一木喜徳郎(読み)イチキキトクロウ

デジタル大辞泉 「一木喜徳郎」の意味・読み・例文・類語

いちき‐きとくろう〔‐キトクラウ〕【一木喜徳郎】

[1867~1944]憲法学者・政治家静岡の生まれ。ドイツ留学後、東大教授。のち、文部内務・宮内各大臣、枢密院議長などを歴任天皇機関説右翼から攻撃され、二・二六事件後政界から引退した。

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精選版 日本国語大辞典 「一木喜徳郎」の意味・読み・例文・類語

いちき‐きとくろう【一木喜徳郎】

法学者、政治家。静岡県出身。岡田良平の弟。東京帝国大学教授。文部、内務、宮内大臣枢密院議長などを歴任。天皇機関説論者とみられて暴漢に襲われた。慶応三~昭和一九年(一八六七‐一九四四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「一木喜徳郎」の意味・わかりやすい解説

一木喜徳郎
いちききとくろう
(1867―1944)

明治から昭和時代の憲法学者、官僚政治家。慶応(けいおう)3年4月4日、静岡県掛川(かけがわ)の岡田良一郎次男に生まれ、のち一木家を継ぐ。1887年(明治20)帝国大学法科大学を卒業、内務省に入る。1890年ドイツに留学、帰国の翌年1894年から内務書記官兼任のまま法科大学教授となり、天皇機関説の立場から国法学を講じ、門下から美濃部達吉(みのべたつきち)らが輩出した。1900年(明治33)貴族院議員勅選され、法制局長官、内務次官などを歴任。1914年(大正3)第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣文部大臣、翌年内務大臣となる。1917年枢密顧問官、1924年枢密院副議長、翌年宮内大臣となり、1934年(昭和9)枢密院議長となる。この間元老重臣グループの一員として重きをなしたが、翌年の天皇機関説事件で右翼から攻撃され、1936年枢密院議長を辞任した。昭和19年12月17日死去。

[由井正臣]

『野口明編『一木先生回顧録』(1954・一木先生追悼会)』『家永三郎著『日本近代憲法思想史研究』(1967・岩波書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「一木喜徳郎」の意味・わかりやすい解説

一木喜徳郎 (いちききとくろう)
生没年:1867-1944(慶応3-昭和19)

公法学者,官僚,政治家。男爵。静岡県出身。岡田良一郎の次男で,一木家の養子となる。帝国大学法科大学卒業後内務省に入り,地方制度研究のためドイツ留学。帰国後1894年東京帝国大学教授兼務。天皇機関説を提唱。第1次桂太郎内閣の法制局長官,第2次桂内閣で内務次官に就任。この間貴族院勅選議員。その後,第2次大隈重信内閣の文相,内相を歴任し,17年から枢密顧問官。日本の地方制度の育成者の一人で,山県有朋の信任を得た。山県の死後,元老西園寺公望にも認められ,24年枢密院副議長,宮内相を経て,34年枢密院議長。しかし,天皇機関説問題で右翼の攻撃の矢面に立たされ,36年の二・二六事件後,すべての官職を辞退した。なお,実兄岡田良平の没後,大日本報徳社社長をつとめた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「一木喜徳郎」の意味・わかりやすい解説

一木喜徳郎
いちききとくろう

[生]慶応3 (1867).4.4. 遠江
[没]1944.12.17. 東京
明治・大正・昭和期の法学者,政治家。掛川藩士岡田良一郎の二男,のち一木家養子。1887年帝国大学法科大学を卒業後内務省に入ったが,1890年休職しドイツに私費留学。帰国後の 1894年から法科大学教授を内務省と兼勤し,アカデミズム憲法学を確立した。第1次および第3次桂太郎内閣では法制局長官,第2次大隈重信内閣では文部大臣,次いで内務大臣。この間 1900~17年,貴族院議員に勅選。さらに枢密顧問官,枢密院副議長を経て,1924年宮内大臣に任じられ,1933年退官後に男爵叙爵。1934年には枢密院議長となったが,軍部や右翼より天皇機関説論者として攻撃され,1936年二・二六事件の終局後退任。以後帝室経済顧問を務めた。没後刊行された著書に『一木先生回顧録』(1954)がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「一木喜徳郎」の解説

一木喜徳郎
いちききとくろう

1867.4.4~1944.12.17

明治~昭和前期の法学者・官僚・政治家。遠江国生れ。父は岡田良一郎。東大卒。内務省に入り,ドイツ留学後に東京帝国大学教授を兼任。1900年(明治33)貴族院議員。法制局長官などをへて,14年(大正3)第2次大隈内閣で文相兼内相となり,17年枢密顧問官。宮内大臣を辞してのち,34年(昭和9)枢密院議長として元老・重臣に期待されたが,天皇機関説問題で政友会・右翼らに攻撃されて辞任した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「一木喜徳郎」の解説

一木喜徳郎 いちき-きとくろう

1867-1944 明治-昭和時代前期の法学者,政治家。
慶応3年4月4日生まれ。岡田良一郎の次男。内務省にはいり,ドイツに留学後,母校帝国大学の教授。憲法学者として天皇機関説をとり,弟子に美濃部(みのべ)達吉がいる。明治33年貴族院議員,のち第2次大隈内閣の文相,内相となる。枢密顧問官。宮内相。枢密院議長。昭和19年12月17日死去。78歳。遠江(とおとうみ)(静岡県)出身。

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世界大百科事典(旧版)内の一木喜徳郎の言及

【桜田門事件】より

…1932年1月8日天皇が代々木練兵場でおこなわれた陸軍始観兵式の閲兵をおえ,宮城へ帰る途中,桜田門の警視庁前にさしかかったところ,群衆のなかから爆弾を投げつけられた。爆弾は一木喜徳郎宮内大臣の馬車に軽微な損傷をあたえただけで,その後方の天皇の馬車には何の異常もなかった。爆弾を投げたのは朝鮮人の土木労働者李奉昌で,日本で差別や虐待をうけたことを憤り,上海で朝鮮独立党の金九から爆弾を渡され,天皇を暗殺しようとして失敗したものであった。…

【地方改良運動】より

…日露戦争後,多大の戦費による財政破綻の立直しと,社会矛盾の激化,講和への不満などで動揺した民心を,国家主義で統合することを目ざして内務省主導で進められた官製運動。桂太郎内閣の内務大臣平田東助,内務次官一木喜徳郎らにより推進され,1909年以降全国の町村吏員を集めて各地で開催された地方改良事業講習会にちなんで,地方改良運動と呼ばれた。 平田ら国家官僚は,日露戦争勝利後の日本は欧米列強に伍して経済戦を戦わねばならず,したがってそれに耐えうる国内体制の整備・強化を早急に実現することが戦後の課題であると規定した。…

※「一木喜徳郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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