室町時代の臨済の禅僧。諱(いみな)は宗純,狂雲子とも号した。父は後小松天皇。この皇胤説には疑問をもつ人もあるが,当時の公家の日記にみえ,今日ではほぼ定説となっている。6歳のとき,臨済五山派の名寺である京都安国寺に入り像外集鑑(ぞうがいしゆうかん)についた。このとき周建(しゆうけん)と名付けられた。一休の初名である。周建は才気鋭く,その詩才は15歳のときすでに都で評判をえた。だが,その翌年,周建は権勢におもねる五山派の禅にあきたらず,安国寺を去り,同じ臨済でも在野の立場に立つ林下(りんか)の禅を求めて謙翁宗為(けんのうそうい),ついで近江堅田(かただ)の華叟宗曇(けそうそうどん)の門に走った。宗為も宗曇も,林下の禅の主流である大徳寺の開山大灯国師(宗峰妙超)の禅をついでいた。一休はこうして大灯の禅門に入った。五山の禅とちがって,権勢に近づかず,清貧と孤高のなかで厳しく座禅工夫し,厳峻枯淡の禅がそこにあった。宗為から宗純なる諱を,宗曇から一休という道号を与えられた。一休なる道号は,煩悩(ぼんのう)と悟りとのはざまに〈ひとやすみ〉するという意味とされ,自由奔放になにか居直ったような生き方をしたその後の彼の生涯を象徴するようである。
一休青年期の堅田での修行は,衣食にもことかき,香袋(においぶくろ)を作り雛人形の絵つけをして糧(かて)をえながら弁道に励んだという。そして,27歳のある夜,湖上を渡るカラスの声を聞いたとき,忽然と大悟した。この大悟の内容はいまとなってはだれにもわからない。やがて一休は堅田をはなれ,丹波の山中の庵に,あるいは京都や堺の市中で,真の禅を求め,あるいはその禅を説いた。つねに清貧枯淡,権勢と栄達を嫌い,五山禅はもとより同じ大徳寺派の禅僧らに対しても,名利を求め安逸に流れるその生き方を攻撃した。堺の町では,つねにぼろ衣をまとい,腰に大きな木刀を差し,尺八を吹いて歩いた。木刀も外観は真剣と変わらない。真の禅家は少なく,木刀のごとき偽坊主が世人をあざむいているという一休一流の警鐘である。一休は純粋で潔癖で,虚飾と偽善を嫌いとおした。かわって天衣無縫と反骨で終始した。きわめて人間的で,貴賤貧富や職業身分に差別なき四民平等の禅を説いた。これが彼の禅が庶民禅として,のちに国民的人気を得る理由となった。壮年以後の一休は,公然と酒をのみ,女犯(によぼん)を行った。戒律きびしい当時の禅宗界では破天荒のことである。いく人かの女性を遍歴し,70歳をすぎた晩年でさえ,彼は森侍者(しんじしや)と呼ばれた盲目の美女を愛した。彼の詩集《狂雲集》のなかには,この森侍者への愛情詩が多く見いだされる。1456年(康正2),一休は山城南部の薪村(たきぎむら)に妙勝寺(のちの酬恩庵(しゆうおんあん))を復興し,以後この庵を拠点に活躍した。この間,74年(文明6)勅命によって大徳寺住持となり,堺の豪商尾和宗臨(おわそうりん)らの援助で,応仁の乱で焼失した大徳寺の復興をなしとげた。酬恩庵の一休のもとへは,その人柄と独特の禅風に傾倒して連歌師の宗長や宗鑑,水墨画の曾我蛇足(そがじやそく),猿楽の金春禅竹(こんぱるぜんちく)や音阿弥(おんあみ),わび茶の村田珠光(むらたじゆこう)らが参禅し,彼の禅は東山文化の形成に大きな影響を与えた。彼自身も詩歌や書画をよくし,とくに洒脱(しやだつ)で人間味あふれた墨跡は当時から世人に愛好された。
〈昨日は俗人,今日は僧〉〈朝(あした)には山中にあり,暮(ゆうべ)には市中にあり〉と彼みずからがうそぶくように,一休の行動は自由奔放,外からみると奇行に富み,〈風狂(ふうきよう)〉と評され,みずからも〈狂雲〉と号した。だが,反骨で洒脱で陽気できわめて庶民的な彼の人間禅は,やがて江戸時代になると,虚像と実像をおりまぜて,とんちに富みつねに庶民の味方である一休像を国民のなかに生みだした。彼自身の著とされるものには《狂雲集》《自戒集》《一休法語》《仏鬼軍(ぶつきぐん)》などがある。
執筆者:藤井 学
一休の洒脱な性格とユーモラスな行状に関する伝承が近世に入ってから多くの逸話を作りあげた。その話は,実話もあろうが創作もあり,他の人の奇行やとんちに関する話を一休の行跡に仮託したものが多い。万人周知の多彩な一休像が世に伝えられる基本になったものは,1668年(寛文8)に刊行された編著者不明の《一休咄》4巻である。この本は刊行後たちまち評判となり,翌年に再版となった。1700年(元禄13)には5冊本があらわれ,さらに版を重ねた。《一休咄》では,高僧としての一休禅師よりも頓智頓才の持主としての一休の〈おどけばなし〉が主体となっている。小僧時代の一休さんのとんち話は巻一の〈一休和尚いとけなき時旦那と戯れ問答の事〉に記され,有名な一休和尚の奇行譚は各巻に見える。軽口問答や狂歌咄もある。地蔵開眼のときに小便をかけたり,魚に引導をわたしたりする話などは,近世以降広く人々に知られた。かくして一休は問答を得意とする風狂的な禅僧としてのイメージを強くし,江戸時代における人気は絶大なものとなった。《一休咄》以後,《一休関東咄》《二休咄》《続一休咄》《一休諸国ばなし》などが生まれ,ついに60余点にものぼる一休の逸話に関する本が出版されるに至った。一休の人気は近代に入っても衰えず,子ども向けの絵本や童話にも採用され,現代のテレビでも一休さんのアニメーションが人気番組となった。
執筆者:関山 和夫
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…一休宗純の詩集。上下2巻,別に続1巻。…
…霊瑞山と号す。通称は一休寺。寺伝によれば,鎌倉後期,大応国師南浦紹明(なんぽしようみよう)がこの地に創建した妙勝寺にはじまる。…
…宗丈は墨渓の子。父同様に一休に参禅し,その禅風の影響を強くうけた。墨渓や一休の高弟である墨斎らとともに,一休の肖像制作やその関係の画事,障屛画の制作等にたずさわったが,特に真珠庵創建に際し,その襖絵を描いて曾我派の画風をきわめた。…
…こうして室町期の大徳寺は,権勢に密着して世俗化し坐禅を捨てて漢詩文や学問の世界に沈潜した五山の禅を鋭く批判し,みずからは兀々(ごつごつ)と坐禅一道に徹して峻厳枯淡の大灯の禅を護持して,当時の禅宗界に独自の立場をうちたてた。応仁の乱で炎上したが,乱後に住持となった一休宗純は,その反骨の大徳寺禅を堺の町衆社会にひろめ,彼ら豪商の外護で方丈や法堂(はつとう)など伽藍の復興をなしとげた。 また村田珠光は,侘茶の創始にあたって一休に参禅し,これ以後,茶人の大徳寺禅への傾倒が盛んになり,当寺は近世侘び茶の隆盛の結節点の役割を果たし,大徳寺の〈茶づら〉と世間に評されるようになった。…
※「一休」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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