいってこの時期の文化は,実証主義に対する批判を共通の出発点としながら,精神,意志,感情の働きを強調する傾向をもち,その一部はさらに政治における暴力や直接行動の契機を重視するもので,その意味ではジョリッティの議会主義的な政治姿勢とは相反する立場にあった。

1914年に第1次大戦が勃発する。イタリアはオーストリア,ドイツと三国同盟を結んでいたが中立の態度をとり,翌15年にロンドン秘密条約にもとづいて協商国側で参戦した。戦争には590万の兵士が動員され,60万の戦死者を出した。諸地域の民衆は,この戦争のなかで,自分が国家の一員であることを統一以来初めて意識する機会をもったといえるかもしれない。イタリアはかろうじて戦勝国となったものの,戦後,これらの民衆の改革を求める運動が農民の土地占拠,工業労働者の工場占拠,都市民衆の反物価高闘争など多様な形態をとっていっせいに噴出した。また,ジョリッティ時代から徐々に政治参加を強めていたカトリックが,みずからの政党の結成にふみきり,19年に人民党をつくったのも注目されるできごとである。人民党はただちに社会党と並ぶ大衆政党となって,議会で大量の議席を獲得するが,それには選挙制度が小選挙区制から比例代表制に替わった事情も関係している。しかし,戦後のイタリアでとりわけ重要なのは,ファシズムという新しい形の政治運動が生じたことである。

ファシズム運動は1919年から始まるが,最初はミラノに拠点をおく,それほど目立たない運動だった。それが大衆性と暴力性を強めるのは20年末からのことで,地域的にはポー平原においてである。ポー平原では19世紀末以来,農業家層と農業労働者の間の闘争が激しく繰り返され,社会主義的な自治体が少なからず誕生していた。ファシズムはこのポー平原を大衆的な直接行動によって制圧したあと,北・中部の諸地域を順次獲得していき,そうした地域的な支配を背景にして,22年10月にローマ進軍を敢行する。このときムッソリーニ内閣が成立し,約20年間にわたるファシズム支配の時代が続く。ファシズムの時代を通じてムッソリーニが首相の座を独占していたが,ファシズムの内部には,サンディカリスト・ファシズム,ナショナリスト・ファシズム,テクノクラート・ファシズム,農村ファシズム,保守的ファシズムなどいくつかの潮流があって,互いに対抗しあいながらファシズム体制が築かれていった。ファシズムの支配は労働余暇組織(ドーポラボーロ)など新しい文化制度をつくって大衆の同意をとりつける一方,批判者の存在を許さない厳格な抑圧的機構をつくりあげた。そのもとで社会と経済の官僚的な統制が図られており,社会と経済はファシズムの時代に停滞したのではなく,むしろ合理的な管理のもとにおかれ始めたのである。ファシズムの歴史は同時に反ファシズムの歴史を伴っているが,イタリアがファシズムから解放される過程は,この場合も地域の問題と密接に関連していた。つまり解放は43年7月のシチリアに始まって,時間的なずれをもちながらしだいに南イタリアから中部イタリアへと進行し,45年4月の北部諸都市の解放で終わるという経過をとった。しかも,それは単に時間的なずれがあったというだけでなく,シチリアからローマまでは主として連合軍の手で解放され,フィレンツェから北の地域はレジスタンスの蜂起で解放したという解放の形態の違いも含んでいた。
反ファシズム →ファシズム

イタリアではファシズムの崩壊後,君主制の存廃を決める国民投票が1946年6月に実施され,君主制の廃止を求める票が過半数を上まわった。サルデーニャ王国以来のサボイア朝は断絶し,イタリアは共和国として生まれ変わることになった。国民投票と同時に行われた制憲議会選挙では,キリスト教民主党(得票率35.2%),社会党(20.7%),共産党(19%)の3党が他の小党を圧倒し,憲法制定の作業はこの3党を中心に進められた。1年半の審議を経て,47年12月にイタリア共和国憲法は制定され,48年1月から施行された。

 憲法審議において,諸政党は反ファシズムの共通の立場を基盤に,以前の中央集権的な国家制度を改革する点で一致し,〈州〉制度 の導入を定めた。これによって,国家統一以来の論争のまとであった地域自治の問題に一定の解決を与えることが図られた。やはり国家統一以来の争点となっていた国家と教会の関係については,審議過程で激しい論争を呼んだが,結局,ファシズム政権と教皇庁の間で結ばれたラテラノ協定をそのまま憲法第7条に挿入することになった。非カトリック勢力は社会生活への教会の介入を防ぐために,ラテラノ協定の廃棄を強く求めていたが,教会の地位は引き続き保障されることになった。

 制憲議会は憲法の制定だけを任務として,個々の立法の権限をもたなかったので,憲法に盛られた国家制度改革の精神を現実化する課題は,すべて新議会の立法活動に委ねられた。

新憲法下最初の総選挙は1948年4月に実施され,下院における主要政党の得票率は次のようになった。議会は上院と下院の2院制であるが,選挙は同時に行われ,また両院とも選挙方式は比例配分制で得票率に応じた議席数が割り当てられるため,諸政党の勢力分布は上院も下院もほぼ同じである。キリスト教民主党48.8%,社会党と共産党は合同リストで31%,社会民主党7.1%,自由党3.8%。国際情勢はこの時期すでに,米ソの対立を軸とした自由主義陣営と社会主義陣営の間で緊張が高まっており,キリスト教民主党は前者,社共両党は後者の立場を選択していた。2年前の制憲議会選挙ではキリスト教民主党と社会・共産両党の勢力が伯仲したために,この選挙はその均衡がどちらに傾くか内外の注目を集めたが,結果はキリスト教民主党の勝利に終わった。共和制イタリアにおけるキリスト教民主党の長期政権の始まりである。

 キリスト教民主党の指導部は,旧人民党やカトリック系労働組合,それに平信徒組織であるカトリック活動団の出身者から構成されていたが,この党がファシズムと君主制の崩壊したあとのイタリアで,支配政党として登場しえたことには諸種の要因が働いていた。まず,ファシズムの崩壊過程で,教会とカトリック活動団がいち早く社会諸集団の新たな結集軸として立ち現れたことが大きいが,カトリックは社会の諸領域にわたって独自の団体の組織化に努め,広範な社会層の支持を獲得した。そして,こうした大衆組織を基盤とするかたわら,君主制から共和制への移行期の官僚機構に浸透して,官僚政党としての性格も強めた。さらには,財政・金融諸機関をコントロールすることで,中小企業から大企業にいたるまでの経営家層を掌握し,これと密接な関係を結んだ。キリスト教民主党はこのような広い範囲の社会諸集団・諸階層の票を集めて議会第一党となり,デ・ガスペリ首相のもとで中道政権を組織した。

 新議会には,共和制憲法の精神に基づいた立法活動が期待されたのであるが,国際的な冷戦構造と,それを反映した国内での左右両勢力の対立の深まりによって,キリスト教民主党政権は保守的傾向を強め,制度改革に消極的な姿勢をとった。このため,憲法は新しくなったものの,民法や刑法の重要な条項でファシズム時代のものがそのまま残るという状態が生じた。それに加えて,ファシズム時代の官吏に対する公職追放の基準がゆるやかであったことも重なり,ファシズムから共和制への移行は断絶を伴ったというより,多くの面で制度的な連続性がみられることになった。

 憲法に従えば,イタリアに20の州が設けられ,それぞれ州議会と州政府を有して大幅な自治が認められることになっていた。だが,このうち実際に州制度が導入されたのは,特別州と定められたシチリア,サルデーニャ,トレンティノ・アルト・アディジェ,バレ・ダオスタの4州だけで,このあと63年にフリウリ・ベネチア・ジュリア州が成立したのを除くと,残りは70年まで実施が見送られた。特別州となったのは,地中海上で波乱に富んだ歴史をもつシチリア島とサルデーニャ島のほかに,北イタリアの国境地帯の言語マイノリティの存在する地域で,これらは皆,イタリアからの分離や自治を強く表明していたところである。

 キリスト教民主党はカトリックの大衆団体を基盤にしていたものの,党組織自体は強固とはいえず,地域の名望家層と教会に依存するところが大きかった。50年代の半ば以降,ファンファーニモーロなど新世代は,党を名望家や教会に依存する体質から脱皮させて,国家機関と大衆団体の両方にまたがる堅固な構造の党とすることをもくろんだ。そのためにとられた方法は,行政機関や公共団体の役員ポストを確保し,公的資源を利用しての大衆への利益配分という仕組みであった。つまり,既存の行政機関に加えて,社会福祉や産業活動のための公社,公団,事業団を積極的に設立し,それぞれの職種や地域住民に補助とサービスを施したのである。これら行政機関と半官半民の事業団による補助金配分を通して,キリスト教民主党は大衆団体や住民との利害関係を取り結び,国家機関と市民社会にまたがる党組織を確立していった。

 キリスト教民主党の総選挙での得票率は,53年以降40%前後の横ばい状態で,過半数に達することなく,常に連立政権を余儀なくされていたが,最大与党の立場は一貫して変わらなかった。これら連立内閣は平均寿命が1年足らずの短命内閣で,ここからイタリアの政治の不安定さが印象づけられているが,実際には内閣が変わってもキリスト教民主党を中心とする政治の枠組みは同じままであり,政治の不安定というより,政治の動態の欠如というべき現象であった。

 キリスト教民主党に次ぐ第2党はイタリア共産党で,1950~60年代の総選挙での得票率は25%前後を維持して確固たる勢力を有していた。共産党は,創設者の一人であるグラムシがファシズム政権下の監獄で書き残した《獄中ノート》を文化思想の拠りどころとし,また中部イタリアのトスカナ,エミリア・ロマーニャ,ウンブリアの地域に〈赤いベルト地帯〉とよばれる強固な基盤を築いていた。56年,書記長トリアッティの指導のもとに構造的諸改革の路線を打ち出して,社会主義へのイタリアの道を唱え,国際共産主義運動のなかでイタリア・マルクス主義の独自の立場を模索した。共産党はキリスト教民主党と並んで二大政党の位置を占めていたが,冷戦構造のもとで政権参加から排除されており,万年野党の立場に置かれていた。政治学者の間には,イタリアの政治を〈不完全な二大政党制〉と特徴づけ,二大政党が存在しながら両者間に政権交代の可能性が生まれず,政権の選択肢が閉ざされてしまっている点に政治の動態を欠く原因をみる見解もある。社会党は得票率15%弱で,第3党の位置にあったが,1950年代半ばに共産党との提携を打ち切って,社会民主主義的性格を強めた。

 イタリアは50年代後半から60年代前半にかけて,経済の奇跡とよばれる高度成長を経験するが,キリスト教民主党はこの時期に党組織の改造を果たすとともに,左への開放を提唱して,従来の中道ないし中道右派路線から中道左派路線に政策を転換する。この路線転換は社会党との連立内閣の形成として結実し,その第一歩が63年末のモーロ内閣の成立であった。このあと70年代半ばまで,内閣は交代しながらもキリスト教民主党と社会党の提携した中道左派政権が続くことになる。しかしこの時期は,他方でイタリアの社会と文化の大きな変動の時期で,議会外の社会運動が多様に展開した時期でもあった。

ファシズム崩壊後およそ10年を経た1950年代半ばから,イタリア社会のさまざまな面で変化のきざしが現れてくる。このころにキリスト教民主党の指導部で世代の交代が行われ,政府の統治方式に変化が生じたことはすでに指摘したが,54年には国営テレビの放映が開始された。テレビは新たなタイプの娯楽を提供するとともに,全国ネットで流れるいわゆる標準イタリア語の番組は,学校教育を通じてよりもはるかに効果的に,国民の間での言語の一体化に寄与することになった。55年には自動車メーカーのフィアット社がニューモデルの大衆車の生産を始め,車社会の到来を告げた。これと前後して,半島を縦断する太陽の高速道路(アウトストラーダ・デル・ソーレ)の建設も本格化した。56年は,イタリアを訪れる外国人観光客が初めて1000万人を超え,観光収入はこの国の経済にとって大きな比重を占めることになる。

 1950年代後半から60年代前半にかけての経済発展の牽引力となったのは,地域的には北イタリア,とりわけトリノ,ミラノ,ジェノバの三大都市を結ぶ工業三角地帯で,この地帯に向けて南イタリアから大量の労働人口の移動が生じた。だが,高度成長の時代が終わると社会のさまざまなひずみが現れ,60年代後半以降イタリアは多くの事件に見舞われる。まず,68年に学生の闘争が起こった。発端は高度成長後の社会に対応しえない古い教育システムへの批判であったが,それは直ちに社会的,文化的な運動へと広がり,生活上の伝統的な規範や権威に対する異議申立ての行動に転化した。翌69年には,労働と生活のふれあう地点での新しい形態の労働運動が噴出し,〈熱い秋〉と呼ばれる激しい社会状況を生み出した。1968-69年の運動は,これまでにないラディカルな方法で既成の諸制度と諸価値に批判を加え,そこからの解放の志向を表明するものであった。

 こうした状況は議会にも反応を呼び起こし,与党キリスト教民主党の抵抗を押さえて,離婚法が70年に成立した。そこでキリスト教民主党は,国民投票に訴えて離婚法の廃棄にもちこもうとした。同党は,結婚や家庭の観念を争点にして,カトリック大衆の動員を図るとともに,伝統的な価値と秩序の崩壊を望まない非カトリック市民の支持をも期待したのである。国民投票は74年に実施されたが,離婚法支持が過半数を上まわって,その存続が確定した。離婚法をめぐる経過は,これも長期の論争を経て78年に成立した人工妊娠中絶法とあわせて,市民生活,精神生活において脱カトリック化が進行し,伝統的な規範からの解放が広く求められていることを明らかにした。

 1970年にはまた,立法措置のとられないままに実施が見送られていた〈州〉制度が,ようやく実現の運びとなり,前述の特別5州のほかに,新たに15の州議会と州政府が誕生した。この結果,中部イタリアの〈赤いベルト地帯〉に共産党を主体とする州自治体が成立した。中央議会で万年野党の共産党は,かねてより地方自治体での活動を重視しており,たとえば中世都市ボローニャは,戦後一貫して共産党が市政を担当し,同党はそのボローニャを地方自治のモデル都市として機会あるごとに内外に印象づける努力をしてきた。地方選挙における共産党の進出は,こうした効果の表れでもあるが,福祉事業や社会サービスなど市民生活に直結する業務が中央の行政機関から州のそれに移行したことは,従来の行政のあり方に変化をもたらすことになる。

 このような社会変動の中で,イタリアは70年代初めから経済危機を迎える。危機の要因の一つは貿易収支の悪化である。工業化の推進による産業構造の変化は,穀物と食肉の輸入依存度を高める貿易構造を作り出していたが,これに73年秋の石油ショックが加わり,国際収支が極端に悪化した。不況が進行する一方で,物価は急カーブを描いて上昇し,国民の経済生活は苦難を強いられた。75年に労働者の生活保護のためにスカラ・モービレ(賃金の物価スライド方式)が導入されたが,経済不況は雇用情勢を悪化させ,大学卒業者を含めた青年層の失業が増大した。

 70年代はさらに,左右の過激派の政治テロが激化した時期でもある。1968年以降,直接行動を志向する議会外新左翼の運動が活発となったが,そうした中から都市ゲリラ的性格をもつ〈赤い旅団〉が生まれた。〈赤い旅団〉は国家権力の中枢部を攻撃目標として,政治家や企業家など要人の誘拐や暗殺を企て,実行した。他方,右翼の側では,ファシズムの崩壊直後から,ネオ・ファシズムの立場に立つ〈イタリア社会運動〉の活動が続いていたが,そこから分離した強硬派の集団が爆弾テロを繰り返した。爆弾テロはボローニャとその近辺で多発したが,それはボローニャが共産党市政のモデル都市であることと無関係ではない。

 こうした状況のなかで,73年,共産党書記長ベルリンゲルは,〈歴史的妥協〉のスローガンを掲げて,イタリアの危機に対処するためにキリスト教民主党と協力する用意のあることを表明した。〈歴史的妥協〉路線は内外の注目を集め,76年の総選挙では得票率33.8%に達する躍進をみせた。このころキリスト教民主党は,中道左派路線の行きづまりと離婚法問題での孤立化によって苦境に立たされており,最高幹部のモーロはそれの打開のために共産党との歩み寄りを図った。両党は中道諸党派を含めて,経済の安定と政治テロに対する治安強化を柱とする政策協定に合意し,キリスト教民主党のアンドレオッティを首班に,共産党も与党として閣外協力の立場をとる国民連帯政府の形成にこぎつけた(78年3月)。しかし,国民連帯政府の推進者であるモーロが赤い旅団に誘拐,暗殺される事件が起こり,また緊縮財政によって耐乏生活を強いられる労働者の反発も加わって,79年に共産党が与党から離脱し内閣は崩壊した。

イタリアの思想状況を考えると,カトリック思想と非カトリック思想という伝統的な区分法があるが,現実にはそこに階級的要因や地域的要因がからまって,単一ではない多様な関係が含まれている。非カトリックの領域では,クローチェが20世紀初頭以来,歴史,哲学,文芸評論,美学など多分野にわたる活動で思想界の中心的位置を占めてきた。ファシズムの崩壊後,文学者のビットリーニを中心に《ポリテクニコ》誌が刊行され,新世代による新しい文化の創造が目指されたが,政治と文化をめぐる共産党との論争にまきこまれて短命のうちに終わった。その後,グラムシの《獄中ノート》が公刊され,前述のようなイタリア・マルクス主義といわれるものが生み出されたが,グラムシの思想は単にマルクス主義のみでなく,政治と文化の幅広い分野にわたって大きな影響力をもった。こうして思想界にはクローチェとグラムシを二つの軸とする関係ができあがるが,このほか,ゴベッティサルベーミニの急進自由主義の系譜に立つ思想潮流も,社会諸事象を個別的に問題化(プロブレマティーク)する方法によって重要な位置を占めている。

 イタリアの思想状況にとって,南部問題は常に中心的なテーマのひとつであり続け,クローチェは南部社会の指導階級を論じ,グラムシは従属階級に目を向けた。共和制下で南イタリア社会は諸種の開発事業の対象とされ,少なからず変容をとげた面がある。そうした開発をめぐる議論のなかに,政府の善政に期待をよせる古典的な南部主義の考えもまだ生きている。しかし,変容をとげながらも南部の伝統的な地域世界はなおその姿をとどめており,民衆文化にはそうした姿が映し出されている。近年の傾向として,南部社会の内側に視点をすえて,そこで営まれる生活と文化の固有のありように注目しようとする見方が強まった。そこでは,キリスト教が異教的な民間信仰の要素と深く結びついていることや,あるいは呪術的信仰が根強く存続していることが明らかにされ,そのことの意味に関心が向けられている。それらはもはや遅れた世界の古い文化とみなされるのでなく,自然の世界との身近な接触のなかで生活する民衆の心性において,重要な文化要素をなしていることが指摘されている。このように民衆文化に注目し,地域世界の固有のあり方を重視する考え方は,南部問題に限らず,より広く社会と文化の全体を見直す動きに連なっており,イタリア思想界の新たな動向を示している。
イタリア映画 →イタリア音楽 →イタリア美術 →イタリア文学
執筆者:

イタリアにおいて国民経済の前提となる政治的統一が達成されたのは,1861年のことである。もっとも,統一国家が成立したとはいえ,当時のイタリアは〈圧倒的な農業国〉であった。しかも,北西部のポー川流域の平野部では比較的進んだ大規模な酪農・稲作経営が発達していたものの,中部では中世以来の伝統的な折半小作制,南部では粗放的な穀作・牧羊を軸にした大土地所有制度(ラティフォンド)といった伝統的な農業経営が支配的であった。しかしながら,1880~90年代になると,近代的大工業が創設され,銀行制度が整備された。そして,1896年から1914年にかけて,製鉄・造船・機械・綿業などを中核として,産業革命が行われた。ゴムのピレリ(1872年設立),電力のエジソン(1884),製鉄のテルニ(1884),化学のモンテカティーニ(1888),自動車のフィアット(1899),製鉄のイルバ(1905),事務機械のオリベッティ(1908)といったその後の経済発展を推進する代表的な企業の多くが,この時期に発展の基礎を築いている。ただ,北西部を中心として展開された産業革命は,〈メダルの裏〉として南部問題を生じさせた(〈メッツォジョルノ〉)。南北間の経済格差が顕在化し,南部では移民が恒常化し,シチリア西部ではマフィアが隠然とした勢力を持ち始めた。後進性という南部のイメージが定着したのは,そのためである。1922年から始まるムッソリーニ政権下では,電力・自動車・化学などの重化学工業が一層の発展を見せると同時に,国家機関による産業融資制度が発足し,〈産業復興公社(IRI(イリ))〉と呼ばれる国家持株会社が33年に創設された。現在のイタリア経済の基本的特質をなす混合経済体制が成立したわけである。

 第2次大戦は経済・社会に大きな被害を与えて,45年に終結した。戦後におけるイタリア経済の基本的な流れを見る場合,大まかに言って,(1)戦後再建期(1945-50年),(2)〈経済の奇蹟〉と呼ばれた高度成長期(1951-63年),(3)〈危機〉の時代(70年代後半),(4)〈第二の奇蹟〉の時代(1984年から90年代初頭),(5)それ以降,という五つのエポックを指摘することができる。以下では,そうした区分にしたがって,それぞれの時期の特徴を指摘しておこう。

(1)(2)戦後再建期から高度成長期まで 戦争直後のイタリア経済を特徴づけたのは,戦争による家屋・生産設備・交通手段の破壊,インフレ,食糧事情の悪化,エネルギー不足,失業,国家財政の赤字,外貨不足といった諸問題であった。そうした問題に対して,本格的な対策が採られるようになったのは,1947年のことである。というのは,第4次デ・ガスペリ内閣のもとで,ルイージ・エイナウディが,インフレの阻止と通貨の安定をめざして引締め政策を実施したからである。そして,翌48年にはマーシャル・プランによる援助が受け入れられ,戦後再建が大きく前進したことは周知の通りである。また,同じ年に,IRIの存続が決まっている。こうして,50年頃には戦前の生産力水準を回復したばかりではなく,51年から63年にかけて高度成長が達成されることになる。ちなみに,53/54年から63/64年にかけての年平均のGDP(国内総生産)の成長率は5.6%である。その数値は,日本の9.6%,西ドイツの6.0%には劣るものの,フランスの4.9%,イギリスの2.7%を大きく上回っている。その間,失業率は決して低くはなかったが,物価・国際収支・通貨などは極めて安定している。高度成長の過程で主導的な役割を果たしたのは,フィアット,エジソン,モンテカティーニ,ズニア・ビスコーザ(合成繊維,1917年設立),ピレリ,オリベッティなどに代表されるような機械・電力・化学などの民間工業部門,IRIおよび53年に創設された〈炭化水素公社(ENI(エニ))〉といった国家持株会社であった。一方のIRIは,製鉄・造船といった重工業のみならず,電話,航空,高速道路などのサービス部門にも関与し,他方のENIは,石油や天然ガスといったエネルギーの安定供給に貢献し,総じて経済発展に大きな効果を発揮している。その意味で,高度成長は,57年のEEC成立に一応の帰結を見る経済の国際化という環境のもとで,相対的に低い賃金の労働者を活用しつつ,混合経済体制を強化する形で実現されたと言えるだろう。ちなみに,経済史家のカストロノーボにしたがえば,1956年におけるイタリア人労働者の平均賃金は,イギリス人の半分程度,ドイツ人やベルギー人の3分の2以下であった。

 ところで,高度成長は,日本の場合と同様に,イタリアの社会・経済を大きく変容させた。第1に,GDPに占める農林水産業の比重は,1951年の22.8%から61年には13.9%に低下し,逆に,工業のそれは36.7%から38.9%に増加した。第2に,工業発展を地域的に見れば,北西部の〈工業三角形〉(ミラノ,トリノ,ジェノバの三つの都市とその周辺部,州で言えば,ロンバルディア,ピエモンテ,リグリア)地帯に集中していたので,南部や中部の農村から北西部の工業地帯に向けて大量の労働力の移動が見られた。〈農村からの人口流出〉が起こったわけである。その結果,労働力を失った伝統的農業は,解体と再編を余儀なくされたのである。第3に,都市化が進行し,自動車や家電に代表される耐久消費財に対する需要が急増した。また,国民経済の一層の発展のためには,後進地帯である南部をそのままの状態では放置できないという考えのもとで,1950年になると,農地改革の実施と南部開発公庫の設立によって,本格的な南部開発政策が開始された。当初,土地改良などの農業投資に圧倒的な比重がおかれていたが,57年以降,徐々に工業投資に重点が移っていった。そして,その年には,国家持株会社に対して新規設備投資の60%,全投資の40%を南部で実現することを義務づける法律が立法化された。その結果,60年代初めにはENIによるジェラの石油化学コンビナート,IRIによるタラントの大製鉄所が建設されるなど,ともかく南部にも工業化の拠点が形成されたのである。

(3)〈危機〉の時代 〈奇蹟〉と言われた高度成長は,1964年以降しだいに鈍化した。伝統的農業の解体,より直接的には69年の〈熱い秋〉と呼ばれる労働攻勢による賃金の上昇,および73年の石油ショックは,安価な労働力と石油という高度成長を支えてきた条件を解消させた。そのため,70年代におけるGDPの年平均成長率は3.8%に低下した。一挙に4倍に跳ね上がった石油価格の高騰は,インフレを引き起こし,国際収支を著しく悪化させた。70年代後半のインフレ率を記しておくと,75年19.2%,76年16.0%,77年20.1%,78年12.2%を経て,80年には最悪の21.1%を記録するといった具合である。かくしてイタリア経済は,インフレ,不況,失業,国際収支の悪化などによって特徴づけられるいわゆる〈危機〉の時代を迎えることになった。それまでの経済発展に大きな活力を与えてきた国家持株会社の動向を見ておくと,低成長下であるにもかかわらず,活発な投資活動を展開し,民間企業の吸収,合併を図り,その勢力範囲を拡大している。なお,83年における国家持株会社の従業者数は,約59万4000人で,そのうちIRIが76.6%,ENIが17.3%を占めている。ところが,組織の肥大化とともに,経営の非能率ぶりが露呈し始めた。つまり,経営・管理者層の固定化,役員人事に対する政治家や縁故主義の介在,政党との癒着などの弊害が現れ,また,倒産寸前の不採算企業の買収も加わり,経営の悪化,非効率化が深刻な問題となったのである。さらに,化学,造船,製鉄などの重化学部門の多くが,国際的競争の激化と過剰生産によって深刻な不況にみまわれた。1971年に不況産業の救済機関として,〈産業経営参画株式会社(GEPI(ジエピ))〉が創設され,その重要性がますます増加していくこと自体に不況の深刻な様相がうかがわれる。さらに,南部開発政策について言えば,南部に対する巨額の公共投資が,整備された道路網と幾つかの工業化拠点と集約的農業地帯をつくりだしたとはいえ,そのような投資対象から除外された多くの地域では,一層の経済的衰退と過疎化が進行した。したがって,南北格差は依然として縮小されず,しかも今度は南部のなかでの地域的不均衡が新たに生じている。南部の伝統的農業であるラティフォンドは確かに解体されたが,資本主義の一層の発展に対応できるような形に再編されたわけではなかったのである。そのうえ,この南部開発政策にあっても,その担い手となる諸機関の管理者層が,政党と結びついて組織の〈私物化〉を図り,そのために公共投資の非効率化が顕在化している。ともあれ,〈不安定なイタリア経済〉というイメージが広く定着したのは,この時代の危機の深刻さに大きな原因の一つがあるように思われる。もっとも,かかる〈危機〉の時代にあって,その後のイタリア経済の発展につながっていく重要な一要素が熟成しつつあったことを看過してはならないだろう。現在,世界中にその名が知られる〈メイド・イン・イタリー〉のブランドを支える数々の商品(アパレル・靴・ハンドバッグ・家具など)を製造する中小企業および従業員数10人以下のいわゆる〈職人企業〉の発展がそれである。
執筆者:


出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「イタリア」の意味・わかりやすい解説

イタリア

◎正式名称−イタリア共和国Repubblica Italiana/Italian Republic。◎面積−30万2071km2。◎人口−5943万人(2011)。◎首都−ローマRoma(262万人,2011)。◎住民−ほとんどがイタリア人。◎宗教−カトリック約97%。◎言語−イタリア語(公用語)が大部分,ほかにドイツ語,フランス語,スロベニア語など。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−大統領,マッタレッラSergio Mattarella(2015年2月就任,任期7年)。◎首相−レンツィMatteo Renzi(2014年2月就任)。◎憲法−1947年12月制定,1948年1月発効。◎国会−二院制。上院(定員315,任期5年,ほかに元大統領など終身議員7),2013年2月総選挙結果。下院,民主党293,五つ星運動109,自由と国民97,市民の選択47,左翼・エコロジー・自由37など。上院,民主党109,自由と国民91,五つ星運動54,市民の選択21など。◎GDP−2兆2930億ドル(2008)。◎1人当りGNI−3万580ドル(2008)。◎農林・漁業就業者比率−4.6%(2003)。◎平均寿命−男78.1歳,女84.0歳(2007)。◎乳児死亡率−3‰(2010)。◎識字率−98.9%(2009)。    *    *ヨーロッパ南部の共和国。〔自然・住民〕 地中海に長ぐつ形に突出した半島と,シチリアサルデーニャエルバなどの島々からなる。ティレニア海イオニア海アドリア海に囲まれる。北部にはアルプス,半島部にはアペニン山脈が走り,アペニンの西側にはベスビオ,ストロンボリ,エトナなどの火山がある。平野部は国土の約20%で,ポー川流域のロンバルディア平野,アルノ川流域のトスカナ平野など。半島部は地中海式気候で,北部はやや大陸性の気候。住民はラテン系のイタリア人でイタリア語を話し,約97%はカトリック教徒。兵役は義務制。6〜13歳の義務教育が行われている。〔歴史〕 古代ローマ帝国の中心地であった。帝国分裂後5世紀末の民族大移動期にゲルマン諸族が次々と侵入,6世紀末北イタリアにランゴバルド族が建国したが,8世紀末フランクに滅ぼされた。9−10世紀はサラセン,マジャールの侵略が繰り返され,10世紀末神聖ローマ帝国の支配下にはいったが,北・中イタリアには小都市国家(コムーネ)が分立して聖職叙任権闘争にからむ党争の場となった。東方貿易十字軍遠征の基地として経済的に繁栄し,14世紀末以来小専制君主が群立し,ルネサンスの中心となった。16世紀以降地理上の発見に続く商業革命により経済は沈滞し,列強の干渉のため統一が遅れた。19世紀リソルジメント運動,イタリア統一戦争を経て,1861年統一国家イタリア王国が建設された。20世紀にはいって北アフリカに侵入して植民地を得た。第1次大戦後ムッソリーニの下でファシズム国家となり,第2次大戦では日・独と提携したが敗れて海外領土のすべてを失い,王政を廃し,共和国となった。〔第2次大戦後〕 イタリア共和国憲法が1948年施行。国権の最高機関は議会であるが上院(定員315名,任期5年)と下院(定員630名,任期5年)が同等の権能をもっている。大統領は両院合同会議で選出され,任期7年。過半数を制する政党がないため,キリスト教民主党を中心に短命の中道連立内閣が繰り返されてきた。積年の汚職と小選挙区制導入を契機に,1994年総選挙では既成政党が大敗し,右派連立内閣が誕生したが,1996年総選挙では中道左派連合が〈オリーブの木〉という選挙カルテルで勝利した。1998年秋にそのプローディ政権が倒れ,この連合勢力内の最大政党であった左翼民主党(旧共産党)のダレーマが政権を率いることになった。〔2000年以降の政治〕 2001年総選挙で中道右派が勝利し,ベルルスコーニ政権が誕生したが,2006年4月の総選挙ではプローディ率いる中道左派連合が勝利。2008年1月,一部の連立与党の離反にともない,翌2月に上下両院が解散。4月の総選挙では上下両院で中道右派が圧勝し,ベルルスコーニが首相に返り咲いた(第4次)。1990年代に入って,ロンバルディアなど北部の経済的先進地域の自立を主張する北部同盟(1991年結成)の進出が顕著であった。伝統的に親米,NATO強化,EU推進が外交の基調。1999年からのユーロ圏始動に際し,厖大な財政赤字を抱えてきたイタリアは歳出削減を実行し,ようやく条件を満たして参加,世界第7位のGDPを有する経済大国としてEUを牽引した。しかし2010年ギリシアの財政破綻に端を発する,欧州信用不安,ユーロ危機ソブリンリスクで,国債の金利が大幅に上がり,イタリアの財政不安は深刻な状態にあることが明らかとなった。2011年11月,年金の受給年齢引き下げなどの緊縮策を議会が承認する引き替えに,ベルルスコーニ首相は退陣。マリオ・モンティを首相とする学者・実務家の内閣が発足,IMFの監視下に入ることとなった。しかし,EUと協同して財政改革・構造改革を強力に推進したモンティ内閣は短期間に一定の成果を出したものの,マイナス成長が続き失業率も高まった。ベルルスコーニは2012年12月,モンティ内閣批判を開始し首相返り咲きに動きはじめ,モンティは2013年1月大統領に辞表を提出し内閣は総辞職した。2013年2月の総選挙では,下院はモンティ改革の継承をかかげた民主党を中心とした中道左派連合が,反緊縮策のベルルスコーニ率いる中道右派連合に辛勝(しんしょう)したが,上院は逆の議席数となり,既成政党批判で反緊縮派の新党〈五つ星運動〉が議席数では第3位ながら得票ではトップと躍進する結果となった。87歳という高齢で任期が5月と迫ったナポリターノ大統領は民主党ベルサーニ書記長に組閣を委嘱したが,ベルルスコーニの政治姿勢を厳しく批判してきたベルサーニがベルルスコーニと妥協する余地はなく組閣を断念,ベルサーニは民主党書記長を辞任。最多得票で躍進した〈五つ星運動〉も自ら政権を担うと主張,さらに老獪(ろうかい)なベルルスコーニがこうした動きに介入する,という構図で組閣は進まず,各派の思惑が錯綜(さくそう)するなか6回目の投票で再選されたナポリターノ大統領は,選挙後2ヵ月を経た4月にベルサーニの後を継いだエンリコ・レッタ民主党副書記長を首相に指名し組閣を要請した。レッタ首相はベルルスコーニ率いる中道右派の〈自由の国民〉と大連立を組み,モンティの中道連合も政権に加わるというかたちで,4月末に親EUの新内閣を発足させた。しかし〈自由の国民〉は11月の党大会で,ベルルスコーニ元首相率いるグループ〈フォルツァ・イタリア〉に回帰することを決定し,同時に連立政権の離脱を表明。これに対して,アルファーノ副首相を中心とするグループが〈自由の国民〉を離脱し同党は分裂,レッタ政権を支持する〈新中道右派〉が結成された。11月上院でベルルスコーニ元首相の議員資格剥奪の投票がなされ可決,ベルルスコーニは議員資格を失った。レッタ政権は安定に向かうかと思われたが,2014年2月の民主党全国幹部会で,レンツィ書記長は,レッタ政権を批判,圧倒的多数で承認された。これを受けてレッタ首相はナポリターノ大統領に対し辞任の意向を伝達した。大統領は,各政治勢力との一連の協議を実施し,17日,レンツィ民主党書記長に組閣を指示した。レンツィ書記長は大統領に受諾する旨を伝達,レンツィ新政権が発足した。レッタ前政権を支えた民主党(中道左派),新中道右派及び中道勢力によるレンツィ連立政権は,24日に上院,25日に下院にてそれぞれ信任を得た。レンツィ首相は12月に憲法裁判所から違憲判決を下された選挙法の改正,上院などの制度改革,労働市場改革,行政改革,税制改革等に早急に取り組むとした。しかし若年層の失業率が40%近くに上昇し,しかも構造改革の柱というべき労働市場改革に強く反対している労組が民主党の基盤でもあり,目に見えるかたちで景気対策が進まなければ政権基盤がたちまちゆらぐ可能性がある。イタリアの政情不安定は世界第7位の経済規模を持つ国家の財政不安に直結し,常にEU及びIMFの金融能力そのものを脅かしてきた。イタリアは,依然としてEUの経済的・政治的火だねとなっている。〔経済・産業〕 巨大企業と零細企業とが共存する二重構造,北部の工業地域と南部(メッツォジョルノ)の農業地域との格差などがイタリア経済を特徴づける。またIRI(イリ),ENI(エニ)などの国営企業が大きな比重をもっているが,1992年にこれら国営企業の民営化法が成立,株式売却が徐々に進められている。耕地面積は国土の約50%,小麦,トウモロコシ,ブドウ,オリーブなどが主産物で,ほかに米作,養蚕,北部で牧羊,酪農が行われる。鉱産資源は豊かでなく,硫黄,水銀の産出が目だつ程度。水力発電が発達しているが,第2次大戦後ポー川流域に発見された大天然ガス田は重要なエネルギー源となっている。工業はトリノミラノジェノバなどを中心に発達し,機械,自動車,造船,化学,繊維工業が重要で,フィアット会社,モンテジソン会社,オリベッティなどの世界的な大企業がある。主要貿易国はEU諸国,米,スイス。観光など貿易外の収入も重要。南部を中心に19世紀末から20世紀初めにかけて多くの移民を米国などに送りだしており,失業は戦前から重要な社会問題であった。1950年代−1960年代にはドイツなどへ出稼ぎ移民を送りだしたが,1980年代以降はアフリカや東欧からの移民が急増した。
→関連項目アルベロベッロのトゥルッリウルビノ欧州債務問題コルチナ・ダンペッツオオリンピック(1956年)トリノオリンピック(2006年)ローマオリンピック(1960年)

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「イタリア」の解説

イタリア
Italia

東ローマ支配下のイタリアにランゴバルドが侵入し建国するが,その王国は774年フランクカール(大帝)に滅ぼされた。カール没後の混乱に封建的割拠体制が打ち出され,おりから9~10世紀にイスラーム勢力やマジャル人の侵入が繰り返される。さらに,11~12世紀には叙任権闘争により,イタリアは党争の場となった。その間に北・中部イタリアに都市コムーネが栄え始め,南イタリアには両シチリア王国が生まれた。14世紀末以来コムーネに代わって小専制君主が群立し,彼らの宮廷を中心に盛期ルネサンス文化が展開する。しかし大航海時代に続く商業革命の過程で経済は沈滞し,イタリア戦争などによりイタリアはスペインの植民地と化した。18世紀には北・中部の大半がオーストリアの手に帰し,ナポレオンの征略をへて,王政復古後は再びオーストリアに制圧された。これに対しリソルジメント運動が起こり,1861年イタリア統一がなる。統一後,三国同盟を結び,それを背景に北アフリカにエリトリアソマリアリビアなどの植民地を得たが,第一次世界大戦には英仏側に参戦。戦後,労働運動の高揚下に国民ファシスタ党が勢力を得て,1922年政権をとった。エチオピア戦争などその侵略的政策はイタリアをナチス・ドイツと結ばせ,第二次世界大戦に突入したが,43年7月王室と軍部のクーデタによりムッソリーニは失脚。バドリオ政権は無条件降伏と同時に対独宣戦し,レジスタンス運動が連合軍と協力して,イタリアをドイツの占領から解放した。46年6月国民投票により君主制の廃止が決定され,48年1月からはキリスト教民主党を第1党とする共和国が発足した。90年代前半に汚職摘発をきっかけとして政界再編が行われ,94年に第二共和政が発足した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「イタリア」の解説

イタリア
Italia
原名 La Repubblica Italiana

南ヨーロッパ,地中海の中央部に長靴形にのびた半島と,シチリア・サルデーニャの2つの島を中心とする共和国。首都ローマ
国名は,前6世紀ごろ,南イタリアの地をギリシア人がビィテリウ(Viteliu,「子牛のいる土地」の意)と呼んでいたのが,転訛化してイタリアになったという。古代ローマ以前のイタリアは,北部にエトルリア人が移住し,南部にはギリシア人の都市国家があった。前6世紀エトルリア人の王を追放したローマ人は共和政時代に地中海を征服,前27年には事実上の帝政を開始し,そののち,大帝国に発展した。この間にキリスト教をはじめとするヨーロッパ文明の原型が形成されたが,395年東西に分裂した。オドアケルののち,東ゴート王国(493〜555),ロンバルド王国(568〜774)が建国された。その後,北部はフランク王国の一部となったが,フランク王国の三分裂後,イタリアのカロリング朝は875年に断絶し,以後諸侯領の分立に加え,神聖ローマ皇帝(ドイツ王)の干渉が続く舞台となった。また,地中海に進出したノルマン人によって,12世紀前半南イタリアとシチリアに両シチリア王国が成立した。いっぽう11世紀末以来の十字軍を契機に北イタリア諸都市は東方貿易で発展し,この経済的基礎の上に,やがてルネサンス文化が花開いた。しかし,15世紀末から始まる新航路の開拓は,経済的基盤の弱いイタリアの繁栄を奪い,17世紀にはいるとイタリアは沈滞した。ナポレオン戦争(1796〜1815)後,イタリア統一(リソルジメント)の機運が高まり,カルボナリ・青年イタリアなどの自由主義者による活動が展開された。またサルデーニャ王国は,列国の対立を利用して統一運動をすすめ,1861年にイタリアの統一を達成した(イタリア王国)。第一次世界大戦後の国内経済の混乱は国民の不満を招いた。そうした情勢の中でファシスト党が台頭し,1922年ムッソリーニが政権を握って独裁体制を固めた。そして同じく全体主義の道を歩む日本・ドイツと結び,第二次世界大戦に突入したが,1943年に敗れて国王は退位し,共和政となった(1946)。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「イタリア」の解説

イタリア

ヨーロッパ南部に位置し,地中海に突出した半島とサルデーニャ島・シチリア島を含む国。漢字表記は伊太利・伊太利亜など。日本との関係はイエズス会の日本布教に始まる。バリニャーノによる天正遣欧使節が1585年(天正13)ローマ法王に拝謁。1615年(元和元)には伊達政宗の家臣支倉常長の慶長遣欧使節がローマを訪れている。開国後の正式な外交関係はイタリア王国成立後の1866年(慶応2)の日伊修好通商条約によるが,この不平等条約は94年(明治27)と1912年(大正元)に改正された。明治政府はキオソーネ,ラグーザ,フォンタネージら印刷・美術の外国人教師をイタリアから招いている。37年(昭和12)ムッソリーニ政権が日独伊防共協定,40年日独伊三国同盟を締結,第2次大戦の枢軸国を形成したが,45年ドイツ敗戦後の7月イタリアは日本に宣戦を布告した。第2次大戦後,対日講和条約発効にもとづいて52年国交回復。46年国民投票の結果共和国が成立。正式国名はイタリア共和国。首都ローマ。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「イタリア」の解説

イタリア

ドイツの作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの交響曲第4番(1831-1833)。原題《Italienische》。イタリア旅行の印象に基づいて作曲された。第4楽章はイタリア舞曲サルタレロを採り入れている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

今日のキーワード

ゲリラ豪雨

突発的に発生し、局地的に限られた地域に降る激しい豪雨のこと。長くても1時間程度しか続かず、豪雨の降る範囲は広くても10キロメートル四方くらいと狭い局地的大雨。このため、前線や低気圧、台風などに伴う集中...

ゲリラ豪雨の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android