ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レオポルト2世」の意味・わかりやすい解説
レオポルト2世
レオポルトにせい
Leopold II
[没]1792.3.1. ウィーン
神聖ローマ皇帝 (在位 1790~92) 。ハプスブルク家の出身。マリア・テレジアの第3子で皇帝ヨーゼフ2世の弟。 18世紀啓蒙君主の一人で,イタリアの進歩的法学者 C.ベッカリーアとも交わり,その政治思想は兄ヨーゼフ2世よりも一層立憲主義的であった。 1765~90年トスカナ大公。 90年兄ヨーゼフ2世が嗣子のないまま没したため帝位についた。当時すでにフランス革命が勃発しており,ヨーロッパ政局は多事多端であった。そこでレオポルトは,トルコと和平を結び (91) ,革命の余波を防止するためプロシアと防御同盟を結んだ (92) 。その対外政策の基本はオーストリアの保全にあり,内政面でも領内異民族の融和に努め,動乱期にありながらハプスブルク帝国を安泰に保った。
レオポルト2世[トスカナ大公]
レオポルトにせい[トスカナたいこう]
Leopold II, Duca di Toscana
[没]1870.1.29. ローマ
最後のトスカナ大公 (在位 1824~70) 。ハプスブルク=ロートリンゲン家出身。 1824年父フェルディナンド3世を継いで大公に即位。自由主義的な政策をとり,48年には憲法の発布を認めた。 48~49年革命の過程で急進派の力が強まると一時ガエタに避難し,オーストリア軍の庇護を受けてフィレンツェに戻った。オーストリアの介入は議会の停止,憲法の廃止,かつての革命家たちの投獄にまで及び,55年オーストリアの占領が終ってからも,レオポルトの威信は回復されなかった。 59年オーストリアに対する第2次イタリア独立戦争が生じ,トスカナでも独立と統一を求める声が強まると,争いを好まず退位,引退の道を選んだ。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報