ランケ(英語表記)Ranke, Leopold von

  • 1795―1886
  • Leopold von Ranke

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

[生]1795.12.21. テューリンゲン,ウィーエ
[没]1886.5.23. ベルリン
ドイツの歴史家。近代歴史学の創始者といわれる。ライプチヒ大学で神学,古典学を学んだのち,1818年フランクフルト・アンデアオーデルのギムナジウム教師,25年ベルリン大学助教授,34年同教授,41年プロシア国史編纂官。 59年バイエルン・アカデミー歴史学会会長。原典史料の客観的,科学的分析による近代科学としての歴史学の方法を確立した。また大学の歴史学ゼミナールの創始者でもあり,いわゆる「ランケ学派」の祖として多くの逸材を育てた。主『ラテンおよびゲルマン諸民族の歴史』 Geschichten der romanischen und germanischen Völker von 1494 bis 1535 (1824) ,『ローマ教皇史』 Die römischen Päpste,ihre Kirche und ihr Staat in 16. und 17.Jahrhundert (3巻,34~36) ,『プロイセン史』 Neun Bücher preussischer Geschichte (3巻,47~48) ,『世界史』 Weltgeschichte (81~88,未完) 。 54巻の全集 (67~90) がある。

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百科事典マイペディアの解説

ドイツの人類学者。L.v.ランケ(おい)。1886年ミュンヘン大学人類学教授。頭蓋研究大家で,南ドイツ人の頭蓋形状に関する研究などがあり,ドイツにおける人類学の確立に寄与した。
ドイツの歴史家。処女作《ラテンおよびゲルマン諸民族の歴史》(1824年)で認められ,1825年サビニーの推挙でベルリン大学に招かれ,約40年間同大学で講義。ヘーゲル哲学の影響を受け,16―17世紀におけるヨーロッパ近代国家の成立に関する多くの著述を発表。厳密な史料批判に基づく客観的な歴史記述の方法を確立し,近代歴史学の祖といわれる。また常に史実を世界史的観点から把握することに努め,大作《世界史》の著述にかかったが未完に終わった。政治的には保守主義に立ち,《歴史・政治雑誌》を編集し自由主義を批判した。大学で初めて史学演習を行い,ギーゼブレヒトジーベル,ワイツらのいわゆるランケ学派を育成。上記のほかに《ローマ教皇史》《近代歴史家批判》などの著書がある。
→関連項目ブルクハルト箕作元八ランケランプレヒトリッケルト

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世界大百科事典 第2版の解説

1795‐1886
ドイツの歴史家。1825年ベルリン大学歴史学助教授。ウィーン,イタリアへの研究旅行(1827‐31)から帰国後,《歴史・政治雑誌》(1832‐36)を編集。34‐71年ベルリン大学教授。その間,41年プロイセン国修史官,58年バイエルン学士院歴史学委員会会長。ランケは,ニーブールとともに近代歴史学研究法の創始者であり,《近代歴史家批判》(1824)によって史料批判的方法を確立した人である。また大学に歴史学演習を創設し(1833),歴史学教育法の模範をも形成した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ドイツの歴史家。チューリンゲンの地方都市ウィーエで、プロテスタント牧師の家系で弁護士だった名望家の子として生まれる。プフォルタ学院、ついでライプツィヒ、ハレ大学で神学、言語学を学び(1814~18)、卒業と同時にフランクフルト(オーデル河畔)のギムナジウム教官となった。処女作『ロマン的・ゲルマン的諸民族の歴史』(1824)が認められてベルリン大学員外教授となり(1825)、イタリアへの史料研究旅行後、『歴史・政治雑誌』(1832~36)の主筆となって歴史的保守主義を説き、七月革命に反対した。1834年ベルリン大学正教授となり(~1871)、以後プロイセン修史官、バイエルン学士院史学委員会長を兼任するかたわら、『ローマ教皇史』(1834~39)をはじめ晩年の『世界史』(1880~88、未完)に至るまで、宗教改革史やフランス、イギリス、プロイセン、ドイツの各国史その他の画期的大作を著し、旺盛(おうせい)な研究、教育活動を行った。

 彼は、プロテスタント思想、ロマン主義思想を基礎に「あらゆる時代は直接神につながる」と述べ、カトリック的および啓蒙(けいもう)主義的、ヘーゲル的歴史観に反対して、各時代、各民族の個性的特質とその質的発展重視を主張した(歴史主義)。また、歴史学の任務は「それが実際いかにあったかを示す」ことだと述べ、実用主義的歴史叙述を排して客観的歴史叙述を主張し、その基礎となる厳正な客観的歴史事実確定のための史料批判の方法を確立した。その理論は、西欧の政治的発展のみに視野が限定されて、社会的構造分析に欠け、またアジアがその前史または停滞社会と位置づけられているなどの問題点はあるが、科学的方法の確立と歴史主義に基づく広範な芸術的歴史叙述によって、彼は近代歴史学の確立者となった。その学風は、ワイツ、ギーゼブレヒト、ジーベルなどによって継承され、歴史学の一大潮流(ランケ学派)となった。

[岡崎勝世]

『ランケ著、鈴木成高・相原信作訳『世界史概観』(岩波文庫)』『村岡晢著『ランケ』(1959・有斐閣)』『林健太郎編『世界の名著 続11 ランケ』(1974・中央公論社)』

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367日誕生日大事典の解説

生年月日:1836年8月23日
ドイツの生理学者,人類学者
1916年没

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精選版 日本国語大辞典の解説

(Leopold von Ranke レオポルド=フォン━) ドイツの歴史家。ベルリン大学教授。厳密な史料批判と史実の客観的叙述を主張、近代歴史学の父と称される。著「ロマン的・ゲルマン的諸民族の歴史」「ローマ教皇史」など。(一七九五‐一八八六

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旺文社世界史事典 三訂版の解説

1795〜1886
ドイツの歴史家で,近代歴史学の父
1824年に『ローマ的−ゲルマン的諸国民の歴史』を著し,ベルリン大学教授に就任。史料を厳密に調べ,さらに客観的歴史研究方法と芸術的叙述とをもって,いわゆるランケ流史学を確立した。また,大学で初めて史学の演習を実施して多くの弟子をそだて,ランケ学派を開いた。著書は『世界史概観』(1888)など。

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世界大百科事典内のランケの言及

【世界史】より

…日本ではこのほか万国史といういい方があったが,国民国家の列挙という意味が強く今は使用されない。 世界史ということばの定着したのは,ドイツの歴史家ランケ晩年の弟子であるL.リースが1887年東京大学に招かれて講義してからではないかと思われる。現在われわれは全地球をおおう普遍的世界のなかにおり,世界は一つであることを日常的に体験しているが,ランケが晩年世界史を構想したときも,あらゆる国家は蒸気機関と電信によってごく密接に統一され,広い地球上にはなんら絶対的の分離はないという世界意識を述べている。…

【反宗教改革】より

…〈反宗教改革〉あるいは〈対抗宗教改革〉という表現は1776年にゲッティンゲン大学の法制史家ピュッターJ.S.Pütterが,プロテスタント化された領地に対するカトリック領邦君主の実力による再カトリック化の試み,という意味で初めて用いた。その際ピュッターは反宗教改革を個々のできごととして理解して複数形(Gegenreformationen)で表現していたのに対し,歴史家のランケは,1803年の《改革時代のドイツ史》で単数形(Gegenreformation)で用い,それ以来反宗教改革はしだいにひとつの時代概念となった。そして,16~17世紀のローマ・カトリック教会による反プロテスタント運動の時代に対して反宗教改革の概念を用いることが19世紀に一般化した。…

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