イタリア中北部,エミリア・ロマーニャ州の同名県の県都。人口14万9084(2005)。アドリア海から約10km内陸に位置。古代ローマ時代には,海岸に沿ったローマ道上にある軍事上の要地であった。402年,ミラノにかわって西ローマ帝国の首都となり,476年に帝国を倒したオドアケル,493年に彼を破ったテオドリック大王もここを都とした。540年,ユスティニアヌス1世(大帝)が攻略し,ビザンティン帝国の主要都市となる。これらの時代(5~6世紀)の建築が多く残存し,そのほとんどに優れたモザイク装飾がある。他の地域では同時代の遺例が少ないため,今日,初期ビザンティン美術,とくにモザイクの宝庫として貴重である。
5世紀中葉のガラ・プラキディア(テオドシウス帝の娘)の廟は十字形プランの建築で,内部の濃紺地に金色の十字架と多数の星,さまざまな幾何学文様,古典的表現の〈善き羊飼い〉などのモザイクが施される。大聖堂(正統派)洗礼堂は5世紀中葉の八角形プランの建築で,円蓋に〈キリストの洗礼〉と〈十二使徒〉が表されている。アリウス派洗礼堂のモザイクは5世紀末~6世紀初めに正統派のそれを模して作られたが,背景は金地,衣の襞(ひだ)も様式的で,表現は中世化している。サンタポリナーレ・ヌオーボSant’Apollinare Nuovo教会はテオドリックにより6世紀初めに創建されたバシリカ式建築で,当時のモザイクも残るが,聖人と聖女の行列などの華麗な作品はユスティニアヌス時代の改作である。サン・ビターレSan Vitale教会は547年献堂の集中式建築で,内部装飾は豪華を極める。ユスティニアヌスと随臣たち,皇妃テオドラと侍女たちのモザイクはとくに有名。近郊のサンタポリナーレ・イン・クラッセSant’Apollinare in Classe教会は549年献堂のバシリカ式建築で,祭室のモザイクや6世紀の石棺を多数保存する。他に単一の石材で造った円蓋を頂くテオドリックの廟(520ころ)なども残る。
ラベンナの繁栄は6世紀を頂点に以後衰退し,751年ランゴバルド族の手に落ち,次いで756年ピピンによって教皇領とされた。8世紀末ここを訪れたカール大帝は豪華な建築に魅せられ,自国の首都アーヘン造営の参考とした。ダンテは1321年にこの町で没し,その墓がある。現在,製糖,織物(ジュート),精油,化学肥料などの工業が行われる。また付近から天然ガスを産出。
執筆者:井手 木実
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イタリア北東部、エミリア・ロマーニャ州ラベンナ県の県都。人口13万8204(2001国勢調査速報値)。全長12キロメートルのコルシーニ運河によってアドリア海に面するポルト・コルシーニと結ばれる。豊かな農業地帯に位置し、農産物の取引や食品工業が行われていたが、1953年メタンガス田の発見を契機として重化学工業都市に転身し、石油化学、石油精製、繊維、セメントなどの工業が発達した。ビザンティン式モザイク芸術の宝庫であり、ガッラ・プラチーディア廟墓(びょうぼ)(5世紀)、サン・ビターレ聖堂、サン・タポリナーレ・ヌオーボ聖堂、近郊のクラッセにあるサン・タポリナーレ・イン・クラッセ聖堂(いずれも6世紀)などに傑作をとどめている。サン・ビターレ聖堂のユスティニアヌスとテオドラのモザイクはとくに有名。
[堺 憲一]
海に向かって開け、内陸部に対しては沼沢地を天然の要塞(ようさい)としたラベンナは、すでに紀元前1世紀から軍事的要地であった。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(在位前27~後14)がクラッセ港を開き艦隊基地としてから急速に発展し、402年西ローマ帝国の首都がミラノから当地に移されてさらに拡大整備された。帝国を倒したオドアケル、493年に彼を倒した東ゴート王テオドリックもここを首都とし、ユスティニアヌス1世のイタリア再征服(554)以後は、ビザンティン帝国の出先行政府の所在地となった。6世紀を頂点にその繁栄は陰りをみせ始め、751年ランゴバルド人に征服され、756年フランク王ピピンにより教皇領とされた。神聖ローマ帝国成立後の一時期、皇帝の大封臣たるラベンナ大司教の下で昔日の繁栄を若干取り戻したと考えられ、コムーネ(自治都市)としての成立はイタリアでももっとも早い時期に属する。1321年にはダンテがここで没した。15世紀にはベネチアの支配下に入るが、1509年教皇に返還された。ナポレオンによる制圧後、1815年に教皇に返還され、1860年イタリア王国に統合された。
[後藤篤子]
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…他方ローマを中心とする西地中海世界の美術は,476年西ローマ帝国が滅亡するころには量質ともに低下し,一地方的様式に近づいた(ボエティウスの象牙二連板,487)。ただし,ラベンナのように,東ゴートによる短期間の支配の時期を除いてビザンティンと長く強い連帯を維持した所では,5~6世紀にかけて,ビザンティン的傾向の強い数々の優作を生んだ(王妃ガラ・プラキディアの廟堂モザイク,450ころ)。またこの時期には,《ウェルギリウス・ウァティカヌス》(400ころ),《ミラノのイリアス》(500ころ)のようなみごとな挿絵入りの古代風写本が生まれている。…
…その源流ともいうべきものが上部シリアのドゥラ・ユーロポスの遺跡で発掘された壁画(3世紀前半)に認められるが,初期に絵画が発達したはずのシリア,パレスティナ地方には実物はほとんど残っていない。ユスティニアヌス1世を中心とする5~6世紀の黄金時代のものは,シリア,小アジア,ギリシア各地の装飾絵画(とくにモザイク)が8~9世紀のイコノクラスムやイスラム教徒の侵入などで,テッサロニキ,シナイ山などわずかな例を除いて,ほとんど姿を消したのに対し,北イタリアの都市ラベンナに豊富に残っている。ガラ・プラチディアGalla Placidia廟や大聖堂(正統派)洗礼堂などは5世紀のもので,古代的感覚がまだ多少とも認められるが,6世紀にはいってサンタポリナーレ・ヌオーボ聖堂やとくにサン・ビターレ聖堂において東方的な壮麗豪華な様式が十分な成熟をとげている。…
…バシリカ式教会堂ではおもにアプスや凱旋門型アーチ壁面,クリアストーリー(身廊の壁)に,また洗礼堂など集中式建築ではドーム天井や周囲の壁にモザイクがほどこされ,神学的なプログラムに従って,旧約・新約聖書の説話場面,キリストや聖人,預言者の像,象徴的な図像などが展開された。現存する4~5世紀の作品には,ローマ市ではサンタ・コスタンツァ廟(4世紀前半),サンタ・プデンツィアーナ教会(401‐417),サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の洗礼堂(461‐468),サンタ・マリア・マッジョーレ教会(432‐440)など,またその他の地方ではラベンナのガラ・プラキディア廟(424‐450),テッサロニキのアギオス・ゲオルギオス(5世紀初め)などのモザイクがある。 ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世時代の作に,ラベンナに残るサン・ビターレ教会(525‐547。…
※「ラベンナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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