西欧のいくつかの共産党が,旧ソビエト連邦に代表される伝統的な革命戦略と社会主義体制のモデルを批判し,それらの国自身の社会的・政治的状況に応じた戦略と体制像を追求しようとした傾向を指すことば。広義には,ヨーロッパに限らず,発達した資本主義国の共産党(たとえば日本やオーストラリアなど)がこのような動きを示す場合にも用いられる。この用語が広く使われたのは,1970年代後半であった。それはこの時期に,イタリア,スペイン,フランス3国の共産党が,歩調をそろえてソビエト的社会主義を批判し,各国の政治的変革について独自の戦略を強く打ち出し,また共産党を含んだ政権が成立する可能性さえ指摘されていたからであった。
ソビエト的モデルの特徴は,革命の方法としての二重権力と武装蜂起,政治支配の形態としての一国家一党制,そして経済的システムとしての中央集権的計画経済の諸点に要約される。これに対しユーロコミュニズムの諸党は,平和的移行,プロレタリア独裁という用語の廃止,複数政党制,言論・思想の自由の保証を掲げた。また,この立場からソビエト連邦内の反体制派への抑圧を非難し,政治的民主主義の回復を求めたのである。1930年代から50年代にかけて定着したソビエト的社会主義,いいかえればスターリン主義のイメージを打破する試みは,1956年のソビエト連邦共産党第20回大会における〈スターリン批判〉によって触発され,イタリア共産党の構造改革路線(構造改革論)などの形をとって発展していった。1968年のチェコスロバキア民主化に対するソ連軍の介入と弾圧は,前述の3党をはじめとする多くの西欧共産党による批判の対象となった。ソビエト外交に対する公然たる批判をこれらの共産党が示したのは初めてのことであった。ユーロコミュニズムは,このような一連の動きの延長線上にあったといえる。なかでもそれまで〈クレムリンの長女〉と呼ばれるほどソ連に忠実であったフランス共産党が,1972年以降社会党との連合を背景に政権への道を現実化させ,それに応じて〈フランスの色をした社会主義〉という標語や〈プロレタリア独裁〉の放棄などを通じて,国民的支持を広げようとしたことは,ユーロコミュニズムの形成にあずかって力があった。他方,イタリア共産党にとっては,慢性的な内閣危機と,経済不況のなかで,保守のキリスト教民主党との大連合(いわゆる歴史的妥協)を通じた変革の道を容易にするために,またスペイン共産党にとってはフランコ独裁体制の崩壊と民主化を促進し,そのなかで有力な地歩を占めるために,ユーロコミュニズム的路線はいっそう必要とされたのである。
このような動向に対し,ソビエト連邦共産党の指導者たちは,ユーロコミュニズムを〈新たな反ソ主義〉〈マルクス=レーニン主義からの逸脱〉と規定し,厳しい反撃を加えた。しかし激しい対立にもかかわらず,ユーロコミュニズムによるソビエト社会主義への批判には明らかな限界があった。第1に,ソビエト連邦や東欧諸国における自由をめぐる問題については盛んに論議されたが,〈下部構造〉すなわち経済体制の社会主義的性格は前提とされ,官僚主義的・集権的な経済運営にまで批判が十分に及ばなかった。また第2に,社会主義陣営内のそれは別として,一般にソビエト外交に対しては肯定的であり,とくに第三世界の反帝国主義闘争については,ソビエト連邦の役割が高く評価されていた。さらにレーニン主義の組織原則である〈民主的中央集権主義(民主集中制)〉は依然として正統とされ,党官僚制の改革への道が開けなかったことが挙げられる。
ユーロコミュニズムの一角は,1977年秋フランスで崩れはじめる。国有化,社会政策,防衛問題などをめぐって社会・共産両党間の対立が激しくなり,翌年の総選挙で勝利を確実視されていた左翼連合は大敗した。それとともにフランス共産党は,伝統的なモスクワ寄りの姿勢を復活させ,〈ソビエト社会主義の成果〉を肯定し,ソ連軍によるアフガニスタンへの介入,ポーランド〈連帯〉への抑圧を是認するにいたった。ユーロコミュニズムは分裂し,代わってイタリア共産党のベルリングエルとミッテランやブラントらのヨーロッパ社会主義政党の指導者との会談が行われ,〈ユーロ・レフト(ヨーロッパ左翼)〉ということばも使用されるようになった。1980年代に入ってフランスとスペインでは社会党主導の政権が成立し,共産党の勢力は後退した。イタリアでも共産党の伸張は頭打ちとなり,社会党首班の連合政権が成立した。
1960年代以来日本共産党が掲げてきた〈自主独立路線〉は,ユーロコミュニズムということばが登場する以前から,その内容を先駆的に示してきたという側面がある。ソビエト連邦,中国からの〈大国主義的干渉〉に対する同党の反発は一貫して激しかったからである。
ソ連・東欧社会主義体制の崩壊,冷戦の終結以降,ヨーロッパの共産党は各国の政治状況に応じて多様な道をたどっている。たとえばイタリア共産党は分裂し,その穏健な部分は〈左翼民主党〉と党名を変え,社会民主主義に転換した。1996年の選挙では同党が率いる中道左派連合が勝利し,政権を担っている。フランスでも1997年の議会選挙で左翼連合が勝利し,共産党は13年ぶりに政権に復帰したが,依然として〈労働者主義〉の伝統が強く,ヨーロッパ通貨統合などをめぐって社会党との緊張関係を保っている。
執筆者:野地 孝一
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1970年代に、主として西欧諸国の共産党、とくにイタリア共産党、フランス共産党、スペイン共産党が採用した、ソ連型の伝統的あり方とは異なった共産主義運動の革命路線・政策・活動スタイル・思考様式の総称。
ユーロコミュニズムということば自体は、もともとジャーナリズム用語で、1975年7月のイタリア共産党書記長ベルリングエルとスペイン共産党書記長カリリョの会談を報じた、イタリアの有力紙『スタンパ』のレビ編集長の命名といわれる。ユーロコミュニズムの路線をとった共産党は、イタリア、フランス、スペイン共産党が代表的であるが、イギリス、スウェーデン、ベルギー、デンマーク、日本、オーストラリアなどの各共産党も基本的に同様の方向をとった。この意味で、ユーロコミュニズムは、1989年東欧革命、91年ソ連解体でコミュニズムの総体が崩壊する以前の、国際労働運動・共産主義運動内の一つの潮流であった。
ユーロコミュニズムの政治路線・革命路線の特徴は、社会主義へのナショナルで民主主義的な道の主張であり、自由・民主主義と両立可能な、民主主義的で多元主義的な社会主義を展望した。ユーロコミュニズムは、1956年のソ連共産党第20回大会におけるスターリン批判に起源をもち、それはまずイタリア共産党における「社会主義へのイタリアの道」の定式化により開始された。そこでは、ソ連の社会主義建設過程でのスターリン主義的抑圧が、単にスターリン個人の誤りや個人崇拝に起因するものではなく、政治的・社会的諸制度の誤りであったことが述べられ、イタリアにおける社会主義への変革過程は、ソ連がたどった道をモデルにしたり模倣したりするのではなく、反ファシズム闘争の所産であるイタリア共和国憲法を順守した、民主主義的方法による社会構造の改良であることが明示されていた。それまでの国際共産主義運動は、世界で初めて社会主義革命を達成したソ連共産党が名実ともに指導権を専守しており、他の社会主義国の指導者交代に介入したり、資本主義国の共産党の政治路線策定に干渉したりすることもしばしば行われていた。しかし、中ソ論争、チェコスロバキア「プラハの春」とワルシャワ条約機構軍によるその干渉的圧殺(1968)などの事態は、スターリン時代の数々の抑圧の事実の歴史的検証の進行と、ソ連・東欧諸国での自由と民主主義の制限の実態が西欧諸国民の常識として定着している状態と相まって、西欧諸国共産党の「モスクワ離れ」、国際共産主義運動における多中心主義、自主独立の主張を生み出し、「プラハの春」圧殺に際しては多くの共産党がソ連批判を行い、ソ連型社会主義全体をも批判的に分析するようになった。また、「プラハの春」と同時期に勃発(ぼっぱつ)したパリの5月危機やイタリアの労働運動高揚の経験は、西欧先進国におけるソ連・東欧型とは異なる革命路線と政治指導の必要を各国共産党に痛感させた。さらに南米チリにおける人民連合政府の実験(1970~73)が、その敗北の経験を含めて、ソ連共産党第20回大会でも承認されていた国民多数に依拠しての選挙と議会を通じての社会主義への平和的移行の路線を具体化させることになった。
こうして形成されたユーロコミュニズムは、平和革命の路線を、フランス共産党の社会党との「左翼連合」、イタリア共産党のキリスト教民主党を含む「歴史的妥協」、スペイン共産党のフランコ独裁打倒後の「モンクロア協定」参加、日本共産党の「民主連合政府」構想などのように、それぞれの国情にあわせて具体化していった。この過程で、すでにイタリア共産党では放棄されていた「プロレタリアートの独裁」という用語も、各国共産党により放棄ないし再定義された。「マルクス・レーニン主義」という用語も、後進国ロシアの革命過程から生まれスターリン時代に定式化されたものとして使われなくなった。ソ連・東欧型社会主義への批判は、社会主義像そのものを、現存社会主義を反面教師とした新しい構想に導いた。思想・言論・集会・結社・出版の自由など市民的自由と基本的人権の尊重はもとより、社会主義のもとでも複数政党制と民主的政権交代が認められるものとされ、「自主管理社会主義」「多元的社会主義」として諸個人の個性と社会の多元性が開花するものと規定された。
しかし、1989年の東欧革命、91年ソ連解体は、ソ連・東欧型の現存社会主義を最終的に解体し、その政権を担ってきた共産主義政党を崩壊に導いた。ユーロコミュニズムをかかげてきた共産党も、イタリア共産党の左翼民主党への変身をはじめ、多くは共産主義そのものを放棄し、解散したり社会民主主義へと転換していった。
[加藤哲郎]
『E・ベルリングェル著、大津真作訳『先進国革命と歴史的妥協』(1977・合同出版)』▽『田口富久治著『先進国革命と多元的社会主義』(1978・大月書店)』▽『S・カリリョ著、高橋勝之・深沢安博訳『“ユーロコミュニズム”と国家』(1979・合同出版)』▽『加藤哲郎著『東欧革命と社会主義』(1990・花伝社)』
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ソ連共産主義と一線を画し,民主主義的な変革の道を求めるという共産主義の流れ。1975年,イタリア共産党書記長ベリングェルがスペイン共産党書記長カリリョとイタリアで会見した際の合意内容を,新聞『スタンパ』が一般化したとされる。修正を施されながらも,70年代に西欧諸国の共産党に浸透。77年にイタリア,スペイン,フランスの3共産党の共同声明が出された。
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…一枚岩主義からの脱却という点でいちばん前進したのは,ソ連共産党からの各国共産党の〈自主独立〉という面においてであり,この点では,コミンフォルム除名後のユーゴスラビア共産主義者同盟,60年前後からの〈中ソ論争〉や50年代半ば以降のイタリア共産党,日本共産党などが積極的役割を演じた。路線の面では,第8回大会(1956)以降のイタリア共産党,ついで日本共産党,フランス共産党,スペイン共産党などが,いわゆる先進国革命路線をとり,ユーロコミュニズムの潮流が形成された。その特徴は,(1)統一戦線勢力が国会などにおいて圧倒的多数を占めることを足がかりとして社会主義への平和的移行が展望されていること,(2)それにともなう〈プロレタリア独裁〉概念の放棄ないし訳語の変更,(3)将来の体制における議会制民主主義,複数政党制,基本的人権の尊重の公約などである。…
※「ユーロコミュニズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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