日本大百科全書(ニッポニカ) 「モース」の意味・わかりやすい解説
モース(Marcel Mauss)
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Marcel Mauss
(1872―1950)
フランスの社会学者、民族学者。20世紀の代表的社会学者の一人であるエミール・デュルケームの甥(おい)で、その協力者であり、フランスにおける科学的・実証的人類学の礎石を築いた。ボルドー大学で哲学をデュルケームに師事し、その後、高等学術研究院およびコレージュ・ド・フランスで教鞭(きょうべん)をとる。デュルケームによって創刊された『社会学年報』(1898~1913)の編集に参加し、デュルケームの死後は『社会学年誌』(1934~1942)を主宰してその推進力となって活躍した。生涯、現地調査を行ったことはなかったが、デュルケームの理論と方法を継承し、「単純な形態の社会現象を表している」がゆえに未開社会を研究対象として、社会学と人類学の統合を図った。モースの関心はきわめて広範で、社会形態と生態環境の関係、経済、呪術(じゅじゅつ)・宗教論、身体論にまで及ぶが、とりわけ交換の問題に新次元を切り開いた『贈与論』(1925)は彼の代表的業績とされる。このなかで、交換を、法、経済、親族、宗教から人間の身体的・生理的現象、さらには象徴表現までを含む「全体的社会的事象」という新しい概念によって理解した。モースの方法はレビ(レヴィ)・ストロースの構造人類学をはじめとし、現代人類学に限りなく深い影響を与えている。
[加藤 泰 2019年1月21日]
『M・モース著、有地亨他訳『社会学と人類学』Ⅰ、Ⅱ(1973、1976・弘文堂)』▽『レヴィ・ストロース他著、足立和浩他訳『マルセル・モースの世界』(1974・みすず書房)』
モース(Edward Sylvester Morse)
もーす
Edward Sylvester Morse
(1838―1925)
アメリカの動物学者、日本研究家。6月18日メーン州ポートランドに生まれる。ハーバード大学の新ハーバード博物館でL・アガシー教授の学生助手として動物学を学ぶ(1859~1862)。ピーボディー・アカデミーの主事(1868~1871)、メーン州立大学(1870~1871)、ボードウィン大学(1870~1873)、ハーバード大学(1872~1873)などの比較解剖学と動物学教授を歴任。腕足(わんそく)類研究のため1877年(明治10)来日、横浜より東京へ向かう途中、線路の切り割りに貝殻の堆積(たいせき)をみつけ、大森貝塚の発見に至った。秋からその学術的発掘調査を開始し、画期的な報告書Shell mounds of Omori(1879年刊、邦訳『大森介墟(かいきょ)古物篇(へん)』)を刊行、日本の考古学、人類学に道を開いた。東京大学の招請を受け、同大動物学生理学教授(1877~1879)となり、日本人学者の養成にあたる。またダーウィンの進化論を初めて紹介した。1879年帰国後、ピーボディー博物館長(1880~1914)、同名誉館長(1914~1925)。1882年再来日し、陶器の収集と日本の制度や風習を研究、収集した4646点の代表的な日本陶器はボストン美術館に収蔵された。日本の学問と文化に貢献した功績で、勲二等瑞宝(ずいほう)章を授けられる(1922)。1925年12月20日マサチューセッツ州セーレムにて死去。87歳。
[渡辺兼庸 2018年8月21日]
『E・S・モース著、石川欣一訳『日本その日その日』全3巻(1929・科学知識普及会/平凡社・東洋文庫)』▽『E・S・モース著、東京都大森貝塚保存会編『大森貝塚』(1967・中央公論美術出版/近藤義郎・佐原真編訳・岩波文庫)』▽『D・G・ウェイマン著、蜷川親正訳『エドワード・シルベスター・モース』全2巻(1976・中央公論美術出版)』
モース(Samuel Finley Breese Morse)
もーす
Samuel Finley Breese Morse
(1791―1872)
アメリカの画家、電信の発明者。モールスともよばれる。マサチューセッツ州チャールズタウン生まれ。父ジェディダイアJedidiah(1761―1826)は有名な組合協会牧師で地理学者であった。1810年エール大学を卒業、肖像画家を志し、ナショナル・デザイン・アカデミーの初代校長、ニューヨーク大学の美術教授を務めた。1829~1832年フランスとイタリアに美術遊学、その帰途の船中で最新の電磁気学のことを知り、航海中に電信機の構想をまとめた。ニューヨーク大学のアトリエを実験室にし、大学の同僚ゲールLeonard Gale(1800―1883)の協力を得、点と線で表す電信符号は彼自身がくふうした。
1837年9月、最初の公開実験を、大学構内に張り渡した電信線によって行った。これを参観した鉄工場主ベイルAlfred Vail(1807―1859)が資金と工場を提供することになった。またベイルは電信符号も改良した。1838年ワシントンで公開実験をしたが議員たちの支持は得られず、ヨーロッパでの特許権の獲得にも失敗。1843年ようやくワシントン―ボルティモア間の試験線架設費3万ドルの予算を獲得、翌1844年5月24日、有名なことば「What hath God wrought(神がなせし業(わざ))」をベイルに送信した。1856年に実業家シブリーHiram Sibley(1807―1888)の指導でウェスタン・ユニオン電信会社を設立し、多くの企業を合併して成功、長年の労苦が報われた。没年までにモースの電信機とモールス符号はヨーロッパのほとんどの国に採用され、17か国から勲章を授与された。
[山崎俊雄]
モース(Friedrich Mohs)
もーす
Friedrich Mohs
(1773―1839)
ドイツの鉱物学者。ゲルンローデに生まれる。ドイツのハレ、フライベルクで教育に携わった。オーストリアに行き、1811年グラーツ大学の鉱物学教授、1816年フライベルク大学教授、1826年ウィーン大学教授となる。1812年、鉱物の硬度(ひっかき硬度)を計るための基準となる鉱物を10種選び、相対的な硬度計を考案した。これがモースの硬度計とよばれるものである。現在用いているものでは、モースが定義したときにつけられていた基準鉱物となるべき条件はすべて取り払われている。主著に『鉱物学概論』Grundriss der Mineralogie(1822)がある。
[松原 聰]
モース(Wayne Lyman Morse)
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Wayne Lyman Morse
(1900―1974)
アメリカの政治家。ウィスコンシン州生まれ。ウィスコンシン大学卒業後、ミネソタ大学で法律を学ぶ。1929年からミネソタ大学、オレゴン大学などで教鞭(きょうべん)をとったのち、1944年にオレゴン州選出連邦上院議員(共和党)に当選。1954年民主党に移籍。1968年の選挙で敗北するまで四期上院議員を務めた。1960年代にはベトナム戦争を一貫して批判し、ハト派上院議員として活躍。とくに大統領に白紙委任状を与えた1964年のトンキン湾決議にE・グリューニングとただ2人反対した上院議員として有名。
[藤本 博]
モース(Hosea Ballou Morse)
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Hosea Ballou Morse
(1855―1934)
アメリカの中国研究者。1874年ハーバード大学を卒業し、同年中国税関に就職。87年副税務司、96年税務司、1903~08年総税務司署の統計局長を務め、09年に退職。在職中から中国を研究、退職後もイギリスで研究を続けた。主要著書に『支那(しな)ギルド論』(1909)、『中国の国際関係』全三巻(1910~18)、『イギリス東インド会社の対中国貿易編年史』全五巻(1926~29)などがあり、高く評価されている。
[加藤祐三]
『増井経夫訳『支那ギルド論』(1939・生活社)』