ダーウィン
Darwin, Charles Robert
[生]1809.2.12. サロップ,シュルーズベリー
[没]1882.4.19. ダウン
イギリスの博物学者。『種の起原』を著わして生物進化の理論を確立した。 E.ダーウィンの孫。エディンバラ大学に入学する (1825) が,2年で退学,ケンブリッジ大学に入り直す (28) 。ここで植物学者の J.ヘンズローらに博物学を学ぶ。 1831年から海軍の『ビーグル』号に博物学者として乗組み,5年にわたって,太平洋,大西洋の島々,南アメリカ沿岸,ガラパゴス諸島などを訪れ,動植物相の観察や化石の採集,地質の研究などを行なった。彼は航海中に行なった諸観察から,種が変化する可能性を考えるようになり,37年よりそれに関するノートを書きはじめた。進化論の執筆を始めて (56) まもなく,R.ウォレスから彼の理論と同一内容の論文を受取り (58) ,C.ライエルらのはからいで業績の要約をリンネ学会で発表し (58) ,59年『種の起原』を出版した。ダーウィンの進化論は,彼以前の進化思想に比し,内容が科学的でしかもそれが豊富な実例によって裏づけられている点に特徴があり,強い説得力をもちえ,大きな反響を呼んだ。また『種の起原』は,環境への生物の適応を扱っており,生態学の出発点ともなっている。しかし一方で,ダーウィン自身 T.マルサスの『人口論』からの影響について述べており,また一般にその時代の自由放任主義 (レッセ・フェール) 理念の反映であるといわれることもある。進化論に対する宗教界からの攻撃には,T.ハクスリーが代って応戦した。ダーウィンは 71年『人間の由来』で,進化論を人間の起源にまで拡張した。以後,晩年は植物の運動に関する実験的研究を行い,その結果を『植物の運動力』 (80) などにまとめている。 20世紀に入って,ダーウィンの自然選択説とメンデル遺伝学とが組合わされて,現在の進化機構論が形成されている。
ダーウィン
Darwin, Erasmus
[生]1731.12.12. エルトン
[没]1802.4.18. ダービー
イギリスの医者,博物学者,詩人。 C.ダーウィンおよび優生学の創始者 F.ゴルトンの祖父。ケンブリッジ (1750~54) ,エディンバラ (54~56) 両大学に学んだのち,内科医を開業して成功。みずからの科学思想を詩に作って出版。『植物の園』 The Botanic Garden (92) ,『ズーノミア』 Zoonomia or the Laws of Organic Life (94~96) が代表作。特に後者は,進化思想を表わしたものとして名高い。動物は,そのおかれた環境に適応できるようにみずからをつくり変えると彼は考えたが,これは J.ラマルクの進化思想に共通した点を多く含み,C.ダーウィンの進化論の先駆をなすものとされている。
ダーウィン
Darwin
オーストラリア,ノーザンテリトリーの行政中心地。アーネムランド北西端に位置し,ティモール海にのぞむ港湾都市で,パースからの沿岸航路の終点。 1911年まではパーマストンと呼ばれていたが,その後 C.ダーウィン (1838来航) にちなんで改名。シドニー,シンガポールを結ぶ国際空港もある。南東 500kmにあるラリマーまで鉄道が延び,南南東 1535kmのアリススプリングズと国道で結ばれる。ノーザンテリトリーの玄関として農牧産品,鉱産物が集散される。 74年 12月のサイクロンで大きな被害にあい,建物の大半が破壊され,人口が一時減少したが,復興した。人口6万 9809 (1991推計) 。
ダーウィン
Darwin, Sir George Howard
[生]1845.7.9. ケント,ダウン
[没]1912.12.7. ケンブリッジ
イギリスの天文学者。 C.ダーウィンの次男。ケンブリッジ大学に学び,同大学の天文学,実験哲学教授 (1883) 。 P.ラプラス,ケルビンらの理論を発展させ,地球-月系の運動における潮汐摩擦効果を明らかにし,月がかつて地球の一部から切り離されたものであると主張した (現在は誤りとみなされている) 。また数学理論に基づいて太陽系の進化を議論した。王立天文協会会長 (99) ,イギリス科学振興協会会長 (1905) をつとめ,1905年バス上級勲爵士に叙せられた。
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ダーウィン
オーストラリア北部,ティモール海に臨む港湾都市。ポート・ダーウィンとも。ノーザン・テリトリーの主都。空港があり,内陸部への道路,鉄道の起点。1869年創設。地名はC.ダーウィンにちなむ。1974年のサイクロンの襲撃で市街はほぼ全壊し,新たに建設された。2004年に同国中央部のアリス・スプリングズと結ぶ鉄道が開通し,南部のアデレードまでの縦貫鉄道が完成。12万585人(2011)。
ダーウィン
英国の数理天文学者。C.ダーウィンの次男。1883年ケンブリッジ大学教授。潮汐(ちょうせき),地球の弾性,三体問題等理論的研究が多く,月が地球から分離したという月の起源論を展開。
ダーウィン
英国の医者,詩人。C.ダーウィンやゴルトンの祖父。ケンブリッジ,エディンバラ両大学で医学を学び,《ゾーノミア》(1794年,1796年)などの散文詩で進化論的思想を述べる。
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ダーウィン
[一] (Erasmus Darwin エラスムス━) イギリスの医師、博物学者。チャールズ=ダーウィンの祖父。生物進化論の先駆者の一人。主著「ズーノミア」。(一七三一‐一八〇二)
[二] (Charles Robert Darwin チャールズ=ロバート━) イギリスの博物学者、生物学者。自然選択説による進化論を提唱し、生物学ばかりでなく一般思想界にも多大な影響を与えた。測量船ビーグル号で世界を周航し、動植物、地質などの基礎調査を行なった。主著「種の起原」「ビーグル号航海記」。(一八〇九‐八二)
[三] (George Howard Darwin ジョージ=ハワード━) イギリスの天文学者。チャールズ=ダーウィンの二男。潮の満干の研究から、地球と月との体系の起源と進化を考察。主著「潮汐ならびに太陽系における類似現象」。(一八四五‐一九一二)
ダーウィン
(Darwin) オーストラリア北部の港湾都市。一八七二年電信基地として建設され、第二次世界大戦中に軍港として発展した。国際航空路の要地で、大陸横断道路の起点。白蝶貝採取の基地としても知られる。旧名パーマストン。
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デジタル大辞泉
「ダーウィン」の意味・読み・例文・類語
ダーウィン(Charles Robert Darwin)
[1809~1882]英国の博物学者。進化論を提唱。1831年から5年にわたりビーグル号の世界一周航海に加わり、動植物や地質を調査。1858年にA=R=ウォーレスと連名で進化論について発表。翌年「種の起源」を刊行。ほかに著「人間の由来」「ビーグル号航海記」など。
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ダーウィン
Charles Robert Darwin
1809〜82
イギリスの博物学者
1831年からビーグル号で南方諸地域をめぐり,動植物・鉱物の標本を採集。これをもとに自然淘汰・適者生存の進化論をたて,1859年『種の起源』として発表。この学説は自然科学・人文科学の両面にわたって大きな影響を与えた。
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ダーウィン
生年月日:1848年8月16日
イギリスの植物学者
1925年没
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ダーウィン【Darwin】
オーストラリア,ノーザン・テリトリーの主都。人口6万8000(1991)。平均気温は最暖月(11月)29.6℃,最寒月(7月)25.1℃,年降水量は1536mmで,5~10月が乾季となる熱帯サバンナ気候である。同国北部の交通・通信の拠点で,港湾および国際空港がある。1839年,ビーグル号のストークスが来航し,科学者ダーウィンにちなみ命名した。69年に入植されパーマストンPalmerstonと名付けられたが,1911年に公式にダーウィンと改称された。
ダーウィン【Charles Robert Darwin】
1809‐82
イギリスの博物学者。自然淘汰による進化論を提出。著名な進化思想家E.ダーウィンを祖父とし,医者ダーウィンRobert Darwin(1766‐1848)を父とする。母方は陶器製造で有名なウェッジウッド家。幼少年期より,昆虫採集,狩猟などに興味をもった。エジンバラ大学医学部に入学したが中途退学して,ケンブリッジ大学神学部に学ぶ。地質学,動物学に関心をもつ。A.vonフンボルトの《南アメリカ旅行記》に魅せられ,探検旅行の夢をもつ。
ダーウィン【Erasmus Darwin】
1731‐1802
イギリスの医師で詩人,進化思想家。C.ダーウィンの祖父。発明の才もあり,リンネの紹介者,ルナ・ソサエティの創立メンバーとしても著名。著書《植物の園》(1789,91),《ゾーノミア》(1794,96),《自然の殿堂》(1803)に進化思想が現れている。フィラメント状の生命がかつて一度だけ海に生じて,漸次,種々の生物に発達したとし,G.L.L.deビュフォンの影響がうかがえる。詩作はロマン派詩人に影響を与えた。
ダーウィン【George Howard Darwin】
1845‐1912
イギリスの天文学者。進化論で著名なC.ダーウィンの次男である。ケンブリッジ大学で天文学を専攻し,1868年に同学を卒業後,特別研究員を経て83年同学の天文学および実験物理学の教授となった。潮汐論,天体形状論,三体問題の周期解の研究などで多くの業績がある。とくに月が地球から分離したという月の起源論は歴史的に著名である。92年に王立天文学会の金牌を受賞し,99年には同会会長となった。主著に《潮汐》(1897)があり,また《科学論文集》全4巻(1907‐11)が刊行されている。
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世界大百科事典内のダーウィンの言及
【ノーザン・テリトリー】より
…アボリジニーが人口の約1/4を占める。主都はダーウィン。主産業は牧畜と鉱業。…
【遺伝学】より
…現在この分野では電離放射線や紫外線,さらには化学物質による遺伝子突然変異や染色体異常の誘発機構,これら変異原mutagenによるDNAの損傷とその修復の機構,変異原に対する感受性を修飾する遺伝的・環境的要因の解析,さらには変異原の育種的利用などが重要な問題となっている。
[集団遺伝学population genetics]
C.ダーウィン(1859)は生物の進化が淘汰によることを示す多くの証拠を得たが,淘汰の対象となる変異の出現機構については明らかにできなかった。遺伝子の自然および人為突然変異の研究はこの問題に大きな手がかりを与え,遺伝学が進化機構の解明に深くかかわることとなった。…
【獲得形質】より
…下って18~19世紀のJ.B.deラマルクは彼の進化論を展開するにあたって獲得形質遺伝を肯定していて,キリンの首が長い理由を説明する際に採用した用不用説(使用する器官は発達し,不使用器官は退化する)は有名である。19世紀のC.ダーウィンやE.H.ヘッケルも肯定的立場にあった。とくにダーウィンは彼の遺伝理論パンゲン説を論ずる中でそのことを述べている。…
【ガラパゴス[諸島]】より
…1832年よりエクアドル領。1835年,C.ダーウィンがビーグル号でこの島を訪れ観察を行った。その成果は《ビーグル号航海記》や《種の起原》にとり入れられたため,この島は一躍有名となった。…
【屈性】より
…屈曲運動は刺激源に面する側とその反対側での生長の差によっておこり,刺激の種類に応じて屈光性phototropism,屈地性geotropism,屈熱性thermotropismなどに分けられる。屈光性の存在は,すでに1880年にC.ダーウィンがイネの子葉鞘(しようしよう)での観察にもとづいて指摘している。ウェントF.W.Wentは,アベナの子葉鞘の先端部で形成されたオーキシンが基部へ輸送される途中で片面を照射すると,光側のオーキシンの流れが影側へとそらされ,その結果として影側でのオーキシン濃度が増加し光側で減少することを明らかにした(1928)。…
【毛】より
… ヒトが無毛に近いことの理由づけは多彩である。C.ダーウィンはヒトがもと熱帯にいたから炎熱にさらされて毛を失ったとする説を紹介し,これでは頭髪を説明できないし,毛のないのはヒトに直接の利益とならないから自然淘汰ではないとする。彼は女性が男性より毛が少ないことから,体毛のないのは二次性徴の一つであり,まず女が体毛を失って後に男にも伝えられたと考えた。…
【形態学】より
…この潮流を背景にして,19世紀初めごろE.ジョフロア・サン・ティレールやG.L.C.F.D.キュビエらが動物界全体の比較解剖学を新しい科学として確立する。他方,このころラマルクにより,次いで19世紀中ごろC.ダーウィンによって生物進化論が創始され,これを転機として形態学と分類学は近代的な展開を見せることになる。この過程でE.H.ヘッケルは,対称性によってすべての動物の体制と外形を幾何学的に分析し,その種別によって動物界を分類しようとする形式的な比較形態学を構想して,これを基本形態学と呼んだ。…
【古生物学】より
…当時の研究では生物の歴史が大局的には前進的であることが示されていたが,漸進的変化による進化を証拠づける材料が化石の研究からはほとんど出てこなかった。ライエルの斉一説の影響下でC.ダーウィンが《種の起原》を著した当時(1859),化石上の証拠に採用された例はわずかにすぎない。しかし,彼の唱えた自然淘汰説を肯定するにせよ否定するにせよ,その後の古生物学はこの問題に取り組まざるをえなかった。…
【痕跡器官】より
…フランスのラマルクは《動物哲学》(1809)の中で,進化の要因としていわゆる用不用の説を述べ,ある器官が頻用されるのも廃用されるのも環境の影響によるとした。またC.ダーウィンは《種の起原》(1859)の中で独自の自然淘汰説を痕跡器官の起源に対して適用した。彼は哺乳類の雄のもつ乳頭,ある昆虫の雌で退化している羽など,雌雄間での器官の分化を含めて多くの痕跡器官の例をあげている。…
【サンゴ礁(珊瑚礁)】より
…
[礁形成についての諸説]
サンゴ礁にはなぜこのような六つの主タイプができ,かつその分布に規則性があるのであろうか。かつてC.ダーウィンは1842年にサンゴ礁に裾礁,堡礁,環礁と三つの基本型を指摘し,陸地の沈降,すなわち海洋底の沈降にともない,裾礁から堡礁,さらに環礁へと順次移化していったとする沈降説subsidence theoryを唱えた。続いてJ.D.デーナは53年にサンゴ礁背後の島の海岸線の屈曲と溺れ谷の存在は沈降説の地形的証拠であるとした。…
【自然淘汰】より
…生物進化のしくみの中で,最も重要なものと考えられている過程。C.ダーウィンとA.R.ウォーレスが1858年に提出した進化論における進化要因論の中心をなす概念であり,現代進化学においても重要な地位を占める。 今日,この言葉はいくつかの意味に用いられている。…
【種の起原】より
…C.ダーウィンによる進化論の古典的著作(1859)。正しくは《自然淘汰の方途による種の起原On the Origin of Species by Means of Natural Selection》と呼ばれるように,その内容は進化の要因が主に自然による淘汰にあるとする。…
【進化論】より
…生物進化論の歴史はC.ダーウィン以前,ダーウィン,ダーウィン以後に大きく3区分することができる。しかしダーウィン以前のうち,古代ギリシアの自然哲学における進化思想は時代的にもかけ離れており,近代の進化論とは区別して扱われねばならない。…
【精神分析】より
…〈エネルギー保存の法則〉を定式化したH.L.F.vonヘルムホルツの影響は,フロイトの徹底した決定論とエネルギー経済論に反映しているし,階層的・局所論的な心的構造論は,彼自身がかつてJ.H.ジャクソンの思想的影響を受けた神経学者であったことと関係していよう。さらにその人格発達論と退行理論にはC.ダーウィンの進化論の裏打ちがある。またJ.F.ヘルバルトの自然科学的・機械論的見地に立つ心理学とフロイト心理学の類似性もしばしば説かれている。…
【生態学】より
…それはE.H.ヘッケルが1866年に造ったÖkologieであった。彼はC.ダーウィンの影響の下に動物学の体系化を企てたが,その中において,従来の生理学や形態学その他の分野のほかに,〈動物の無機環境に対する関係および他の生物に対する関係,とくに同所に住む動物や植物に対する友好的または敵対的な関係〉を研究する分野を認める必要があることを述べ,その分野にÖkologieと命名した。このことばを英語化したものがecologyである。…
【生態的地位】より
…もちろん,これは観念的なものにすぎなかったが,自然界の実態をいくらかは反映するものだった。C.ダーウィンはこの観念を受けて,《種の起原》(1859)で自然淘汰を論じた際に,〈the place in the economy of nature〉という表現をなん度も使ってこの考えを明らかに述べている(ここでeconomyとは経済ではなく,自然の理法,自然の秩序を意味する)。このダーウィンの考えを受け継いで生態的地位ということばを導入し定義したのはC.S.エルトンであった(1927)。…
【動物行動学】より
…エソロジーということばは,I.ジョフロア・サンティレールが1859年に〈本能,習性など生物の表す行動と環境の関係を研究する学問〉として提唱したのに始まる(ただしこのことば自体は,それ以前にJ.S.ミルが〈人生学〉という意味合いで使っていた)。以後,さまざまな曲折を経るが,現在では〈ダーウィン以後の近代生物学のあらゆる手法を用いて動物の行動を研究する学問〉(K.ローレンツ)というのが,最も広く受け入れられている定義である。具体的には(1)行動の観察および記載,(2)その行動のメカニズム,(3)その行動の生物学的意味すなわち機能,(4)その行動の個体発生,(5)その行動の系統発生すなわち進化,以上五つのレベルに関する研究がある。…
【突然変異】より
…この場合,細胞は当面の死をまぬがれるが,多くの場合,突然変異をもつことになる。
[突然変異と進化]
C.ダーウィンは《種の起原》において,現存する生物種の多様性は進化の産物であるという考えを提唱した(1859)。彼は自然観察を通して,種内にも個体差があり,種の違いにも連続性があることに気づいたのである。…
【農学】より
…それよりしばらく後の,ドイツ人植物生理学者さらに農学者ともいうにふさわしいザックスJ.von Sachs(1832‐97)は,光合成を含めて,広く植物の全般にわたる生理学研究を行い,それを取りまとめた植物・作物生理学の祖述者となった。光合成の研究に対して遺伝・育種分野で見落とすことのできない研究成果は,イギリス人C.ダーウィン(1809‐82)の諸業績,とくに《種の起原》《飼養動植物の変異》やオーストリア人G.J.メンデル(1822‐84)のエンドウを材料とした〈植物雑種の研究〉である。
[ソ連]
ソ連における現代農学創出にあたってまずあげるべきは,ダーウィンとならび称され,とくに植物生理の分野で業績をあげたK.A.チミリャーゼフ(1843‐1920)である。…
【博物学】より
…18世紀から19世紀にかけて,折からの帝国主義の台頭に合わせて,珍奇な動植物や未知の秘境を求めて多くの探検旅行が組織され,膨大な量の博物学的知識が蓄積された。やがてビュフォンの《自然誌》,カントとラプラスの太陽系起原論,ライエルの《地質学原理》,ラマルクとC.ダーウィンの生物進化論などの相次ぐ発展によって,これら多様な自然物(のみならず自然全体)は歴史的に形成されたものであるという認識が加えられて,博物学は自然史学としての性格も併せもつようになった。そして19世紀半ば以降,自然の多様性の研究は単なる記載・分類の学ではなくなった。…
【ひげ(髭∥鬚∥髯)】より
…奈良時代から平安時代までの支配階級のなかには,肖像画にひげを残す人物も少なくないが,実際ひげがあったかどうか不明である。C.ダーウィンは,インドを境として以西の諸人種にはあごひげがよく発達しているが,以東では日本人も含めてひげは少なく,アイヌだけが例外であるという。けれども,ひげは民族の遺伝的特徴だけでなく,文化的特徴も現しているから,時代による風俗の変遷を無視して一概にひげの多少を決めつけることはできない。…
【フエゴ[島]】より
…オナの場合は血縁を基礎にしたバンド組織があり,領有する一定地域内で獲物を求めての移動生活をしていた。フエゴ島民に初めて接したヨーロッパ人はマゼランであったが,ダーウィンもビーグル号の航海で接している。もともと人口は少なかったが,19世紀末から羊の牧草地を求めて白人の入植が盛んになり,疫病の流行が主たる原因で人口が激減し,今日では絶滅に近い。…
【蔓脚類】より
… 蔓脚亜綱にはもう一つ無脚目Apodaというのがあった。進化論で有名なC.ダーウィンは蔓脚類の研究も熱心に行った。大英博物館にはそれらの標本が今もたいせつに保存されている。…
【痛み】より
…しかし,ここでも,まだ痛みを感覚とみたわけではなく,依然として情動の一つとされ,考えることのできない他の動物には精神がないので,痛みを感ずることができないとされていた。1794年になって,E.ダーウィンが過度の刺激によって温覚,触覚,視覚,味覚あるいは嗅覚(きゆうかく)が誇張されると痛みが起こるという考えを発表した。今日のように,痛みを独立した感覚とみなして他のすべての感覚から区別するようになったのは,19世紀の末になってからである。…
【ウパス】より
…毒を吐き散らすこの木の下で眠った人間は生命を落とすと恐れられ,死のシンボルともなったほどである。しかし18世紀に博物学者E.ダーウィンが詩による植物学解説書《植物園》(1789‐91)を著し,ウパスの毒を大きく取り上げてからは,この伝承が真実味を帯びてふたたびヨーロッパに広まることになった。その際,新たな情報源になったのは,オランダ東インド会社の外科医N.P.フースによるジャワ産ウパスについての記述であった。…
【進化論】より
…生物進化論の歴史はC.ダーウィン以前,ダーウィン,ダーウィン以後に大きく3区分することができる。しかしダーウィン以前のうち,古代ギリシアの自然哲学における進化思想は時代的にもかけ離れており,近代の進化論とは区別して扱われねばならない。…
【不老不死】より
…まずビュフォンは《博物誌》の中で,ファウスト伝説のような不死者が医学的に存在しえないことを指摘し,科学的長寿法をもとめることが新しい科学の課題の一つであると主張した。イギリスではE.ダーウィンが《ゾーノミア》を書き,老化現象を肉体の反応機能の鈍化とみなして,興奮や緊張など過度な肉体反応を控える生活を長寿の秘訣とした。また20世紀に入ると,E.メチニコフが食菌作用の面から老衰の解明を行い,ヨーグルトを飲用するブルガリアの長寿村と乳酸菌の因果関係を指摘した。…
【ルナ・ソサエティ】より
…十数人から成る地域的団体であったにもかかわらず,医学,化学,博物学の一流学者と実業家が参集し,ここから新興都市の産業革命熱を背景に蒸気機関や紡績機械,陸運・水運の改良,工業用苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)や陶器の新製法,教育方法の改革など,応用科学を中心に多くの業績が生まれた。その発端は1765年に締め金具の製造者ボールトンMatthew Boultonと医師E.ダーウィン(C.ダーウィンの祖父),教育者スモールWilliam Smallがアメリカ人フランクリンとともに催した月例談話会にある。これに陶器業者ウェッジウッド,蒸気機関の開発者ワット,化学工業の開拓者キアJames Keir,馬車の緩衝装置を発明したエッジワースRichard Edgeworth,それに気体化学の先駆者J.プリーストリーが加わり,相互啓発によって多数の新くふうや理論を生みだした。…
※「ダーウィン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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